一度だけ(XANXUS夢)

九代目に引き取られた幼いザンザスは、九代目の娘であり、自分の姉である少女と出会う。自慢の姉。大好きな姉さん。やがて彼女は同盟バレストゥラの若きボスに嫁ぐためにボンゴレの屋敷を出た。
※ヒロイン(ザンザスの姉)の死亡の描写があります。
 
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 顔は泥だらけ、すりむいた膝がひりひりして痛かった。
 けれどもどんな痛みも、庭一面に咲きほこる花を見れば薄れてしまった。
 太陽に似た、黄金色の花――それは無数の小さな花が寄り集まり、大きな花びらに囲まれることでひとつの花としてなりたっているのだと、隣にいた彼女が教えてくれた。
「きれいな花がいっぱい咲いたから、きっとお父様も喜んでくれるね」
 そう嬉しそうにほほえんだ彼女の顔を、ザンザスはまだ覚えている。

     1
 
 初めて彼女に出会ったのは、ザンザスがまだほんの子どもだったころ、偉大なるボンゴレへ引きとられたその年の春のことだった。
 引きとられたばかりでまだ右も左もわからない子どもだったザンザスにとって、姉である彼女、ハナコの存在は大きかった。そのときのザンザスは八つ、ハナコは七つ年上の十五歳。とっくに成人している従兄弟のエンリコやマッシーモ、若くしてヴァリアーのボスの座に就いたテュールに比べ、まだ歳の近い彼女は、ザンザスにはいくぶん親しみやすく感じられたのだ。
 それでも、姉弟として顔をあわせたばかりの時にはまださほど親しいわけではなかった。
 まさか自分に姉がいるなんて思ってもいなかったし、せっかく親切にしてもらっても、どういうわけか、恥ずかしいような申し訳ないような気分になってしまうのだった。
 それに、なにか自分と違うような気がしてならなかった。彼女といっしょにいると、人の力ではとうてい覆しようのないもの、あまりに大きすぎる何かを感じてしまうのだ。それがなんであるのかは当時のザンザスには分からなかった。ただ、それがひどく自分を不安にさせていたことだけは、今でもはっきりと覚えている。
 父親であるはずの九代目も忙しくしているし、なんとなくよそよそしいし、頼りになるのはやっぱり母さんだけなのかもしれない、そう考えたザンザスは屋敷でも意識的にひとりで過ごしていることが多かった。周囲の人間もそれを咎めたりはせず、すばらしい資質と炎を持つ彼を『九代目の実子』として手ばなしで称賛する一方、母親とともにスラムから来たというその出生を疎み、心から愛そうとはしなかった。
 
 その年の初夏、新しい環境にいつまでたっても慣れられないことにむしゃくしゃしていたザンザスは、広い庭で、胸の鬱憤を炎に変えて気晴らしをしていた。
 炎だけはいつでも優しく彼をなぐさめてくれた。たとえどんなことがあったとしても、この炎こそが九代目の実子たる証、それだけは誰にも覆すことができないのだということを彼は知っていたのだ。ただ、その日はあまりに気がくさくさしすぎていた。
 苛立ちが自制の心を失わせた。
 行き場をなくした怒りは手の中でふくれあがり、一気にときはなたれ、大きな弧を描いて地面に炸裂した。
 まばゆい光が視界を埋めつくす。思わず顔をかばっていた。
 ……光がやみ、おそるおそる指を開いたとき、美しかったであろう花壇は、目もあてられないほどめちゃくちゃに潰れていた。
 嫌な汗が背中を流れた。自分が壊したのだと思うと恐ろしい気持ちで胸がいっぱいになった。うずくまって煉瓦のかけらを手にとり、くっつけてみようとしたが、だめだった。必死に土を寄せ集め、倒れてしまった開きかけの花をもういちど立ちあがらせようとしたが、へなへなと倒れていくばかりでとても元に戻りそうにない。割れた煉瓦で指が傷つき、ひりひりしはじめた。それでも諦められず、何度も何度も挑戦しているうちに涙があふれてきたが、そんなものをぬぐっている場合ではなかった。
 ここは自分のためにある場所なのだと思っていた。炎を宿しているからといって怖がられてきた、ひとりぼっちだった自分が、やっと見つけたたいせつな居場所のはずだった。それなのにぼくは、とんでもないことをしてしまった。ただでさえ疎まれているやつが、ひどいことをしでかしてしまったのだ。
 なんてだめなやつ。きっともうどこにもいられない。
 ぼくは追い出されてしまう。ぼくだけじゃない、きっと母さんまで、またあの寒くてひどいにおいのする家に追い返されてしまう。
 もうあんなところには戻りたくない。ここにいたい。ここで、父さんや母さん、姉さんといっしょに、なににも怯えることなく生きていたい。
 それなのに――
 ぼくは今度こそ本当に、ひとりぼっちになってしまうかもしれない――……!
 炎のはなった轟音に気がついたのか、だれかがばたばたと駆けてきた。
 ぎくりとしてザンザスは立ちあがった。泥だらけの手足を見下ろし、怖くなってその場から逃げだそうとする。
 けれど、ごつごつの石がその邪魔をした。つまずいたザンザスは膝をすりむき、とうとう、声をあげて泣きだした。
「ザンザス?」
 やってきたのは、姉のハナコだった。
 ハナコは泣いているザンザスと壊れた花壇を見比べると、すぐさまザンザスをおぶって走りだした。ザンザスはびっくりして何か言おうとしたが、涙のせいでうまく声にならず、何も言わずにいっしょうけんめい走りつづける姉の肩を叩いて、ひたすら泣きじゃくることしかできなかった。
 九代目のところへ連れていかれ、断罪されるのだ、追いだされてしまうのだと思っていた。
 けれども辿りついた先にいたのは九代目ではなく、白くて清潔そうな白衣を着た、ボンゴレ専属の医師だった。
 しみる薬品をぬりたくられ、包帯でぐるぐる巻きにされた。それほど深くない傷はほうっておかれた。これぐらいで泣いていちゃあ十代目にはなれないよと言って、しわだらけの顔のやさしそうな医師はザンザスの頭を撫でたのだった。
 まだわけが分からないでいるザンザスをよそに、ハナコはぺこりと礼をして出ていってしまった。
 あわてて医務室を飛びだし、後ろから追いかけてみると、彼女はひとりで、あの壊れた花壇の修復にかかろうとしていた。驚いたザンザスが声をかけることもできずに遠くから眺めていると、庭師が鼻歌をうたいながらやってきて、花壇のありさまに怒ったようになにか怒鳴りはじめた。
「――違う!」
 ザンザスはおもわず叫んでいた。
「姉さんじゃない! それを壊したのは、ぼくなんだ!」
 数日後、黄金色の花はじつにたくましく、ぴんと背を伸ばしていた。
 ザンザスは泥だらけの顔をあげて、姉と、笑顔で汗をぬぐっている庭師を見た。ふたりとも嬉しそうな顔だ。
 めちゃくちゃだった花壇はあれから三人の協力で片づけられ、そこには、庭に咲いているほかのと同様、きれいな黄金色の花がふたたび植えられた。ザンザスの炎によってしなびてしまいそうになっていたにもかかわらず、もうそのあとかたもなく、見事なばかりに咲きほこっている。いまや庭いちめんの黄金色の美しさに、ザンザスは、作業中に何度もこけてすりむいた膝の痛さも忘れてしまいそうなほどだった。
「きれいな花がいっぱい咲いたから、きっとお父様も喜んでくれるね」
 そう言ってハナコは嬉しそうにほほえんだ。
 
 ハナコとザンザスが姉弟として仲を深めたのは、それからだった。
 ハナコはハナコで弟にどう接しようか悩んでいたらしく、ザンザスもザンザスで悩んでいたので、それが分かるやいなや、ふたりの距離は急速にちぢまった。
 明るくやさしいハナコは、ザンザスの自慢の姉になった。自慢の姉。憧れの姉。大好きな姉さん。
 姉弟なのにまったく似ても似つかないという点は、しばしば周辺の人間のからかいの対象になった。
 とりわけ従兄弟のエンリコとその親友テュールはおもしろがってこれを冷やかし、ザンザスとハナコが歯をむいて怒ってみせることもよくあった。けれどザンザス自身、ときどき不安になることがあった。
 どうして自分は姉と似ていないのだろう。
 鏡にうつる自分の顔とハナコの顔はまったくといっていいほど似ていない――……いや、彼女だけではない、親であるはずの九代目や母親にすら、似ていないのだ。
 自分は何者なんだろう。ときどき不安になった。
 そう思うときには、やはり炎だけが、確かなものとして感じられたのだった。

     2
 
 十一になったころ、なんとなく異性に興味を持つようになった。
 そのときのザンザスにとって、女というのはどこか神秘的で謎めいた存在だった。二十五になるエンリコとテュールが酒を飲みながら女のどうこうについていろいろと語ってくれたので、夜に男女が人目をしのんでなにをしているか、ザンザスにもおぼろげに理解できたが、それが自分の身の上とどう関わるのかとなるとてんで見当がつかなかった。
 姉さんはどうなのだろう、とときどき考えた。
 姉のハナコに関する、そういう話は一度も聞いたことがなかった。ただ自分が聞いていないだけで、もしかしたら誰か好きな人がいるのかもしれないが……そう思うとすこし胸が痛くなった。彼女がどこか遠いところへ行ってしまいそうな気がしたのだ。まさか今日明日にいなくなることはないだろうが、ハナコももう十八、好きな人のひとりやふたりいたってちっともおかしくなかっただろう。
 それだけではなく、彼女を好きになる人物が現れてもなんら不思議でないはずだった。
 ハナコは美しい。そして優しい。すくなくともザンザスは、そう感じていた。
 その美しいハナコを好きじゃないやつなんているのだろうか? エンリコやテュールは? マッシーモは? 歳の近いフェデリコはどうなのだろう?
 考えれば考えるほどわからなくなった。もし彼らのうち誰かがハナコと結婚したら、と思うと、驚くほど胸がむかむかした。
 でも、もし本当にそうなったら――……
 
 ザンザスが十四になったとき、驚くような出来事が起きた。
 ヴァリアーのボス・テュールと副隊長オッタビオがザンザスの教育にあたることになったのだ。そのためにザンザスは本部を出ていかなければならなかった。帰ってこられるのは特別な行事があるときと、テュールや九代目からお許しが出たときだけだとされた。さびしかったが、十代目になるためにもそうしなければならなかった。
 そして姉のハナコは、ボンゴレの同盟であるバレストゥラファミリーの若きボスと交際することになった。ほとんど結婚がきまったようなものだった。
 
 別れの夜、ザンザスはハナコの部屋を訪ねた。
 姉はなんだか元気がないように見えた。心配するザンザスに対していくらハナコがなんでもないふうにふるまっても、弟としてずっとそばにいたザンザスにはやはり分かってしまうのだった。
 彼女はきっと不安なのだ、とザンザスは思った。――本当に自分が愛されるのかどうか、心配なのだ。
 血縁的に考えれば、ハナコはブラッドオブボンゴレだった。けれども男系継承をとるボンゴレでは、いくつかの例外を除いて女がボスになることは基本的にないといってよかった。例外というのは、男系男子の血を継いだ直系の女子がいて、ほかに継承者がひとりとしていないというかなり特殊な状況である。九代目の姉であるダニエラは、七代目と、まだ幼かった九代目のあいだを『繋ぐ』という役割で八代目のボスになり、そして死ぬまでだれとも結婚しなかった。子どももつくらなかった。女は子どもを産んで一人前とされた時代の、それが彼女の選択だった。
 組織の継承よりも、ハナコは恋すること、人を愛し、その人と共に生きていくこと選びたがっているようだった。
 それでも彼女がブラッドオブボンゴレである事実は変えようがない。それは一生彼女についてまわるものなのだ。
 自分ではなく『ブラッドオブボンゴレ』が愛されるのではないか、それを考えて彼女は不安になっていたのだった。
「心配しなくていい」
 ザンザスは座るハナコのそばにひざまずき、安心させるようにその手をとった。
「ブラッドオブボンゴレであるかないか関係なく、姉さんはじゅうぶん魅力的だ。少なくともオレは、そう思う」
「ありがとう、ザンザス」
 ハナコはほほえんで、出会ったころよりずっとたくましくなったザンザスの肩に顔をうずめた。
 姉弟同士、不安なときには互いに何度もそうしてきた。姉の身体が震えているのを感じとり、ザンザスの胸は痛んだ。
「ザンザスは優しいね」
「姉さん」
「――姉弟じゃなければ、わたし、ザンザスと結婚したかったな……」
 ささやきほどのほんの小さな声だったが、その言葉は妙にザンザスの耳にこびりついて離れなかった。
 
 その次の年、ザンザスはハナコの結婚式に出席した。
 まばゆい純白のウエディングドレスに身をつつんだ彼女は、ただ美しかった。
 同盟ファミリーの重鎮が多数集まるなか、彼女だけがただひとり、血もマフィアも関係なく明るく輝いているようにザンザスには見えた。
 銀食器一式と、姉の大好きなあの黄金色の花を手折って贈った。それがその時のザンザスにできたせいいっぱいの贈り物だった。
 夫となるバレストゥラのボスは人のよさそうな顔をしていたが、それ以外のことはあまり覚えていない。ただ、これからあいつが姉をひとりじめできるのだなと思うと、胸が嫉妬に似たどろどろした感情でつまった。
 
 十五のとき、ザンザスは思わぬかたちで彼女と再会した。
 生まれた子どもを見せにきてくれたのではなかった。彼女はただひとり、夫に告げることもなく、逃げるようにヴァリアーの屋敷へ駆けこんできたのだ。このことは九代目にも秘密とされた。彼女が来たことを知っているのは、対応したほんの数人の隊員とテュール、オッタビオ、そしてザンザスだけだった。
 
 薄暗い部屋でハナコは泣いていた。
 遠慮がちに入ってきたザンザスの存在に気がついて、おびえながら顔をあげる。頬のあざと涙のあとが痛々しかった。
「ザンザス、わたし……」
「姉さん」
 なぐさめたいと思い、ザンザスは手をのばした。飛びこんできた姉の背中にしっかりと腕をまわす。
 ハナコの話すとぎれとぎれの内容から、ザンザスはほとんどを理解した。
 長いあいだ子どもができなくて不安だったこと。自分は子どもができない体質なのだと分かったこと。それを知った夫がひどく怒り、あちこちに女をつくってどうにか自分の血を継がせようとしていること。そして、彼はハナコより、ハナコの中に流れるブラッドオブボンゴレを手にいれることを望んでいたこと……
 もしこの場にバレストゥラの人間がいたら、殺してしまいかねないだろうとザンザスは思った。
 なにかをこの手で引き裂き、殺さなければ、怒りがおさまりそうになかった。その怒りを爆発させることなく、内側に抑えこんでいられたのは、ひとえに大切な姉が、守るべきものとして自分のそばにいるからだった。
 
 長い時間を抱きあって過ごした。
 涙を流しつくしたハナコは、ザンザスの肩に顔をうずめ、はっきりと言った。
「――わたし、あなたと結婚したかった……」
 その言葉にザンザスはひどく動揺した。以前に一度聞いたことのある言葉だったが、彼女が夫に傷つけられて逃げてきた今、それは重々しい響きをもってザンザスの胸に届いた。
 ただでさえ、ずっと憧れてきた人なのだ。美しく優しい女性。彼女と結ばれる男に嫉妬すらした自分が、この言葉に揺さぶられないはずがなかった。
「昔から思ってた。ザンザスとずっと一緒にいられたらいいのに、ザンザスと結婚できればいいのにって」
「だけど、姉弟は結婚できない」
 ザンザスは言ったが、震えた声では苦しまぎれのようにしかならなかった。
「じゃあ、もし姉弟じゃなかったら? ザンザスはわたしと結婚してくれた?」
 ハナコがばっと顔をあげた。
「わたしは、きっとあなたを選んでた。ほかの誰でもなく、あなたを」
 目にいっぱいの涙をためて、すがるような声で言った。その顔に少女のころのおもかげはない。それは美しい、女の顔だった。
 ザンザスは視線を背けた。これ以上目をあわせていたら、おかしくなってしまいそうだった。喉がずきずきする。身体が煮えたように熱い。言いようのない想いに胸がはちきれてしまいそうだ。
 この感情はなんだ?
 ……オレは、姉さんを愛しているのか?
 
(――姉弟じゃなければ、わたし、ザンザスと結婚したかったな……)
 
 ふいに恐ろしくなり、ザンザスは姉の身体をそっと押しはなした。
 涙にぬれた目が見あげてくる。ザンザスは首をふり、押し殺した声でささやいた。
「姉弟は結婚できない。姉さんだって知ってるはずだろう」
「知ってる。分かってる。でもできるの、ザンザス。だってわたしたち、本当は――」
 唇が重なった瞬間、時間が止まったような気がした。
 
 ……ほんの一瞬の後、ふたりはそっと唇を離した。
 
「ごめんなさい」
 ぬくもりと、ほんの少しの罪悪感を残して、彼女は去った。
 
 ハナコがあの時なにを言おうとしていたのか、今なら分かるような気がする。
 ハナコとザンザスは血のつながった姉弟ではない。彼女はそれを知っていたのだ。
 もうすこし早く真実を知っていたら、彼女の手をとり、どこか遠いところへ逃げていただろうか?
 今でもふいにそんなことを考える。
 だが、考えたところでさして意味があるわけではない。
 ザンザスが眠っていた八年のあいだに、バレストゥラファミリーは敵対マフィアの襲撃を受けて壊滅していた。
 人づてに聞いた話では、バレストゥラのボスは白昼堂々射殺され、ハナコは、夫を守るかのように彼に覆いかぶさって死んでいたらしい。
 眠りから覚めてすぐ、姉の最期を知った。
 悲しみはなかった。涙も出てこなかった。死よりもなお暗い、永遠にも思われた八年の歳月が、怒りと憎悪以外のあらゆる感情を彼から奪いとっていた。

     3
 
 指輪争奪戦から数年、ザンザスは、養父である九代目とようやく和解した。
 だが、それで全てが解決したわけではなかった。彼がはたらいた不正と不義と比較してあまりに甘すぎる処罰に、内外からいくつも不満の声があがったのだ。彼の今までの行いは九代目実子という名目があったからこそ許されていたのであり、九代目と彼のあいだに直接的な血の繋がりがないと分かった今、許すことはとうてい不可能である、というのが彼らの主張だった。
 不和をとりのぞくために、ザンザスはいっそうの誠意と自省の意を示さねばならなかった。屈辱といえる処遇にも黙って耐え、静かに時を待ち続けた。
 
 そのようにして過ごしていたある年の初夏、ザンザスは街はずれの小さな墓地に赴いた。
 ようやく許された、義姉との再会だった。
 
 墓碑に彫られた名前と、彼女が生きていた歳月をそっと指でなぞる。
 あれから十数年にもなるのか、とひとりごち、彼女が大好きだったあの黄金色の花を手向けた。
 共にいられなかった時間を埋めるように、しばらくそこにたたずんでいた。
 彼女の記憶、おもいで、思い返せるかぎりのことを思い返した時には、すでに日が移ろって夕刻近くになっていた。
(……姉さんは、本当に死んだのだろうか?)
 かがみこみ、そっと墓石をさする。
 姉がこの世からいなくなってしまったことは理解できた。だが、なんとなく腑に落ちない。彼女の墓を目の前にしているというのに、感情らしい感情がなにもわいてこないのだ。家族が――あんなに慕っていた姉が死んだというのに、涙ひとつ出てこないとは。まるで人形のようだ、とザンザスは思った。
 八年の沈黙のうちに感情を失い、怒りも憎しみもほとんどなくなった今、彼の内にあるのは虚無だけだった。なにもかもが遠く感じられる。嬉しさ、悲しみも、愛も――目の前にあるはずの死すらも。
「おや、あなたは……」
 耳慣れない声にふりかえると、老齢の男が荷車を押して立っていた。
「そこに眠る方のために、祈ってくれたのですね」
「あなたは?」
「この共同墓地の管理をやらせていただいている者です。なに、その人のために祈りに来てくれる人が年々減っていくのがさびしくてねぇ。最初は本当にたくさんの人が来てくれていたんですけど、今じゃめっきり少なくなってしまって」
 人なつっこそうな笑みをうかべ、男はゆるゆると頷いた。
「見てのとおり先の短い老いぼれでね、老後の楽しみといったら、ここに来てくれる人たちと話すことぐらいで。そこに眠っているお人は、確かまだお若かったね。二十過ぎぐらいだったかな。きっとお友達も多かったんだろうねぇ、本当にいろんな人が訪ねてきてくれていたんですよ。印象深い人たちばかりだったから、わしもよく覚えている」
 老人は遠い日を懐かしむように目を細めた。
「一度、真っ黒い服を着た人たちがたくさん来てくださったことがあったんですよ。そのなかにいた、黒髪の精悍な顔つきの方が、地面に頭こすりつけて声をあげて泣いてらしたのが印象的でねぇ。確か名前はエンリコとかいったかな。彼もそれから数年は来てくださっていたんですが、なにがあったのか……いやいや、すみません。こんな話をあなたにしても仕方がありませんね」
「いえ」
 ザンザスは首をふった。「お話していただけて――とても嬉しく思います」
「それはよかった」
 老人はにこっと笑った。
「そうそう、毎年来てくださってる方がいますよ。私と同い年ぐらいの男の方でね。今年はまだだったかな?」
 もしかしたらお知りあいかもしれませんね、と笑うと、老人は用具の入った荷車をがちゃがちゃ鳴らしながら敷地の奥のほうへ去っていった。
 エンリコ、か。
 今になって考えてみると、彼もまた、ハナコのことを好いていた人間のひとりだったような気がする。もしエンリコがハナコをめとっていたら、彼女は今もよき妻として生きていただろうか。それとも、抗争で死んだというエンリコをかばうようにしてやはり死んでいたのだろうか――裏切られても、バレストゥラの妻として、最後の最後まで夫を守ろうとしたように。
 ザンザスはもう一度だけ墓碑に祈りをささげ、立ちあがり、ふいに横を向いた。
 夕日に照らされた道に、長く伸びてくる影があった。
「……父さん」
「まだ、そう呼んでくれるのか」
 目を細め、九代目は言った。わきに持っていた花束を娘の墓石に置き、腰をかがめ、手を組んで祈りを捧げる。
「護衛もなしに来たのか」
「ここに来るときはいつもひとりさ。あまり大人数で来ても、うるさくしてしまうだけかと思ってね」
「だからといって」
 言いかけて、ザンザスははっとした。義父の背中が曲がりはじめていることに気がついたのだ。そればかりではない、髪も白く薄くなり、手足は以前に増して細くなっている。彼はこんなにも老けていただろうか? 年をとってはいても、つい前まで元気に過ごしていたような気がするのに?
 九代目がよろめくように立ちあがろうとする。ザンザスは思わず、手を伸ばしていた。
 差しだされた手をじっと見て九代目は驚いたような顔をしていたが、ザンザスが無言で顎をしゃくると、うなずき、そっとその手を握った。
「ありがとう。ザンザス――わが息子」
 支えられながら立ちあがり、父はそっと息子の手を叩いた。
「おまえにはいろいろ苦しい思いをさせてきたな。私やハナコと血の繋がりがないと知ったとき、辛かったろう。本当にすまなかった。どのように詫びれば許してもらえるか……」
「もういい」
 ぶっきらぼうに言って、ザンザスは父から目をそむけた。
 顔をあわせるたびに謝罪の言葉を述べようとするのは、父親らしいことをしてやれなかったことを悔やんでいる、彼なりの優しさなのかもしれなかった。だが、あんなにも強く、誇りたかかったはずの父が、謝罪のためとはいえ、老いてやつれた表情で頭を下げる姿を、見るのは辛かった。
 ザンザスはぎくりとして胸に手をあてた。辛い?
 感情を失った、人形のようなオレが?
「だが、私は本当に、おまえたちに悪いことばかりをしてきた」
 九代目は娘の墓碑に視線を落とした。
 その目にこもった哀しみの色を見ると、わけもわからずザンザスの胸は痛んだ。
「娘が死んで、もう十年以上が過ぎた。今なら言っても構わんだろうと思う。……娘は――ハナコは、おまえを愛していたような気がするのだ。弟としてではなく、男として。力だけなら誰よりも強い素質をもった子だったから、もしかすると、おまえとのあいだに血の繋がりがないことに気付いておったのかもしれん」
 そげた頬に夕日と影がさしかかる。
「おまえを愛する、ハナコのその想いが正しかったのかどうか私にはわからんが――……もっと早く気付いていたなら、せめて外に嫁がせることなく、おまえのために働けるようにさせてやれていたものを」
 義父のあごの細い顔が急にしおれていくような錯覚にとらわれて、ザンザスはまばたいた。
 死、という言葉が頭をよぎった。死。虚無。
 彼もまた、自分の前からいなくなってしまうのだろうか? 抗争で死んだエンリコや、夫をかばうようにして死んだハナコのように?
 
 最後の口づけのぬくもりが、ふいに唇によみがえった。
 ザンザスは口元に手をやり、そこに触れた確かなあたたかさと、泣いていた姉の顔を思いかえした。
 ――彼女はもういない。怪我をした自分をおぶってくれた少女、暗闇のなかで抱きあい、ただ一度だけ口づけをかわした女性は。
 
 視界が曇り、枯れたとばかり思っていた涙があふれてきた。
 あわてて目元をこすったが、止まらなかった。涙はあとからあとから流れてきて、頬にいくつも熱い筋をつくった。
 気がついた九代目が、ザンザス、と声をかける。
 ザンザスは顔を覆い、声にならない声で姉の名前を呼んだ。遠い昔に置きざりにされていた感情がどっと押し寄せてきた。
(オレはハナコを尊敬していた。愛していた。愛していたんだ、姉さん)
 うずくまる息子の肩に、九代目はそっと手を置いた。
 日が暮れ、闇が降りてきた。風が吹いて過ぎる。墓の前に手をつき、慟哭する男のかたわらで、美しい黄金の花びらが静かにゆらめていた。

     おわり
 
 TITLE:vertigeより「一度だけ」
 DATE : 2008.8.25

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