猫のいる庭

ブラバンダーやガナッシュが守護者になるよりも前、ガナッシュがブラバンダーに出会った頃の話。
散歩中に聞こえてきた謎のささやき声を追った先にガナッシュが見たのは、無表情で無口な「雨の守護者」候補のブラバンダーだった。
※ブラバンダーが剣士(テュールの弟子)という設定です。

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「Guten —— gute Nacht——」
 その声が聞こえたのは、ガナッシュが休憩がてら屋敷の庭をぶらぶらと歩いていたときだった。
(……誰だ?)
 彼は慎重にあたりを見回した。
 考えごとをしているうちに、庭のかなり奥の方まで来てしまっていた。普段は人の立ち入りも少なく、鳥のさえずりと、庭を大きく横切って流れる人工の小川のせせらぎくらいしか聞こえないような場所である。声はとぎれとぎれに響いてきたかと思えばすぐに消え、そしてまたどこからかゆっくりと現れて木々のあいだを反響した。ガナッシュは首をすくめ、きょろきょろと落ちつかなげに視線をさまよわせた。
 ちくしょう。まるで幽霊の声みたいだ。
 それにイタリア語じゃない!
 なんだか薄気味悪いし、さっさと仕事場に戻っちまおうか。けれどもあの怒りんぼうのコヨーテの顔を見るにはまだ気がくさくさしすぎていたし、それに九代目の雷の守護者である自分には——いや、九代目の雷の守護者になるという目標を掲げる自分だからこそ、ファミリーの脅威になるものであれば一手に引き受ける義務がある。この謎の声の正体をつかめぬまま放置しておくというのも気が引けるし、もしかすると誰かが誰かの暗殺計画でも立てるためにこそこそ囁きあっているのかもしれない。念のため調べておくにこしたことはない。
 ガナッシュはそうかたく自分に言い聞かせた。よくやったね、と顔をほころばせる九代目の顔を思いうかべながら。——そうだ、オレはあの人の雷の守護者になるんだ。
 そう考えると急に勇気が湧いてきた。息をひそめてあたりを探り、すぐに、数十歩離れた茂みのそばに座りこんでいる男の存在に気がついた。
(……ブラバンダー?)
 間違いない。あいつだ。ブラバンダー・シュニッテンだ。
 まだこちらには気がついていない。
(なんであいつ、こんなところに)
 別の茂みに身体を隠しながら、ガナッシュは顔をしかめた。正直なところ、ガナッシュはあまり彼が好きではなかった。
 九代目の雨の守護者が老衰で亡くなった今、次の雨の守護者は彼だといわれているが、無口だし、無表情だし、何を考えているのかちっとも分からない。年齢はガナッシュよりひとつかふたつほど上で、出身はドイツかオーストリアか、確かそのあたりだったと思う。思う、というのは、噂で耳にしただけで本人に直接尋ねたわけではないからだ。シュニッテンというのもその地方では有名な名家だと聞いた。感情が表に出ないタイプの男で、思いだせるかぎり、笑ったところを見たことがない。
 それに、なんとなく腹が立つのだ。彼が次の雨の守護者だといわれているのは、彼の師であり、ボンゴレの暗部を支配する剣帝テュールの口利きがあったからではないかと噂されているからだ。
 ガナッシュの一族は代々ボンゴレに仕えている。二世の強硬的支配が強まり、それでもボンゴレがまだかろうじて自警団と呼ばれていた頃——貴族と平民が二分されていた時代において、平民の身でありながら実力で「ボンゴレに仕える」という名声を勝ち取ったのだ。
 血や名誉を重んじるマフィアにとって、名家の出身であることはそれだけで大きな力となる。後ろ盾がないも同然の、いわば「平民」出身のガナッシュがここにいられるのは、父や母、祖父たちがボンゴレにその身を捧げ、尽くしてきたからだ。
 それに比べてブラバンダーときたら、名家の出身で、剣帝の弟子というだけで名乗りをあげ、雨の守護者にまでなろうとしている。自分の今までの努力や、父祖たちの血のにじむような働きが茶化されたような気分だった。むかむかするのもきっとそのせいなのだ。
(いや、それよりさっきの『声』の正体だ——あんなやつはほうっておいて——)
 頭をふり、すたすたと歩きだしたガナッシュの耳に、またさっきの声が飛びこんできた。
 今度は今までよりずっと近い。ガナッシュはあたりを見回し……おそるおそるブラバンダーに目を向けた。
 ブラバンダーは膝に猫を抱いていた。ふさふさのしっぽがゆったりと地面を叩き、茶色と金色のまじった毛がきらきらと風に舞っている。
 漁師のおすそわけの魚めあてに野良猫たちがやってくることは日常茶飯事だが、あれほどまでに人に懐いているのはめずらしい。しかも、その相手がブラバンダー・シュニッテンだというのがいっそう奇妙な感じを醸しだしている。あいつが猫とふたりきりでくつろいでいるだって?
 にわかには信じがたかったが、しかし、何度見てもそうなのだった。
「<Guten Abend gute Nacht>……」
 さっきの声がまた聞こえた。調子はずれのバリトンに猫の耳がぴくりと動く。ブラバンダ―ははたと口をつぐみ、音がはずれたのを気にしたように二、三度咳ばらいをすると、猫の背を撫で、無表情のままぽつぽつと歌い始めた。
「<Guten Abend gute Nacht>……<mit Rosen bedacht>……」
 そのあまりの音痴加減にガナッシュがこらえきれずに息を吹きだすと、ブラバンダーの肩がびくりと跳ねた。
 彼の膝でごろごろしていた猫が飛びあがり、あわただしく茂みの中に逃げこんだ。
「……ガナッシュ」
 茂みの後ろから口元を押さえて震えながら出てきたガナッシュを、ブラバンダーは恨みがましく睨みつけた。
「わ、悪かったよ。いいところを邪魔して。まさかおまえがこんなところで猫とたわむれているなんて思わなかったんだ。歌なんて歌ってさ……」
 しかも、びっくりするほど音痴な歌を。
 また吹きだしそうになるのをなんとかこらえ、ガナッシュはそろそろと彼の横に腰を下ろした。
「さっきの猫、おまえのなのか?」
「違う。野良がときどきここへ遊びにくるだけだ。人見知りのする猫だったが、最近になって懐いてくれた。それなのに」
「はいはい。オレはお邪魔虫だったってわけね」
 言葉尻にめいっぱいの非難がこめられているのを感じ、ガナッシュは肩をすくめた。
 まさか本当に猫とくつろいでいたとは。寡黙な男の意外な一面に、ガナッシュは奇妙な心地を覚えた。ふだん物静かなブラバンダーがここまで怒りをあらわにするのもめずらしいことだ。どうやらかなりのご立腹らしい。たかが猫、しかも名前もない野良一匹逃がしてしまっただけでこんなにも機嫌を損ねてしまうとは。
(……ん?)
 ちらりと横目で見て、ふいにブラバンダーの手元が傷だらけなのにガナッシュは気がついた。
 猫にやられたのかとも思ったが、違う。これは剣の傷だ。手の甲に何度も斬りつけられたような傷やみみず腫れがある。それに痣も。
 ただのお坊ちゃんかと思っていたが、どうやらひと味違うようだぞ。ガナッシュはにやりとして隣のブラバンダーを見た。——もしかしてこいつ、オレや皆が思っているよりずっといいやつなんじゃないか?
 もっと話してみたい、笑わせてみたいという気持ちがガナッシュの中にふつふつと湧いてきた。こいつは笑ったらどんな顔をするんだろう。この気難しい顔はいったいどんなふうに笑うんだろうか。
「なあ、もういっぺん歌ってみせてくれよ」
「断る」
「そう言わずにさ、ちょっとだけでも」
 そっぽを向いたブラバンダーとの距離をつめて、ガナッシュは負けじとせがんだ。
「聞かせてくれたっていいだろ、別に減るもんじゃなし、ほんのちょっと歌うだけだ。笑ったりなんかしねえよ。さっきのはちょっと、いや、かなり下手くそだったかもしれないが、おまえが歌うなんてあんまりにもめずらしいことだからさ。それで思わず笑っちまったんだ。馬鹿にするつもりなんてこれっぽっちも」
「どうしてそんなに聞きたがるんだ。オレの歌なんか」
「そんなのなんだっていいだろ。なあ、ちょっとこういうふうに笑ってさ、さっきみたいに歌って——」
「やめろ。寄るな、馬鹿」
 ぎゃあぎゃあ言いあう二人の耳に、そのとき、にゃあ、とか細い声が聞こえた。
 ガナッシュは顔をあげ、さっき猫の飛びこんだ茂みの奥にまん丸い両眼とふさふさの毛がきらきらしているのを見つけた。
 隣を見ると、ブラバンダーがそちらをまっすぐに見つめている。めったにお目にかかれない、もしかしたら九代目や師テュールにさえ見せたことのない微笑が、言葉も話せないこの小さな生き物に向けられている。
 猫は警戒心たっぷりに歩いてきて、ちらりとガナッシュを一瞥すると、ブラバンダーの足元にうずくまってごろごろと喉を鳴らした。伸びてきたブラバンダーの手に満足げに身をゆだね、気持ちよさそうに目を閉じている。
(……なんだよ)
 オレには文句を言っておいて、野良猫には簡単に気を許すのか。
 ガナッシュは唇をひんまげてあぐらをかいた。この野良猫め、まったくうらやましいかぎりだ。こんな気難しい男の、閉ざされた胸の内にすっと入っていけるその身軽さ。言葉もなく、ただ共にいることを喜んでもらえるなんて。
 おまえはオレより先に、こいつと「友だち」になったわけね。
「どうした、ガナッシュ」
 隣にいる男がとたんに不機嫌になったことに気がついて、ブラバンダーがガナッシュを見た。
 さっきまでの微笑はどこへやら、その顔はまったくの無表情に戻っている。
「……オレも猫になりたいよ」
「は?」
 訝しげにひそめられた相手の眉間のしわを見つめ、ガナッシュは唇の内側でこっそり呟いた。——ちくしょうめ!

     おわり

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