「夜更けの談話」のその後。
酔って寝ぼけているガナッシュに話しかけるブラバンダー。
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ふいに、ブラバンダーは目を覚ました。
開けっぱなしの窓から吹きこんできた風が、酔いで赤らんだ頬を撫でる。
夜はまだ明けきっていなかった。半分寝ぼけたまま手をあげると、こめかみのあたりがずきりと痛んだ。何年かぶりに浴びるように酒を飲んだせいだと思い、ふと思いあたって向かいにいるはずの友人を見やる。
「ガナッシュ?」
ガナッシュは空っぽのグラスをつかんだままテーブルに突っ伏していた。耳を澄ますと、かすかな寝息にまじってときおりぶつぶつと寝言が聞こえてくる。どうやら二人して酒の席で眠りこんでしまったらしい。ブラバンダーは頭をかき、身を乗りだしてガナッシュの肩をゆすった。
「ガナッシュ、もう起きろ。部屋に戻れ」
「うう……」
ガナッシュは唸り声をあげ、のろのろと頭をあげたかと思うと、またぱったりと顔を伏せてそのまま動かなくなった。
「……仕方のないやつだ」
呟き、突っ伏した男の気持ちよさそうな寝息に背を向ける。
ブラバンダーは洗面所に行って顔を洗った。水をかけるたび、酔いと頬の熱さが引いていくのが自分でもわかった。
(オレが女だったらよかったのにな。おまえのこともよく知ってるし、太っ腹だし、気前もいいし。結婚相手としては悪くないだろ、なんて)
(そうだな。悪くない)
……なぜあんなふうに言ってしまったのだろう。
酒の席での一連のやりとりを思い返して、ブラバンダーは濡れた口元に手をやった。
酒に酔っていい気分になっていたせいだろうか。冗談でも言って、親友を驚かせてやろうとしたのだろうか。今になってみると、あの時いったい何を考えてそんなことを口にしたのかちっとも思い出せなかった。ブラバンダーにとってガナッシュは同僚であり、長年の友人だ。女だったらいいのになどと本気で考えたわけではないし、女になったらなったでそれはもはやガナッシュとは別人のような気がする。だが、女だったら、とただの一度も考えなかったかといわれれば、否定も肯定もできない。
それだけガナッシュは魅力的な人間だった。友人という贔屓目なしに見てもはっきりそう言えた。
明るくて面倒見がよく、部下たちのみならず幹部やほかのファミリーでもとても評判がいい。どんな偏屈が相手でも、ガナッシュなら会話するだけで不思議とうちとけてしまうのだ。
時間を見つけては子どもたちといっしょになってサッカーボールを蹴り、あぶなっかしい走りをする三、四歳の子どもが転んだり、怪我をしたりして泣きわめくと、ガナッシュは父親か母親がするみたいにしゃがみこんで額にそっとおまじないのキスをする。子どもたちに慕われているのにはたぶん、そういうところも少なからず関係しているのだろう。
老輩の嵐の守護者コヨーテや雲の守護者ビスコンティはいまだにガナッシュを子ども扱いして叱り飛ばしたりもするが、ガナッシュがいないところではきちんと働きぶりを認め、功績をたてようものならまるで自分の子どもか孫が褒められたように喜んでいる。酒に弱くて泣き上戸で、調子に乗ると多少やっかいなところがないでもなかったが、それも彼のよさのひとつだと言ってしまえば納得できる部分があった。
顔立ちもよく、いっしょになって街を歩けば女性たちがちらちらとガナッシュに視線を送っているのに気づく。酒の席では相手がいない、結婚する気になれないと言いきってみせていたが、ガナッシュほどの男なら相手のひとりやふたりすぐに見つけられるはずだった。事実、過去には目を見張るほどの美女を連れているのをよく見かけた。近ごろは恋人を作る気配すらない。
休みの日には気ままに街をぶらぶらしたり、ほかの守護者と食事をしたり、こうやってブラバンダーと酒を飲んだりするのがもっぱらで、そこには女の影はない。自分に自信と余裕があるからこそ、そんなふうにふるまえるのかもしれないが。
(……オレとは正反対だな)
ブラバンダーは苦笑した。
ここのところ、まともに女性と向きあったこと自体数えるほどしかない。女性が嫌いというわけではない。単に縁がないだけである。
ブラバンダーも街を歩けば誰かの視線を感じることは多い。けれどもそれはガナッシュに向けられるようなものではなく、レンズごしに未知のものを観察するような、恐怖と好奇の視線だ。
鏡を見つめ、手をあげて顔の傷に触れる。剣で引き裂かれたためにできた傷口が、こめかみから頬、唇にかけて、痛々しくひきつれて生々しい存在感を放っている。唇を動かしてつくり笑いを浮かべると、唇の端の縦に裂けた傷跡がひびわれるように痛んだ。
呪いのような傷跡だ、とブラバンダーは思った。この傷をつけられてもう何年にもなるのに、斬りつけてきた剣士のあざ笑う顔が今も眼前に見えるようだ。
そのまま、首筋から鎖骨にかけての傷を指でたどり、シャツをめくる。胸元の、獰猛な鮫が食らいついて噛みちぎったような傷がはっきりと鏡に映った。
誰かに恋をして、そのうちに付きあいが深くなり、いつか裸で向かいあうことになれば、どうしてもこの傷を見せなければならなくなる。見せることそれ自体にはさしてもの思うところはなかったが、この傷をまのあたりにした相手の顔がもし恐怖や嫌悪でゆがめられたらと思うと、ブラバンダーの胸の内は荒れた。拒絶されることは恐ろしい。その相手が自分の好いている人であればなおさらだ。
この傷を名誉の負傷だと言うものもいる。理解し、受けいれてくれようとするものもいる。だが大多数はそうではない。興味と悪意半々の視線にさらされるうち、ブラバンダーはいつしか心を閉ざし、仮面を貼りつけたような無表情を保っていることが多くなった。恋をしても、胸の高鳴りはほんのいっときで終わった。その恋がどんな結末を迎えるか、わかりすぎるくらいにわかっていたからだった。
転機が訪れたのはある年の冬、これまで何度かボンゴレとやりとりのあったファミリーの令嬢とふたりきりで食事をする機会ができた時だ。ブラバンダーがあまり人と関わりを持とうとしないのを気にかけた九代目のはからいで持ちあがった話だった。
いい人だから、とにこにこしながらその話を持ってきたときの九代目の顔をブラバンダーは今でもはっきりと覚えている。乗り気にはなれなかったが、かといって無下にするわけにもいかない。せめて相手を怖がらせないようにできたらいいのだが……。どうしたものかと思い、ブラバンダーは酒の席でそのことをガナッシュに相談した。
――ああ? どうすれば怖がられないで済むかって?
おおまじめなブラバンダーの顔をガナッシュはじっと見つめ、しばらく考えこんだ後でこう言った。
――まあ、確かにおまえの顔は恐い部類に入るだろうよ。見慣れていないやつからすると特に。そのうえ無表情で話し下手となると、ちょっとばかし印象が悪いんじゃないか。そうだな、ちょっとためしにここで笑ってみせてくれ。
――こうか、ガナッシュ。
――違うな。なんていうかこう、もっと優しく。こんなふうに……。
――おい。ひっぱるな。
――こんなふうに笑うんだよ。こんなふうに。
自分の耳やら頬やらをつかんで笑い声をあげるガナッシュを見ているうち、悩んでいるのがだんだん馬鹿らしくなってきたものだ。結局その令嬢とはさんざんな結果に終わったのだが、その時からブラバンダーは以前のようには悩まなくなっていた。傷ついても、いっしょになって笑ってくれる仲間がいる、そのことで心が満たされるのを感じるのだ。
(最高の相棒。パートナー、か)
ああいうふうに言われるとなんだか誇らしげな気持ちになる。急に照れくさくなって、ブラバンダーはかすかにゆるんだ口元を手で押さえた。子どもの頃は、誰かにそんなふうに呼ばれることがあるなんて微塵も想像しなかった。
少年時代に連れられていった教会で神父がうやうやしく話していた、誰かを信じ、信じられることの喜びはなにものにも代えがたいということ。誰か、というのがなんのことを指していたのかはさすがに子どもの頃のことすぎてはっきりしない。神だったかもしれないし、家族だったかもしれない。友人や、あるいは恋人だったかもしれない。なんにせよ、子どもながらブラバンダーは内心でその考えを馬鹿にしていた。そんなもの、あるはずがない、と。
だが今は違う。今のブラバンダーには九代目がいる。彼のためになら、ブラバンダーは命を捨ててもいいとさえ思える。コヨーテ、ビスコンティ、命を預けるに値する人たちがいる。クロッカン、ニー、ガナッシュ、戦いのまっただなかにあっても安心して背中を預けられる仲間がいる。
もしもあの神父の言っていたとおり、信じ、信じられる関係が本当に存在するのなら。もしも誰かとそんな関係になれるのなら……。
「――ガナッシュ?」
タオルで顔をぬぐって部屋に戻ると、ガナッシュはまだテーブルに突っ伏してぶつぶつと寝言を呟いていた。その手にはいまだにしっかりと空のグラスが握られている。
「まだ飲む気なのか、おまえは?」
苦笑まじりにガナッシュの指をほどいて、グラスを奪いとる。その手を、ふいにガナッシュがしっかりとつかんだ。
手から滑り落ちたグラスが水滴をこぼしながらからからとテーブルを転がった。
ブラバンダーは驚いて手を引っこめようとして、ガナッシュの指に力がこもるのを感じて思いとどまった。触れる指先が妙に熱い。半分伏せられたままのガナッシュの顔をためらいがちに覗きこんでみると、かすかに熱を帯びた金緑色の瞳と目があった。
「……ガナッシュ?」
ガナッシュはゆっくりと顔をあげ、酔いで赤らんだ頬をふいに子どもっぽくゆるませた。
「へへっ」
「いきなりなんだ。面白いことでもあったのか」
「夢をみた。とってもいい夢だ」
うっとりした表情で呟いた。「昔のおまえが夢に出てきた」
「……まだ酔っているんだな」
ブラバンダーはため息をついた。
よくあることだった。ガナッシュはあまり酒に強くない。酒を飲んだ後でわけのわからないことを口走ったり、こちらの予想のつかない行動に出たりするのは日常茶飯事だ。昨晩はいつもより多く飲んだこともあって、酔いも相当のものらしかった。
「その顔で会議に出てみろ、コヨーテの逆鱗に触れるぞ。早いところ顔を洗って水でも飲め。オレは今から剣の稽古にいくが、おまえはどうする? いっしょに来るか?」
ガナッシュの指をほどき、ボトルやらグラスやらをひっつかむ。ガナッシュはしばらく名残惜しそうに空っぽの手をもたつかせていたが、ふとテーブルに伏せって、くぐもった声で「なあ」と呼びかけた。
「昔のおまえはさ……今よりもうちょっとだけ、おしゃべりだったよな」
流し台に食器を重ねていたブラバンダーは、ふり返って、突っ伏したままのガナッシュを見た。
「無愛想なとこは全然変わんねーけど、オレが馬鹿なことやったらさ……げらげら笑いやがってよ……後から入ってきたニーの方がオレたちよりよっぽど落ちついてて先輩らしく見えるってんで、クロッカンにからかわれてさ……あん時は心底楽しかったよ……それなのに……」
「ガナッシュ?」
「笑わなくなったよな、おまえ」
悲しげにガナッシュが言った。
「八年前だ。八年前のあの日から、ちっとも笑いやしねぇ……どうにかして笑わせたくて、あれこれやってみたけど、やっぱりだめだ。変わっちまったんだ、おまえも、オレも。何もかもが。クーデターが起きて、火のつけられた屋敷や書庫が燃えてあっさりなくなっちまったみたいに」
鼻をすすって、額をテーブルに押しつける。酔いのせいか、それとも涙のためなのか、斜めにかかった髪の隙間から見える頬が赤々としていた。混乱しきった子どものようにガナッシュは続けた。
「あのときのオレは迷子のガキみたいに皆の姿を探してた。途中、人が何人も死んでた。可愛がってた部下も、その日の朝、はにかみながら挨拶してくれたメイドの女の子も。もしその死体の中におまえがいたらどうしようかと思った。きっと生きてる、でももしかしたら、そう考えただけで身体が芯から凍りついてくような心地を味わったさ。ようやく見つけたおまえは手も足も、頭のてっぺんからつま先まで全身斬りつけられてずたぼろだった。どうにか止血しようとしても、あっというまに血だまりができちまうんだ。顔も血だらけで、倒れたまま死んだように動かなくてさ」
親友の声がどこかせっぱつまっているのに気がついて、ブラバンダーは急ぎ足にガナッシュのそばに寄った。
「いきなりどうしたんだ。本気で酔っているのか?」
「酔ってなんかいねえよ! 酔ってなんか……」
起きあがり、肩に置かれた手を腹立たしげにふり払って、ガナッシュは深く息をついた。うっすらと涙のにじんだ目に、困惑したブラバンダーの顔がはっきりと映った。
「ブラバンダー、オレはな、医務室でおまえが初めて包帯をとるのを見ながら思ったんだ。もしかしたら以前と変わらないままのおまえがそこにいるんじゃないかって。でもだめだった。祈ってみたけど、やっぱり跡が残っちまっててさ。頬も唇も大きく裂けて、首も、肩も全部、全身めった切りにされたのがわかるんだ。それでおまえは笑わなくなって、なんにも知らないやつらに怖がられてさ。そいつら全員殴りつけて、なにも知らないくせにって言ってやりたかったんだ……なにも知らないくせに……オレは……」
「ガナッシュ!」
「笑ってくれよ、ブラバンダー」
泣きだしそうな声で、ガナッシュがささやいた。
「一度きりだっていい。笑ってくれ。昔のように、おまえが笑うのが見たいんだ」
突き動かされるように、ブラバンダーはガナッシュの頭をかき抱いた。酒と整髪料のにおいのする髪に鼻をうずめ、額にそっと唇をあてる。
それは恋をした男のするものでも、恋人同士のする情熱的なものでもなかった。父から子への、あるいは、うんと歳の離れた祖父が孫にするような、安堵とぬくもりのこもったキスだった。
「ブラバンダー……?」
「寝てろ」
いまいち状況が飲みこめずにぽかんとしているガナッシュに、ブラバンダーは短く言った。
「夜が明けるまでまだ少し時間がある。目を閉じて、少しのあいだ眠っていろ。何も考えなくていい。時間になったらちゃんと起こしてやる。それまでは、安心して眠っていていい」
ブラバンダーは息をついた。腕の中で、親友の身体が震えるのがわかった。
「今度はオレがおまえを助ける番だな、ガナッシュ」
――八年前、あの「揺りかご」で傷つき疲れ果てたオレを、おまえがずっと支えてくれていたように。
今度はオレがおまえを守ってやる。
「やめろ、馬鹿。子ども扱いしやがって」
ガナッシュは怒ったようにブラバンダーを押し離し、肩をつかんでわめいた。
「そんなふうになぐさめられても、嬉しくともなんともねえよ。どうしてかわかるか。わからないようだからこの際言ってやる、おまえには散々やきもきさせられてんだ。オレはなあ、あの日からずっと――」
そこできっとブラバンダーを睨みつけ、ぴたりと動きを止めた。
ぽかんと口を開けたまま、目を見開いてまじまじと親友の顔を見つめたかと思うと、ふいに緊張の糸が切れたようにどっとブラバンダーの肩にもたれかかった。
「ガナッシュ?」
「なんだよ――ちゃんと笑えるんじゃねえかよ――」
肩を丸めて、ガナッシュはそのまま動かなかった。ブラバンダーは親友の顔を覗きこみ、まぶたが降りているのを確認すると、そっと身体を離し、彼が小さな子どものように身を丸めて眠りにつくのを静かに見守った。
きっと次に目覚めたときには何も覚えていないのだろう。自分が叫んでいたことも、ブラバンダーに、いつも自分が子どもにするようなキスをされたことも。いつだってそうだ。酒の酔いがさめるとともに何もかもきれいさっぱり忘れてしまう。そして起きたら、あっけらかんとした表情で言うに決まっている。ブラバンダー、おまえどうしてこんなところにいるんだ、と。
ある意味では好都合なことだった。真実を知れば、恥ずかしさやら情けなさやらでまた酒をがぶがぶ飲むに違いなかった。
「仕方のないやつだな、本当に」
そばに畳まれて置かれていたジャケットをガナッシュの肩にかけ、片手でぽんと肩を叩く。
「……こんなときにこんなことを言うのは、卑怯だと思うだろうが」
ブラバンダーはささやいた。
「おまえならきっと許してくれるだろうと思う。あいにくオレは話すのがおまえのようにはうまくない。面と向かってみるとどうしても言葉が出てこなくてな」
ガナッシュが小さく身じろぎした。ブラバンダーはひと呼吸の間を置いて続けた。
「おまえはオレを、最高の相棒、パートナーだと言ってくれた。もしもあの神父の言っていたとおり、信じ、信じられる関係が本当に存在するのなら。こんなオレでも、誰かとそんな関係になれるのなら」
自分でも気づかないうちに、ブラバンダーは微笑していた。傷だらけの頬が、つかのま昔のようにやわらかくなごんだ。
「オレはおまえたちがいい。共に歩いていける、ファミリーの仲間がいい。
……おまえがいいよ、ガナッシュ」
明るみ始めた東の空に、朝日が溶けだしていた。明かりのついていない部屋に光が斜めに差しこみ、眠るガナッシュの肩にきらきらとショールのようにかかった。
おわり
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