孤独な少年ザンザスのもとへやってきた、人の言葉をしゃべる灰色の翼の鳥・ヨウム。
ザンザスが組織の後継者になるのだと当たり前のように考えていたヨウムは平穏に日々を過ごしていたが、やがて異変が起きる。ついには「鮫」を名乗る少年剣士と剣帝テュールが戦うことになり……
※三人の後継者候補「九代目の甥たち」を「九代目の息子」という設定で書いています(名前のみ登場)
※最終的にヒロイン(鳥)は死亡します。
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+
1
――僕はいったい何者なんだろう。
いつものように尖塔のてっぺんで羽を休めながら、僕はそんなことを考えていた。
――おまえはいったい誰なんだ?
――ハナコ、おまえはなに?
心の内に問いかけてみる。だけど答えは返ってこない。
僕はすぐに考えるのをやめ、気持ちのいい風に吹かれながらうとうとし始めた。
「ハナコ!」
その時、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕は目を開き、灰色の翼を広げ、声の主のところまで一気に急降下していった。
剣帝テュールを主とした独立暗殺部隊ヴァリアーは九代目にいっそうの忠誠を誓い、ボンゴレ最強の暗殺部隊の名を欲しいままにしていた。隊員達は日々訓練と実戦とを繰り返し、めきめきと実力を伸ばしていく。一応はこの僕もこのヴァリアーの隊員ということになっているが、やはりこの屋敷を飛んでいるだけのただの鳥だ……なにせ僕はヨウムだから。
翼を広げ、差し出された手を傷つけないようにそっと降り立つ。大きな手が僕の羽をわしゃわしゃと撫でた。僕はくすぐったさに身じろぎしながら、ぶあつい胸元に頭をこすりつけた。
「遅かったな。寝ていたのか?」
『考え事をして、うとうとしていた。ザンザスの声は聞こえていたよ』
僕がそう言うと、ザンザスは指で僕のくちばしをつっつく。僕はザンザスの顔を見あげてめいっぱい微笑んでみせた。青年へと近づきつつある大人びた顔がすこしなごんだ。
月日の流れはザンザスから幼さをそぎ落とした。
背も伸び、身体つきもたくましくなり、目鼻立ちがはっきりして、だんだん大人の男の顔に近付いていっていた。きゅっと結ばれた唇に高い鼻、きりっとした眉。眉間に刻まれたしわ。鋭い眼光を放つ赤い瞳。つんと立たせた黒髪の形は、九代目のものにすこし似ている。堂々と歩く勇ましいその姿は、内に秘めたボンゴレの後継者としての威厳と実力を如実に示していた。だが言葉遣いはすこしぶっきらぼうになり、他人に拳をふるうことも増えた。テュールにあれこれ言われることも増えた。だけどザンザスはいたって真面目だった。
お母さんの死がザンザスを変えた。
訓練にもそれまで以上に励み、炎の威力とコントロール力を上昇させるために過酷な状態に身を置いた。射撃の訓練、剣の訓練、ここでできる限りのあらゆる武術を身につけようとした。後継者としてふさわしくあるためにと勉強にも熱心に取り組み、テュールをとても驚かせた。
ザンザスはあれからすこしも泣かなかったし、ときどきはお母さんのお墓に行ってお祈りをしているようだった。
九代目も以前より頻繁にここへ来るようになった。息子とふたりきりで食事をすることもあり、ときにはそこにテュールも加わった。さすがに僕は三人の輪に加わることができず、そのときには屋敷を飛びまわったり、他の隊員と話をしたりして遊ぶのだった。
このころには、ボンゴレ後継者の話をしばしば耳にするようになっていた。
ボンゴレの後継者――ボンゴレの血、ブラッドオブボンゴレを持つもの。
僕は当然ザンザスがボンゴレ十代目になるものと思っていたが、ザンザスには歳の離れた兄が三人いるらしかった。僕は彼らを見たことがないので、彼らがどんな人間なのか知らない。ただ後継者としてみんなすごく優秀なのだという。でもザンザスだって負けてはいない。
事実、テュールがこっそりと教えてくれたことには、ボンゴレの上層部のほとんどがボンゴレ十代目としてザンザスを推したとのことだった。それを語ってくれたときのテュールの表情といったら、どんなに嬉しそうだったことか!
ザンザスはボンゴレの十代目になるんだ。
そう考えると、なんだかザンザスが遠くへ行ってしまうような気がした。だけどザンザスは変わらず僕を腕に乗せてくれるし、僕の名を呼んで、僕の羽を撫でてくれる。それがとても嬉しい。
十代目になってもザンザスは僕のことを友達だと思ってくれるだろうか。すくなくとも僕はザンザスのことを友達だと思っている。彼がどんなふうになろうとその思いは変わらない。彼とずっと一緒にいたい。
僕は幸せだった。この幸せがずっと長く続けばいいと思っていた。
だけどこんなふうに過ごしていたある日、幸せはあっけなく崩れさってしまった。
異様な空気に気付いたのは昼ごろのことだった。
黒い炎。
灰煙をあげながら激しく燃えさかるそれを、僕は感じた。果てのない怒り。それと恐怖。いろんなものがごっちゃになって叫び声をあげているようだった。それは僕の心を波たたせ、不安でいっぱいにした。僕はあわててその炎を感じるほう、屋敷の中へと飛びこんだ。
屋敷はいつもよりも静かだった。
僕の羽ばたきの音が響いても廊下には誰ひとり顔を見せない。確かに今日はけっこうな隊員が任務に向かっていたはずだけど、扉は全て閉ざされているし、窓ひとつ開いていない。いつもだったら気さくな感じの隊員のひとりかふたり、僕に声をかけてくれるはずなのに。
そのようにしばらく飛んですぐ、見慣れた背中を見つけることができた。
ザンザスが早足に廊下を歩いていた。白いシャツ姿だ。彼に追いつこうと僕はもうひと羽ばたきした。
「くそっ……!」
吐き捨てるような声が聞こえた。
『ザンザス』
僕が呼びかけても彼はこちらを向こうとしなかった。聞こえていないんだ。僕はすこし怖くなり、今度はもっと声を大きくして言った。
『ザンザス!』
ザンザスは立ち止まり、ふり返った。
赤い瞳の奥であの黒い炎がごうごうと燃えさかっているのを僕は見た。怒り。恐怖。戸惑い。ザンザスの目元から涙のように汗が流れ落ちた。
『ザンザス、どうしたの。なにがあったの』
「来るな!」
突然の拒絶に僕は驚いた。
『ザンザス?』
「確かめにいく」
ザンザスは早口に続けた。「保管庫へ」
保管庫というのは、テュールの自室のすぐそばにあるという部屋のことだ。そこには隊員やザンザスすらも入ることを許されていない。ヴァリアーのボスのみが立ち入ることのできる、そこはいわば秘密の部屋だった。そんなところにいったいなんの用があるというのだろう。
『あそこはヴァリアーのボスしか入ることが許されていない場所のはず。ザンザスが入ればテュールは怒る』
「オレはボンゴレの十代目だ!」
ザンザスは唸るように叫んだ。
僕は息を呑んだ。そのようなザンザスの表情を見るのは初めてだった。
怒り――そう、あのエドモンドという男の隊員が僕にむけた怒り、そのものだった。おぞましいほどの怒りが彼の中で燃えている。
恐怖と戸惑いとにのどを締めつけられ、僕はなにも言うことができなかった。ザンザスは荒い息をつき、下を向いたまま歩き出す。いったいなにが起こったのか判断もできぬまま、僕はよたよたと彼の後ろをついていった。保管庫へ辿りつくまで誰ひとりともすれ違わなかった。
『これが……保管庫』
僕も本物を見るのは初めてだった。
金の彫り飾りが無数にほどこされた大きな扉。
一歩離れたところから扉を眺めてみると、彫り飾りはまるでなにかを表しているようだった。麦蒔きをする人の図、放牧の図、海と大地、それに大空、放物線をはなつ太陽と三本足の蛇頭、オリーブの葉、貝殻を抱いた宝冠、ぶどう、翼……
中央にある金属の取っ手には黄銅の南京錠がつけられていた。中央には小さな鍵穴。ザンザスは南京錠をじっと眺め、静かに手で握った。
『無理だよ、ザンザス、鍵がないもの……』
そのとき、ザンザスの拳のすきまから白い光があふれ、熱波が辺りを覆った。顔を焼くような熱さに僕は思わず目を閉じた。
おそるおそる目を開けたときには、ザンザスの手が南京錠を引き裂いていた。
強固に思われた南京錠は布のようにちぎれて、冷えてぼろぼろになった。僕は呆然としてなにも言えなかった。ザンザスは扉を押し開き、中へと足を踏み入れた。
暗闇の中でザンザスは壁をさぐり、明かりをつけた。
四方を本棚が取り囲んでいた。窓はひとつもない。ほこりっぽくてすこし息苦しく、物音ひとつしていない。中央には文様の彫られた白ぬりの机があり、厚さのある本が何冊かと、おそらくはテュールのものであろう荷物が折り重なるようにして上に置かれていた。インクにガラスペン、テーブルランプ。僕は周囲をひととおり見回してから、部屋の端の四本足のチェストに腰を下ろした。下手に動いてはいけないような気がしたのだ。ここは普通の部屋となにかが違う。
ザンザスはうかがうようにしながら机に近づいていった。そしてその上に置いてあった本をめくり、動かし、ファイルの下にあった一枚の羊皮紙を手にとると、真剣な顔つきで覗きこむ。
ザンザスの瞳が一瞬、虚無を映した。
空白が彼を埋め尽くし、赤い瞳がゆらいだ。羊皮紙を持った彼の手が、全身が、わなわなと震えだした。
唸り声が沈黙を引き裂いた。
羊皮紙をめちゃくちゃに丸め捨て、ザンザスは机の上のものをなぎ倒した。
激しい音とともにあらゆるものが崩れ落ちた。倒れたインクのびんから黒い液体がこぼれだし、そのすぐそばでランプのシェードが砕ける。羊皮紙の巻物が床の上を転がっていき、紙が部屋を舞う。金切り声のような音が部屋に響いた。それでもザンザスは手を止めようとしなかった。獣のような声で、見開かれた瞳で、ザンザスは全てを蹴散らした。
僕は震えあがった。からからの喉からかすれた声がもれ出る。なにが起こっているのか分からない。
あのザンザスが、どうしてこんなことを?
「このオレが! カスどもより劣るだと!」
ザンザスは叫んだ。
「あの……老いぼれ……!」
見開かれた赤い瞳が震えた。食いしばった歯がむきだしになった。
「奴はオレを後継者にするつもりなどなかったんだ! なにが息子だ! オレを裏切りやがったんだ!」
『ザンザス……!?』
赤い瞳がぎろりと僕を睨みつけた。
僕の目の前にいるのは、怒りそのものだった。僕はわけも分からず羽ばたこうとした。だが動かない。鎖で縛りつけられたように。
「オレは……十代目……ボンゴレの十代目だ……!」
ザンザスの声は震えていた。
「十代目でなければ、オレはなんだ……? オレは誰なんだ? オレは……オレは、なんなんだ! ちくしょう! どいつもこいつも! オレをなめやがって!」
叫びながら、ザンザスは一歩一歩僕に近づいてくる。
まともに息ができなかった。逃げろ、逃げるんだ、そう冷静に考えても、羽を動かすことができない。ザンザスの顔が迫り、熱を帯びた手が僕の首をひっつかんだ。かわききった絶叫が喉から飛び出す。締めつけられて僕は狼狽した。
「ハナコ……! オレは……オレはなんだ? 教えろ、おまえなら分かるんだろう……オレは、いったい誰なんだ!」
混乱しきった様子でザンザスは続けた。
赤い瞳が水にぬれたようににじんだ。震える瞳から、涙が落ちそうになっていた。
「これは……!?」
別の声が聞こえた。
ザンザスがふり返る。テュールが扉のところに立って目を丸くしていた。ザンザスは僕の首をつかんだまま、警戒するように一歩身をひいてテュールをにらみつけた。
テュールはザンザスと僕の姿を認めると、机の上、そして床に転がっているたくさんのものを呆然と見つめた。彼の空色の瞳が目に見えて分かるほどに曇った。
「テュール!」
ザンザスはほとばしるような叫びをあげた。
「おまえは、知っていたのか!? 知っていて、そうしたのか!? オレが九代目の血をひいていないと知りながら……オレを育てたというのか!」
ザンザスが――九代目の血をひいていない……?
「知って……おりました」
テュールは言った。
「あなたが九代目の血をひいていないことは私も存じております。だから……だからこそあなたが、十代目になれるようにと……!」
「ブラッドオブボンゴレなくして、どうしろというんだ!」
悲痛な叫びがテュールの喉をふさいだ。
ザンザスは激しく息巻いて言葉を続けた。
「ボンゴレの後継者になるには、ブラッドオブボンゴレが必要だ! それを持ちえないオレが、どうやって十代目になる!? 言ってみろ、テュール!」
テュールは答えなかった。答えることができなかったのかもしれない。
溢れ出す怒りとありったけの憎しみをこめて、ザンザスは憤然とテュールを睨みつけた。そして罵りの言葉を吐いた。テュールの空色の瞳が苦痛にゆがみ、きしむようにまばたいた。そのとき、激しく燃えさかっていたザンザスの赤い瞳がぼんやりと暗くなり、両手がだらりと垂れた。僕はもがいて逃げ出そうとしたが、それでも彼は僕を手放さなかった。
「そうか……この苦しみを味わわせたかったんだな。オレが悲しむさまを、笑いたかったんだろう。これで満足か? 満足したのか? おまえにはさぞかし滑稽だっただろうな、所詮はボンゴレを継ぐことなどできない子どもが、懸命になって父母のために努力をする姿は!」
痛みとあざけりの感情が彼の顔を走り抜けた。
「貴様も老いぼれと同じだ、テュール」
ザンザスは片手をかざした。手のひらに光が収束する。
テュールは大きく目を開いた。
『いけない……ザンザス……!』
首をつかまれたまま、僕は声をあげていた。
『いけない!』
手中の光がまたたき、黄金の閃光がほとばしる。熱波が全身を駆け抜けた。
目を焼き尽くさんばかりの光の中で、光球がテュールの眼前に迫ったのが見えた。テュールは目を見開いたまま、よけることもせず、むしろ自分から受け入れるように立ち尽くしたままだった。
光が全てを飲みこんだ。
激しい音がした。テュールは後ろの本棚に激しく背中をうちつけ、くぐもったような声をあげて崩れ落ちた。飛び出してきた本が彼の頭上にふりかかる。
『テュール!』
僕は叫んだ。ザンザスは暗い瞳で僕を一瞥し、手を離して僕を自由にした。
僕がまっすぐにテュールのところまで飛んでいくのを見ることもせず、ザンザスはなにも言わずに足早に保管庫を出ていった。遠ざかる足音の中に、かすかにすすり泣くような声を聞いた気がした。
『テュール、テュール、だいじょうぶ!?』
「ハナコ……オレは平気だ。それより、あの子を」
テュールは頭を押さえながらぼそぼそと言った。だけど僕には、テュールを置いていくことがどうしてもできなかった。
彼の額の端はすこし焦げたように変色し、頭からは血が流れ出ていた。血を止めないと、と僕が慌てていると、彼は自分でハンカチを取り出して傷口を押さえた。
「……あの子には教えていなかった」
テュールはうわごとのように言った。血の流出から来るものではなく、彼の顔は青ざめていた。
「ブラッドオブボンゴレなくしては後継者として認められない。それは紛れもない事実だ。だが、それでもオレは――あの子を!」
『テュール』
僕が呼ぶと、テュールははっとなって僕を見やり、すまなさそうに小さく笑みをうかべた。
「ハナコにも分かってしまったな。ザンザスが、九代目の実子ではないこと」
そのときの僕の頭の中では、あのザンザスのお母さんの映像がなまなましいほど鮮明に再生されていた。
そして、あのエドモンドという名の男の言葉も――……彼は、ザンザスは九代目の実子ではないと言った。それは彼の予想だったが、現実においては事実だったのだ。
テュールは懐かしむように目を細め、すこし重たげに息をしながら言葉を続けた。
「九代目が突然、小さな男の子の写真を送ってきたんだ。むすっとしてて、かわいげがなさそうな、するどい目つきの男の子だった。誰だって尋ねると、息子だと言うんだ。驚いたよ。だけど養子として引きとったと聞いてもっと驚いた」
『養子?』
「実子ということになってはいたが、事実上は養子だった。九代目がザンザスを引き取ったとき、彼はお母さんに連れられていた……九代目と彼女とに直接的な関わりはまったく存在せず、その事実もなかったが、彼女は自分の子が九代目の血をひいていると信じて疑わなかったそうだ。九代目がなにを思って引きとったかまではオレも知らないが、九代目は彼を本当の息子のように育てたがっていたよ。それに、ザンザスのことをとてもかわいがっていた。だが九代目はボンゴレのボスとして忙しい身であったから、ザンザスに構ってやる暇がほとんどなかった。戸惑いもあっただろうし……悩んだこともあっただろうな」
空色の瞳がぼんやりとなった。
ときどき思いわずらうような表情をするテュールを、僕は黙って見つめていた。
「――九代目と話し合いをして、オレがザンザスを育てることになった。育てるというよりは、家庭教師としてザンザスの傍にいる、というほうが正しいのかもしれない。彼は十代目になりたがっていたから、オレも彼をボンゴレにふさわしい男に育てようとしていた。ヴァリアーに入隊させ、いろんなことを経験させて、たくさんの人と関わらせて――……そして、ハナコ。あの日、君が来た」
意外なところで名前が出てきて、僕はまばたいた。
「ハナコが来てからというもの、ザンザスは毎日が楽しそうだった。勉強をしているときにも、剣の訓練をしているときにも、しきりに君のことを気にしていて、鳥の羽ばたきの音が聞こえようものなら、空を見上げて君の姿を探していた。たぶん君が考えているより、ハナコという存在は、ザンザスにとって大切なものなんだろう」
テュールは頭から手を離し、傍にうずくまっていた僕の頭を撫でてくれた。僕はなにも言わずにその手に甘えた。
「君はいったい何者なんだい、ハナコ? 人間のように言葉をしゃべり、人間のようにものを理解する。君みたいな鳥は初めてだよ。まるで神様が、ザンザスの友達として君を遣わしてくれたようだ。君は神の使いかなにかか? それとも、前世は人間だったのかな」
『僕はそんなすごいものじゃないよ、テュール。僕はただの鳥なんだ』
そう、僕はただの鳥。
ただの鳥なんだ……
「――ハナコが何者であろうと、オレが君を好きなことに変わりはないけど」
考えこむ僕を気遣ってか、テュールはぽんと僕の頭をたたくと、
「さ、ザンザスを探しにいこう、ハナコ。ザンザスもおもいきり悩んだ後に、きっと彼なりの答えを見つけるだろう。オレは彼を手助けすることはできないが、せめて守ってやりたい」
ゆっくりと立ちあがり、服についたほこりを払い落とす。
「ハナコ、ここで知ったことは誰にも言ってはいけない。オレとおまえ、ザンザスだけの秘密だ」
テュールは僕を肩に乗せ、散乱した物はそのままに保管庫を出た。焼き千切られた南京錠をちらりと見て思いつめた表情をうかべ、歩き出す。そのときだった。慌てた様子で女隊員が廊下の向こうから走ってきたのは。
「テュール様、ここにおられましたか!」
「どうした」
隊員の女性が息を切らしながら駆け込んできた。テュールの前で立ち止まり、ぜいぜいと喉を鳴らしながら浅い息を繰り返す。
「何度も、部屋に電話を、入れたのですが、お出にならなかったので」
「落ちついて。なにがあった?」
顔をあげ、混乱のあまり涙をにじませた瞳でテュールを見あげた。
「ザンザス様が、屋敷を飛び出して街のほうへ……隊員を乗せたままの車に無理やり乗りこんで」
ザンザスはその日、帰ってこなかった。
なんでも、ザンザスはある隊員が車に乗ろうとしていたところにやってきて、いきなり銃を突きつけ、車に乗りこんだんだそうだ。そしてその隊員に運転をさせ、そのまま街へ向かう道路の方へ。屋敷の門のところでは監視カメラが車の姿を捉え、センサーも反応し、門衛も車の姿を見つめていたが、ただ外出をするものだと思って特に疑いはしなかったらしい。乗せられたままの隊員の友人が気付いて連絡をしたときには、ザンザスを乗せた車はとうに走り去っていたという。
僕はザンザスを探して街のほうへ飛び立ち、上空から目をこらしたが、とうとうザンザスを見つけることはできなかった。おそらくは街にいるのだ。だが街のどこに?
テュールは落ちついたふうを装っていたが、内心はきっと、ザンザスのことが心配でたまらなかったと思う。彼はザンザスを小さい頃からずっと見てきていたのだ。父親のように心配してしまうのも無理はない。
その日、僕は初めてテュールの自室に入った。ザンザスがいないという事実が僕の羽を重たくしたが、テュールのやさしい手が僕をなぐさめてくれた。
彼が義手の手入れをするのを見るのも、初めてだった。
真剣な表情で義手をあちこちいじっているテュールの顔を見つめながら、僕はぼんやりとザンザスのことを考えていた。テュールはときどき思いつめた表情をして手を止めることがあった。ザンザスのことを心配していたのかもしれないし、なにか思うところがあったのかもしれない。そんなテュールの姿を見ているうちに僕はうとうとしはじめ、ゆっくり眠りの世界へ落ちていき、夢をみた。
……――少年がいた。
つんとした茶色がかった髪の少年がいて、そのそばに、黒ずくめの服を着た赤ん坊がいた。
少年と同じ年頃の銀髪の少年と、黒髪の少年が歩いてきて、隣に並ぶ。そこへ短くした銀髪頭の少年、やわらかい黒髪のほっそりとした少年が歩いてくる。もじゃもじゃ頭の男の子が走りこんできて転倒し、かわいい女の子がふたり、慌てた様子で走ってきて彼を支えた。てっぺんで黒髪を結んだ、ちいさなちいさな女の子も来た。たくさんたくさんやってくる。長い髪のきれいな女性、背高の金髪の男、ひげ面の笑みをうかべた男、大きな本を抱えた男の子。それにとげとげした果実みたいな頭の少年、おかっぱ頭の男の子に金髪の男の子、そして肩ぐらいの髪の女の子、憂いの瞳の男……はじ色の髪の少年……眼鏡をかけた女性と背の高い坊主の男……数人の赤ん坊がやってきて……仲むつまじそうな女性と男性……年老いた老年の男……たくさんの、たくさんの人たちが前を歩いていく。
みんな、どこへ行くの、と僕は声をあげた。
そこでようやく僕は誰かの胸に抱かれていることに気がついた。だけどこれがいったい誰なのか、どうしても分からない。
そのうち、その人がゆっくりと歩き出した。その後ろにも人がいた。やわらかな純白の髪がなびき、僕と僕を連れて歩く人の隣に立つ。金糸に隠された顔が微笑む。小さな影がとことこと足を動かす。背の高い男が笑みをうかべる。変わった髪型をした人間が、薄闇の向こうで目を細める。
風が吹いた。
僕は風にふきちらされそうになったが、それでも誰かのそばに寄りそい続けていた。見えない、その人の顔が見えない――……
地平線の彼方、青みのかかった黒い空に光がにじんだ。夜明けだ。夜明けが来たのだ。輝かしい光が大地をやさしく包みこんでいく。僕はまぶしさに目を細めた。閃光が全ての存在を照らした。なにもかも光に抱きしめられた一瞬、僕を腕に抱くその人の、くっきりとした輪郭が光の中にうかびあがった。
夜明けの光に照らされ、その横顔は空を見つめ、見えない翼をはためかせた――……
ザンザスはそれから二日ほどして、そしらぬ顔で帰ってきた。
嬉しさに顔をほころばせるテュールと僕を見やり、ザンザスは目を伏せて微笑んだ。その微笑みから感情という感情が抜け落ちていたことに、僕も、おそらくはテュールも気付いていなかった。しかしその空白がすぐに消えうせ、なんとも言い難い闇がそこを埋め尽くしたのを、僕ははっきりと見た。
白い少年の噂が飛び込んできたのは、それから数日経ってからだった。
「子ども?」
テュールの執務室でうとうとしていると、大きな声が聞こえた。
テュールがこんなふうに大声をあげるのはめずらしいことだった。僕はそっと顔をあげ、テュールと話している隊員の横顔を見つめた。
「ええ、まだほんの子ども、それも学生という身。しかし剣の腕はなかなかのものかと。ヴァリアー入隊の条件としてあなたとの勝負を求めております」
ややこしい話をしているな、と僕は思った。
それにしても、テュールに勝負を挑むなんて、命しらずなやつだ。テュールは剣帝だ。誰にも負けはしない。
だがこういった話を耳にすることは今までにも何度かあった。ボンゴレの要として独立暗殺部隊ヴァリアーはそれだけ優秀な人員を必要としているのであり、その頂点に立つ剣帝テュールが人事に関わることもそう少ないことではない。将来有望な人間には彼がじきじきに会って話したりもしていた。それでも、入隊に際して彼と剣を交えようとした人間は、僕の知る限りはいない。テュールが語ってくれた言葉の中にだってそんな人間はいなかった。
「そいつの名前は?」
「スペルビ=スクアーロ――<鮫>と名乗っておりました。髪も肌も白い少年です。例の学園の生徒であり、めきめきと頭角を現してきているゆえ、かなり際立った存在となっているようで」
「スクアーロか……」
テュールは考え込むように目を伏せた。隊員は深く頭を下げた。
「詳細はまた後日、お伝えいたします」
「ありがとう。よろしく頼む」
隊員はコートをひるがえし、さっそうと扉のほうまで歩いていった。テュールは僕がうとうとしていた籠のところまでやってきて、僕の頭を撫でてから静かに部屋を出て行った。
スペルビ=スクアーロ、いったいどんな人間なんだろう。
それより、気になるのはザンザスのことだ。今もまだ部屋にこもったままでいる。彼なりに答えを見つけることができたのだろうか?
僕はザンザスのことが大好きだ。彼が九代目の息子であろうとなかろうと、その気持ちは変わらないし、彼が十代目にならなくても、やはり同じ気持ちで彼に接すると思う。
二週間ほど経ったころ、例のスクアーロという名の少年剣士が屋敷にやって来た。
ほとんど白に近い銀髪の、ひょろりと背の高い、白い顔に挑戦的な笑みをうかべている少年だった。
ヴァリアー入隊の条件として彼はテュールとの勝負を求めた。テュールはそれを快く承諾し、今日のこの日、勝負がとりおこなわれることになっていた。テュールのことが大好きな人たちはテュールのところへやってきて、うやうやしく敬礼をして彼の勝利を祈った。そんなおおげさな、とテュールはすこし困ったように微笑み、たくさんの隊員に囲まれて身じろぎしながら嬉しそうにしていた。ザンザスの姿はそこにはなかった。
スクアーロとの勝負が行われるのは、ヴァリアーの屋敷のはずれ、湖のあった森の奥。いまや湖の水はほとんど枯れ、膝のすこし下を埋めるくらいの水にひたるように、文様の彫りこまれた石柱がずらりと立ち並んでいるらしい。霧がたちこめ、うっそうと茂った木々が日をさえぎり、闇を生む。誰も近寄ることのない黒々とした空間。
怖いもの見たさに集まった観衆に背を向け、テュールとスクアーロは並んで森の奥へ消えていった。
スクアーロというのがどんな少年なのか、テュールは知りたがっているようだった。剣を交わらせることで分かることもある、と穏やかな表情で言い、入隊させたらみっちり鍛えてやる、とも言っていた。彼がボンゴレの要となれるように。闇を切り裂き、夜明けを導く、銀の剣になれるように。
僕にできることといえば、ふたりの戦いが無事に終わるよう祈ることだけ。
ザンザスはあれからずっと部屋でひとりきり考え込んでいるようだったので、邪魔をするわけにもいかず、僕は尖塔のてっぺんで祈りを捧げるのだった。
新しい剣士が入ってくることは僕としても嬉しいし、それにあのスクアーロという少年、たぶん歳はザンザスと同じくらいだろう。ザンザスのよき話し相手、よき友としてヴァリアーにいてくれるかもしれない。きっとザンザスは喜ぶだろう。そうだ、ふたりの戦いが終わったら、スクアーロに挨拶してみよう。僕が人間の言葉を話せばきっと彼も驚いてくれるに違いない。
テュールとスクアーロの勝負が始まってからとうとう二日目の夜を迎えた。
青白い美しい月が、光の滴をぼんやりと森に落としていた。それでもなお森は夜闇よりも黒く、不気味な静寂を広げている。耳をすませばかすかに金属のぶつかりあう音が聞こえてくるようだった。狼のような唸り声、つんざくような叫び、ごうごうという風の音。
『う……』
そのとき、ぬめった風が僕の頬をなぶった。鉄臭いにおいが鼻をかすめていく。僕は思わず顔をしかめて身じろぎした。
血のにおい?
風がひたとやんだ。黒々とした森の中央から木々のどよめきが波紋のように広がっていった。身の毛がよだち、ぶるぶると羽が震えた。
なまなましい血のにおいがする。においは鼻から口の中にしみこんで、ねばっこく舌の上を転がった。
――まさか、テュールとスクアーロの?
嫌な予感がする。脳を締めつけられるような感覚。身体が自然とこわばってしまっていた。それでもなんとか翼を広げ、僕は森へ向かって飛びたった。間にあえ、間にあえと、なにに間にあいたいのかも分からないのにつぶやいていた。
ぬめる空気の流れをすり抜けて闇に突っ込む。森に自生する生き物達が、息をひそめながら鳴き交わしているのが聞こえた。折り重なった枝葉を飛び越え、血のにおいの濃くなるほうへ突き進む。
枯れた湖が目に映り、すこし視界が開けた。血のにおいが一段と濃くなる。
文様の彫りこまれた石柱が立ち並ぶ、まるで古代の神殿の廃墟のようなところだった。底に敷かれた石畳に薄くかぶるようにして水がゆらぎ、その上に青白い月の輪郭がぼんやりと映りこんでいる。あたりの石柱にはところどころ、撒き散らされたように赤い血が染みついていた。どうやらここで激しい戦いがあったようだ。上空をゆっくりと飛びながら目をぎらつかせて二人の姿を探す。
どこからか波紋が広がった。
……人形のように四肢を広げた男が、石柱の土台に背を預けるようにして身を横たえていた。彼の身体にざぶざぶとかかる水が赤く濁っているのを見て、僕は稲妻に撃たれたようになった。声にならない声で絶叫し、僕はまっしぐらに彼のところへ飛んだ。水を吸った金色の髪。焼け焦げて変色したままの額。青ざめた顔。ぼんやりと虚空を見つめる空色の瞳。
『テュール!』
そこまで近づいて、僕ははっとなった。
テュールの肩から腹、ももにかけて、まるでノコギリで何度も何度もかきむしったように、肉がえぐれてぼろぼろになっていた。喉を震わせるような呼吸音がかすかに聞こえる。
テュールの瞳が僕を捉えた。信じられないものを見るような目で、彼は僕を見つめた。
「ハナコ……?」
『テュール! テュール、だいじょうぶ!? 今、助けを呼んでくるから!』
しかし、テュールはきしむような動きで首を横にふった。
「い、い……これで、いいんだ」
そう喘ぐように言ったテュールの口から血のかたまりが飛び出した。赤いしぶきが散り、僕の羽を点々と染める。苦しそうな顔をしてテュールは呻いた。
『テュール!』
「それより、スクアーロを……」
『スクアーロ?』
水をかき分ける音に僕はふり返った。力なく頭を下げた少年がこちらへ歩いてきていた。
スペルビ=スクアーロ。
月の光で青白くなった髪は血をかぶり、青灰色の瞳が闇の奥でぎらついている。だらりと下げた左腕を右手で押さえながら荒い呼吸を繰り返していた。震えている右手の指の隙間から赤い血がしたたり、水に落ちて赤い尾をひきながらとけていく。全身傷だらけだった。特に左手の損傷が激しいようで……いや、違う、彼の左手は、手首の部分からごっそりと無くなっている!
僕は息を呑み、恐怖と戸惑いで後ずさった。
スクアーロはゆっくりと頭をもたげた。微笑んでいる。しかしその次の瞬間、彼の顔を困惑の色が走り抜けた。
「う゛お゛ぉい……剣帝テュールともあろうものが、無様なものだな!」
スクアーロが叫んだ。
「なぜ避けなかった? おまえほどの実力のものなら、オレの攻撃は避けれたはずだぁ!」
「ちがう……オレには、避けられ……なかった……おまえの、編み出した、最後の、技」
テュールは熱い息を吐き出しながら弱々しく言った。喋ろうとするたび、テュールの口から、つぶらな赤い泡がぼこぼこと吹き出してくる。
『テュール、もう喋らないで!』
僕が人間の言葉を喋ったせいか、スクアーロがぎょっと目を見開いた。
テュールの空色の瞳がつかのまやわらかくなごみ、夢をみるようにぼんやりとなった。
「ハナコ……もう、いいんだ……オレは、自分にできることをしたし……剣士として、死ねるなら……望むことはない」
静かにさとすような声だった。
だが僕はかっとなり、テュールの足元で羽を動かしながら必死にわめきちらした。
『嫌だ! 死ぬだなんて言わないで、僕とザンザスのそばにいて――どこにもいかないで! お願い、死なないで、テュール……置いていかないで……』
最後はもはや言葉になんてなっていなかった。
テュールはじっと僕を見つめ、震える右腕を持ちあげ、おいでおいでというふうに僕を手招いた。僕は顔をあげてテュールのほうへ近づき、差し出された彼の大きな腕にすがった。テュールはそっと僕をかかえ、胸に抱いてくれた。テュールの生命が、鼓動が、くっついた身体の向こう側で確かに息づいている。
テュールは血だらけの口元を左腕でぐいとぬぐった。熱い息が僕の鼻をかすめる。テュールは目を伏せ、僕の頭に顔を近づけてきた。震える唇がくちばしにふれ、離れた。
テュールは顔をあげ、僕達の様子を黙って見つめていたスクアーロを真剣な表情で見つめた。スクアーロはすこし驚いた様子でテュールを見つめ返した。
「おまえに、オレの知る全てを……叩きこんだ、つもり、だ……みらいの……たの、む……ザンザスの……」
『テュール?』
そのとき、青黒くなっていた頬に一瞬あたたかさが満ちた。瞳が光を宿した。テュールは目を細め、静かに笑った。
「希望を……」
その一言を残してテュールの微笑みは硬直し、そのまま永遠に、ぴくりとも動かなくなった。
腕ががくりと垂れて僕を落とした。僕はテュールの膝に乗り、何度も何度も彼の瞳を覗きこんだ。空白のまま、動かない。もう二度と。
――テュールが死んだ。あの、剣帝とうたわれたテュールが死んだ。
――死んだ?
『あ、ああ』
かすれた声が自分の喉からもれていることに、僕は気付いた。
感情が渦を巻き、涙となってあふれ出す。瞳からぼろぼろと涙が落ちてくるのを、僕はどこか他人事のように考えていた。
なにが剣士だ。なにが希望だ。僕はそんなもの、知らない。ただ、あなたがそばにいてくれれば、それでよかったのに!
僕はきっとスクアーロを睨みつけた。
おまえだ。おまえがやったのだ。おまえがテュールを殺した!
暗闇に落としてやる――光の届かない闇の底に、おまえを沈めてやる!
『死ね』
僕は言った。
それが相手をひどく傷つける罵りの言葉であることなど、僕はすこしも気にかけなかった。
『死ね――スペルビ=スクアーロ。おまえを殺してやる!』
僕は絶叫し、彼の瞳めがけて飛びかからんと翼を震わせた。
突然、かたく唇の結ばれていた彼の顔を苦痛の色が走り抜けた。低い呻き声。細い身体はがくりと崩れて膝をつき、派手に水をはねあがらせた。手のない左腕を押さえていた右手ががくがくと小刻みに震えだし、痛みをこらえていた彼の顔に、年齢相応の幼いままの、泣き出しそうな表情が一瞬うかんで、すぐに消えた。
僕はそこでようやく、自分がどんなに恐ろしいことをしようとしていたかを知った。
こんなヨウムがどんなに力をこめたところで彼を殺せるはずもない、だが、僕は彼を、ザンザスと同じ年頃のまだあどけなさの残る少年を、この手で殺してやろうと思ったのだ!
僕はおののき、身を引いた。スクアーロは苦痛に喘ぎながら足を引きずり、石柱に身を預けたテュールの隣に倒れるように座りこんだ。赤い水しぶきが彼の髪と頬をぬらした。
月の光に照らされた幼い輪郭が、動かなくなったテュールの横顔と重なった。
2
一ヶ月ほど経った。
テュールは屋敷のはずれの小さな石塔の下で眠りについている。
日だまりの中、木々がちょうどいいぐあいにまだらの木陰をつくる場所だ。朝早くには小鳥が集まってきて、まるでテュールを楽しませるようにさえずりを交わす。昼にはどこからか野良猫がやってきて、気持ちのいい光をいっぱいに浴びながら石塔のところでのんびりと昼寝をする。夜には上空に満天が広がり、ときどき流れ星が尾をひきながら駆けていく。
剣帝テュールを失ったヴァリアーは数時間ほど混乱に陥ったが、すぐに落ちつきを取り戻し、今は古株の優秀な人間が仮のボスとしてヴァリアーを動かしている。執務室を訪ねたところでもうテュールはいないし、今の仮のボスは、鳥嫌いときたものだ。ハナコが昼寝をするためにとテュールが置いてくれていた籠はいつのまにか焼却炉に投げ入れられていた。まるでテュールとの思い出までも灰になってしまったようで悲しかった。
……テュールはもういない。この屋敷の、どこにも。
彼も暗殺部隊のひとりだから死がどういうものか理解しているだろうし、彼自身にふりかかったのも決して理不尽な死ではない。ヴァリアーのボスとして、剣士として、戦いのうちに死ぬということはきっと贅沢すぎるほどだった。
だからといって、さびしくないと言えば嘘になる。
さびしいし、とても辛い。どうすればいいのか分からない。僕はまだ彼の死を認めることができない。
ザンザスのお母さんが死に、テュールが死んだ。僕はまるでひとりぼっちのような気分だった。
ザンザスは……あれから、以前のようには僕に接してくれなくなった。だいたいいつもあのスクアーロという少年剣士といっしょにいて、僕のことなどほうっているのだ。僕が飛んでいるとザンザスは邪魔者を見るような目で僕を射抜き、僕がそばに行こうとすると、近寄るなと言わんばかりにコートをひるがえしてさっさと歩いていってしまう。僕の話も聞かないし、僕を見ようともしない。
ザンザスに嫌われたんだ、僕は。
彼が自分の出生で悩んでいたとき、僕が彼をほうっておいたからか。それとも、ザンザスが自分の出生を知った瞬間、僕がザンザスの質問に答えず、傷ついたテュールに駆け寄ってザンザスの傍に行かなかったからか。
あのときザンザスの傍にいてあげればよかった――何度もそう後悔した。しかし後悔してもなんにもならなかった。あやまちを消し去ることはできない。僕はとりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれない。
それでもザンザスともう一度話したかった。彼の頬にふれたかったし、以前のように羽を撫でてほしかった。
だから僕はまた、あの邸宅に足を運んでいた。ザンザスのお母さんが過ごしていた、あの邸宅だ。ザンザスとスクアーロはそこでふたりで話していることが多いらしいのだ。
……なぜ、スクアーロと?
スクアーロはテュールを殺した張本人だというのに、ザンザス、どうして彼と一緒にいるの?
白い邸宅。
大きな木々に囲まれ、灰色の影が外壁にまだら模様を描いている。僕はすべるように滑空し、窓にさしかかる木の枝にそっと足を下ろした。かつてザンザスのお母さんが療養をしていた部屋にはもう誰もいない。
見つめるうち、あの日の光景が幻影のようによみがえってくる。ベッドに横たわっていた金髪の女性と、彼女の手を撫でさすっていた老人。確かな幸せの情景がここにはあった。
そう、九代目と彼女のあいだに契りがなくとも、九代目はきっと彼女のことを――……ふいに、彼らをやさしく見つめる背高の金髪の姿がばっと現れた。僕は目を見開いて窓に顔を押しつけた。やさしげに微笑む男の姿は陽炎のようにゆらめき、あっというまに消え去った。
誰もいない。ここにはもう誰もいないのだ。あらためてそのことを思い知り、心を引き裂かれるような心地がした。
みんないなくなってしまう。いつかは九代目も――スクアーロも――ザンザスも?
ぞっとなって身震いをしたとき、上のほうから声が聞こえてきた。特徴のある声。スペルビ=スクアーロだ。僕は枝をひとつずつのぼっていき、葉陰に身をひそませてスクアーロの姿を探した。
……見つけた。テラスのところで、ザンザスと話をしている。スクアーロは手すりにかけていた右手を腰にやり、ザンザスのほうにふりかえった。僕は息をひそめてこっそりと彼らの様子をうかがった。
「オレは、例の計画が成就されるまで髪は切らねぇ」スクアーロが言った。「オレの願かけだ」
例の……計画?
「おまえも誓え。髪は切るな」
「はんっ、くだらねえ。剣帝に使いものにならなくされたその手で、役に立てるのか?」
ザンザスは無表情で言った。スクアーロは包帯につつまれた左手を持ちあげ、唇をつりあげて笑った。
「う゛お゛ぉい、勘違いすんなよ! オレは左手を持たない剣帝の技を理解するために、この手を落としたんだ」
僕に背中を向け、スクアーロはザンザスのほうを見た。
「これがオレの、おまえとやっていくための覚悟だ」
低い、自らに言い聞かせるような声だった。
ザンザスの赤い瞳が一度まばたき、スクアーロをじっと見つめた。
「まあ見てろ、御曹司」
スクアーロはかつかつ歩いていき、右手をぽんとザンザスの肩に乗せた。
「これから先、おまえはオレを仲間にしたことに感謝する日が必ず来る」
ザンザスはなにも言わなかった。風に撫でられた木々がざわめき、ちらちらと影を動かす。
ふたりはいったいなんの話をしているのだろうか?
例の計画。願かけ。覚悟。僕には分からない。計画――……?
その瞬間、僕の全身を衝撃が駆け抜けた。全身がびりびりと震える。はっとなって顔をあげると、見開かれた赤い瞳と視線が交差した。
ザンザス、まさにその人が手すりに手をかけて僕を見ていた。
声にならない声でその名を叫び、僕はよろめいた。
「ハナコ……」
ザンザスは言った。「盗み聞きたぁいい度胸だ」
ザンザスの手がかざされ、目の前に光が広がった。
眼前に押しあてられた手のひらに白熱が収束する。光は中心から色を帯びて暁の色に染まり、めらめらと輝いた。
僕はまたたき、息を呑んだ。熱された空気が喉から肺に吸い込まれ、むせかえりそうになる。逃げろ。逃げなければならない。この場から、今すぐに!
「う゛お゛ぉい!」
声が聞こえたのはそのときだった。
「その鳥を殺すのかぁ?」
スクアーロがつかつかと歩いてきて、ザンザスの肩をつかんだ。
「たかが鳥だろぉ。殺す必要なんざないはずだぜ」
「……こいつはテュールのお気に入りだった」
感情のまったくこもっていない声。うつろな瞳。もはや僕のことなんてなんとも思っていないのだろう。もとはといえばザンザス、君と僕とが最初に出会ったはずなのに。
「テュールの?」
スクアーロは目をぱちくりとさせて僕を見つめ、にっと微笑んだ。
「人間の言葉をしゃべる鳥か。おもしれぇ。オレにくれよ。その鳥はヴァリアーのボスだった『剣帝』のものなんだろ? だったらもうすぐ……いや、今すぐにでもオレのもんになるはずだぁ」
意地の悪そうな笑みをうかべる。ザンザスはスクアーロをふり返り、再び向き直って無感情な目をこちらにやった。
「……好きにしろ。こいつはもう用済みだ」
淡々とした声でそう言った。
僕は口をあんぐりと開け、部屋の中へ戻ろうとするザンザスの背中を見つめた。部屋の中には何人か他の隊員もいて、ガラスに目を近づけて興味津々そうに僕を見るものもいれば、奥のほうからぎらつく視線で僕を射抜くものもいた。だが僕はそのどれにも気をとめなかった。
用済み。好きにしろ。ザンザス。それはいったいどういう意味なんだ?
身体中の血と熱が頭にのぼっていくのを感じた。僕はかっとなって吐き出すように叫んだ。
『用済み!?』
ザンザスが足を止めた。
『ザンザス、確かに僕は人間じゃあないけど、誰よりも君のことを想ってる! いつでも君のことを考えている! 僕は君を守りたいんだ、ザンザス――テュールがそうしていたように!』
ザンザスはふり返り、
「消えろ」
たった一言。そのたった一言が、研ぎ澄まされた剣となり、僕の胸を貫いた。
すべりこんできた刃はひどく冷たかった。身も心も凍りついたようになり、去っていくザンザスの背が見えていても、僕はなんにもできなかった。
あきれ顔をしたスクアーロがやってきて、手すりから身を乗り出して僕の首を乱暴につかむ。僕は抵抗さえしなかった。彼の右手に力がこもっているのをぼんやりと感じながら、呆然と彼の顔を見あげた。
「ハナコ、だったか。テュールもザンザスもそう呼んでいたよなぁ、確か」
なにも答えない僕にスクアーロはむっと不満げな顔をした。彼の左の腕にぐっと抱きこまれたとき、僕はようやく我にかえってじたばたと暴れ出した。
「う゛お゛ぉい、暴れるな!」
『いやだ、いやだ! 離せ!』
僕はわきの下あたりに抱えこまれてしまった。羽を動かすこともできない。スクアーロは僕を左のわきで押さえこみながら、右手で僕の頭を乱暴に撫でた。ぶっきらぼうな手つきではあったが、その手はどこかテュールを彷彿とさせるものだった。テュールの微笑んだ顔が頭にうかぶ。僕を撫でてくれたときのあの顔、あの微笑みが、すっとうかんで消えていった。
「よし、よし。そのままおとなしくしていろぉ」
そう言うとあろうことかスクアーロは手すりに足をかけ、僕が何事かとまばたいた瞬間、そこからばっと飛び降りた。
飛んでいるのとはまた違う、舌がひっぱり出されそうになる浮遊感に僕は驚愕した。スクアーロは右手を伸ばして手近な木枝をつかみ、枝のしなりを利用して静かに地面に着地した。どうということもない、これが普通だ、と言わんばかりにスクアーロは小さく笑い、そのまま歩き出した。
僕はしょびかれて、上層部からあてがわれている彼の個室まで連れてこられた。
スクアーロは後ろ手に扉を閉めるとようやく僕を解放し、部屋に飛び立たせた。扉も窓も開いてはいない。僕はしかたなく椅子の背もたれに足をおろした。
『こんなところまで連れてきて、どうするつもり』
「どうするかだと?」
スクアーロは聞き返し、僕とちょうど反対側の位置にあるベッドに寝転がった。
「そうだな……焼いても煮てもまずそうだからなぁ、喋る鳥らしくまずは自己紹介でもしてもらうぜぇ」
『ヨウムのハナコ。メス。何歳かは僕も知らない!』
僕はなかばむきになって叫んだ。
するとスクアーロは興味津々といった様子で起きあがり、口早に質問をぶつけてきた。
「ハナコという名はザンザスにもらったのか? それより、おまえとザンザスはどうやって出会ったんだ? あのザンザスが素直に鳥を飼うようには思えねぇし」
僕はザンザスとの出会いのことをスクアーロに話して聞かせた。なげやりになっていたのかもしれないし、ザンザスに避けられてしまっているぶん、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
ザンザスと出会ったときのことを告げ、話題がテュールのことにさしかかったとき、僕は心がひどく痛むのを感じた。喉が一瞬つまりかけ、言葉が止まる。
喉を鳴らしてすぐに話を再開させたが、言葉が止まった一瞬、僕は確かに見た。スクアーロの青灰色の瞳もまた、暗くぼんやりとかげったのを。
「偶然とは思えねぇ話だなぁ」
僕がひととおり話し終えると、スクアーロはぱちぱちとかわいた拍手をした。
そのころには外はもう薄暗くなっていた。窓の向こうで星が尾をひいて輝き、すぐに消滅した。
スクアーロは小さくあくびをすると、ごろりとベッドに横になった。ゆっくりと身体を丸めるその姿はまるで赤ん坊みたいだった。
「ハナコ、おまえ、人間だったらよかったのになぁ」
スクアーロがふいに言った。
「おまえが人間だったら……もしかしたらまた違う人生を歩んでたかもしれねーが、たぶんザンザスと出会って、それこそ恋仲ぐらいにはなってたと思うぜぇ」
僕が人間だったら――
僕が人間だったら、テュールは死なないでいてくれた?
僕が人間だったら、ザンザスは僕を嫌わないでいてくれた?
もっと人間の心を理解することができたかもしれない。みんなにもっとやさしい言葉をかけることができたかもしれない。
ザンザスのお母さんを傷つけずにすんだかもしれないし、テュールを守ることができたかもしれない。ザンザスに辛い思いをさせることなんてなかったかもしれない。いつだってザンザスのそばにいて彼を支え、彼が悲しいときには、やさしく抱きしめてあげることができたかもしれない。
『本当に……人間だったらよかったのに』
そんな言葉がが口をついて出ていた。涙が一緒にこぼれてきて、点々と床に落ちた。
スクアーロは何気なくこちらを向いてぎょっと目を見開き、慌てた様子で飛んでくると、困ったように眉を寄せながら僕の羽にそっとふれた。
「う゛、う゛お゛ぉい、泣くな、泣くなよ、ハナコ」
彼がテュールを殺した人間であることなど忘れ、僕はその手にすがりついて泣いた。とにかく悲しく、心が締めつけられるようだった。しゃくりあげて泣く僕を抱えてスクアーロは静かに移動し、しゃがみこんでベッドにもたれると、胸に抱いた僕の頭を、どこかの子犬にするみたいに何度も何度も撫でた。
「そうだ、おまえはきっと人間の生まれ変わりだぁ! だから言葉を理解して、しゃべることもできる! しかも今は鳥だから、羽がある! どうだハナコ、おまえは人間の強みと鳥の強みを持ち合わせているんだぞぉ! よかったじゃねえか!」
それでなぐさめているつもりなのか、と尋ねたくなるような内容の言葉だった。
しかし彼の手つきがまるであの日のテュールのようだったので、僕はぶるぶると身体を震わせながら更に泣きじゃくった。
テュールのことを思うと、スペルビ=スクアーロのことがとても憎い。
彼はテュールをこの世から消し去った。テュールを死のたもとに沈め、永遠の眠りにひざまずかせ、僕とザンザスからテュールを奪ったのだ。
だが、僕が彼の向こうにテュールを見ていることもまた確かだった。
顔も性格もまったく違うふたりだが、スクアーロからかすかにテュールの存在を感じるのだ。なにが似ているというのか、なにが共通しているというのか。いくらスクアーロの向こうにテュールを見つめても、テュールは二度と帰ってこないというのに……ザンザスも、二度と。
ヴァリアーのボス・剣帝テュールを打ち倒したスペルビ=スクアーロは、失った左手を仕込み剣の義手にかえ、鬼神のごとき力であらゆる任務を成功に導いた。鮫の名を冠した少年は血肉を求め、古今東西の剣技でむさぼるように剣をふるった。彼は多くの隊員から尊敬され、また同時に恐れられた。前ボスを打ち倒した功績とその実力を認められ、入隊から数か月で既にボス候補の座にのぼりつめていた。
ヴァリアーの誰もが、彼がボスになると信じていた。あの剣帝テュールを越えるボスに。
そのころ、ヨウムのハナコはめったにスクアーロの部屋から出ることができず、平凡な日々を過ごしていた。
彼なしでは外に出ることも許されないし、普段は彼の部屋に閉じこめられている。
鳥が喋るのが相当おもしろいらしく、スクアーロは部屋に帰ってくるとすぐに僕のことを捕まえ、いろんなことを話させたり、聞かせたりする。毎日そればかりだ。楽しくないわけではない。ときおり彼がのぞかせる、まだ子どもっぽいきらきらした瞳を見ると僕もすこしあたたかい気持ちになるし、テュールのことがあるとはいえ、一緒に食事をしたり、寝ていたりするうちに、心の奥でほつれていたなにかがゆっくりとほどけていくのを感じる。
何度か逃げ出そうと考えたこともあったが、結局実行には移さないままだった。
それでもただの一度だけ、彼の部屋から抜け出したことがあった。
スクアーロがちょうど部屋に帰ってきたとき、誰かに呼ばれて、扉をすこし開けたまま彼は慌てて走っていった。たぶん上層部の誰かに呼ばれたのだろう。僕はちょいちょいと歩いて扉から顔を覗かせ、そこにスクアーロの姿がないことを確認すると、廊下に出ておもいっきり羽を伸ばした。それで久々のひとりきりの滑空をしようと、灰色の羽をぶるりと震わせ、いざ羽ばたかんとしたとき、ぎらりと光るものを感じた。
誰かが、どこからか僕を見ている。今にもこちらに飛びかかり、僕を殺してしまいかねないような視線で。
僕はぞっとして震えあがり、足に力が入らなくなってぺたりとその場に座りこんだ。ちょうどそのときにスクアーロが帰ってきて、呆れているとも非難しているともつかない声を出して、僕を抱えて部屋まで連れ帰った。視線の主はすっと消えてそこから立ち去ったようだった。
そんなことがあってからは、僕は部屋を出る気をすっかり失くしてしまった。
おかげでザンザスと顔をあわせることもなかった。すこし退屈な生活だったが、同時に僕を安堵させるものでもあった。ザンザスはもう僕を見てくれないし、昔のように羽を撫でてはくれない。ザンザスは僕に消えてほしいのだ。だから彼の視界から僕が消えているこの状況は、きっとザンザスにとっても僕にとっても、お互い最良の過ごし方なのだろう。
スクアーロはよく、ザンザスに会ってくると言って部屋を出ていく。そしてときどきだが、ザンザスのことを僕に教えてくれる。話を聞く限りザンザスはもう僕のことなんてこれっぽちっも覚えていないようだった。僕もザンザスのことを忘れようとこころみたが、どうしてもできなかった。ザンザスの記憶を消そうとするたび、頭の中に昔のザンザスの顔がちらついて僕を苦しめるのだ。
楽しかったあのころ――テュールもザンザスもよく笑っていた。
もう二人は帰ってこない。そう分かっていても、いつか帰ってくるのではないか、僕の羽をまた撫でてくれるのではないか、そういう期待が胸のうちにあふれてくる。
そのようにしているうち、テュールが死んでから半年が過ぎた。
スクアーロは今日も、ザンザスと会ってくるといって部屋を出ていってしまった。最近そればかりだ。
僕はいつものようにひとりで窓に顔を押しつけ、外をぼんやりと見つめてあれこれ思いをめぐらし、暇をつぶしていた。
透きとおった赤空にはうっすらと灰雲がかかり、半ば落ちかかった日に染められ、大地も、森も、橙の薄織物をまとったようになっている。木々はこころなしかいつもよりもざわめいているようだった。人がすすり泣いているみたいな音だ。なにかが起こりそうな、そんな夜だった。
そのうち空が黒ずんできて、ぽつんとういていた青白い満月がはっきりと空に輝いた。ときどき月を覆い隠しながら雲がゆっくりと流れていくのを眺め、うとうとと眠りに誘いこまれたそのとき、部屋の扉がばんと激しい音をたてて開いた。
『スクアーロ?』
ふりむいた僕の頬を、冷ややかな銀がかすめた。
生暖かいものがゆっくりと頬にたれていく。僕は呆然としてスクアーロを見あげた。左手の仕込み剣を僕に突きつけたまま、スクアーロはぎろりと僕を睨みつけた。
「……悪く思うなよ」
どこかで聞いたような言葉だった。
スクアーロはじりじりと間合いをつめてくる。僕は窓ガラスに身体をへばりつかせた。たぶん、僕が飛ぶのよりスクアーロが剣をふるほうが早いだろう。
『僕を殺すの?』
「ザンザスの命令だぁ。ハナコを殺せ、と」
『嘘だ!』僕は叫んだ。『そんなこと、あるわけ――』
そこで僕は、自分がどれだけザンザスに嫌われているかを思い出して口ごもった。
今のザンザスならありえることだ。彼は僕のことが嫌いになったのだから、なんのためらいもなく命令を下したに違いない。彼が僕の死を望んだのだ。
すこし悩んでから僕は前に踏み出て、目を閉じ、スクアーロの剣に身をゆだねた。時間をかけて丹念に磨かれ、研ぎ澄まされた刃は、ひやりとした死のにおいを感じさせた。冷たい刃が身体につきささる瞬間を思いうかべ、痛みに対する恐怖とほんのすこしの生への執着を感じた。
かすかな呼吸音と、かちゃりと鳴る金属音。
激しい音がした。
風とともにぱらぱらとなにかの欠片が降りそそいでくる。僕はそっと目を開け、そこに苦しげに目をまばたかせている少年を見つけた。
スクアーロの剣は僕の真横を通り過ぎ、窓ガラスを突き刺していた。粉々になったガラスの欠片があたりに散乱し、月光をあびてきらきらと輝いている。
「……くそっ」
スクアーロは歯を食いしばった。
そして、きゅっと表情をひきしめ、僕の後ろに手を伸ばして窓ガラスを開けた。つられるようにふり返ると夜空が視界いっぱいに広がった。
無限大の星々がきらめいている。風がうなり、空がまたたき、飛べ、と僕をいざなった。
「ハナコ、行けぇ」スクアーロは低く言った。「行くんだ」
『どうして?』
「いいから、行くんだ!」
スクアーロは表情をゆがめ、ぎろりと僕をにらみつけた。
突然のことに頭がついていかない僕を、スクアーロは無理やり外に押し出そうとする。僕は驚き、スクアーロのほうを向いたまま窓枠に足をひっかけて抵抗した。
『どうしたの? どうして僕を追い出そうとするの? スクアーロ!』
「出たくないのか? 空を飛びたくはないのか? 鳥のくせに!」
スクアーロは歯をむきだしにして吠えた。
「出ていけぇ! ここから、今すぐに!」
『いったいなにが? なにがあったの!? お願い、教えて、スクアーロ!』
僕がじっと見つめると、スクアーロはぎりりと歯を食いしばった。僕を睨みつけたままの瞳にふと光が宿る。目を伏せ、きまりの悪そうな顔をする。
「……本部にいき、九代目を引きずり落としてボンゴレを手にいれる。ザンザスや、他の仲間とともに」
九代目を? ザンザスが?
頭を撃ち抜かれるような思いがした。
ボンゴレを奪う――……それが、ザンザスの見つけた答えだというのか。
「あいつは、ハナコを殺せと言った。だがオレはその命令を実行できなかった。もし見つかれば、おまえは殺されてしまうかもしれねぇ」
スクアーロは早口にまくしたてた。
「だから逃げろ、ハナコ。オレがおまえを殺してしまう前に。オレたちは夜のうちに出発する。すぐにでもここから離れて、今までのこともぜんぶ忘れて、二度と帰ってくるな。いいな」
夢の中にいるような心地だった。
それも、ひどく居心地の悪い夢――たちの悪い、陰湿で、覚めることのないじっとりとした悪夢。ヴァリアーの術士がつくりあげた幻術世界に迷いこんでいるのかもしれない。まだまだ下っ端の術士が、ほんの悪戯気分でこんなことをしている。それならばどれだけ嬉しいか。こんな現実を味わうよりもどれだけ幸せでいられるか。これは夢だといくら自分に言い聞かせても、目の前にいる少年の苦しげな表情が、おまえがいるのは確かな現実なのだと僕につきつけてくる。
いっそう強い風がふきこみ、銀髪が激しくなびいた。
青灰色の瞳がまっすぐに僕を見つめた。
「……テュールを殺したこと、悪いとは思っている」
はっきりした声色で彼は言った。
「だがオレは剣士で、ヴァリアーの隊員だぁ。テュールを殺したことを後悔してはいない。ザンザスの計画において、九代目に忠誠を誓うテュールは一番の厄介者で、きっと邪魔をしてくるだろうから、オレが殺した。九代目の息子であるザンザスが殺すより、オレがやるほうが自然でなにかと理由もつく。それでどんなに恨まれたり憎まれたりしても、オレは構わねぇ。それだけの覚悟は持っているつもりだ。ハナコがオレを憎んでいて、殺したいのなら、そうすればいい。オレも剣士として相手をするし、それでハナコを殺すことになってもたぶん後悔はしない。これから先も必要があれば殺すし、オレにできることをする。自分と……仲間のために」
言い切ってから、だが、とスクアーロは付け加えた。
「オレは今、おまえを殺したくない」
僕はスクアーロをじっと見つめ返した。
青灰色の瞳がけわしくなった。
「だから、はやく行けぇ! オレの気が変わらないうちに!」
言葉とともに、手が僕を押しやった。
それが彼にできるせいいっぱいの、剣士としての自分の使命への反抗のようだった。
窓枠から足が離れた。少年の顔がゆっくりと遠ざかり、宙に身がういた一瞬、僕は翼を広げて大空へ舞いあがった。
知らず知らずのうちに流れた涙が、風になぶられながら光の尾をひいて散っていく。灰色の翼は夜闇にとけこみ、打ち震えながら大空へと飛翔した。白石の屋敷ははるか彼方の白い一点となった。
ザンザスは九代目をひきずり落とそうとしている。
ブラッドオブボンゴレを持たない彼は、九代目をひきずり落とすことでボンゴレを手にいれようとしている。
例の計画というのはこれのことだったのだ。ザンザスたちがたびたび集まり、話をしていたのは、このクーデターを起こすためだったのだ。剣帝テュールの死も、計画のうちのできごとに過ぎなかったというわけだ。ザンザスはテュールの死を悲しんでなどいない。ザンザスこそが、テュールの死を望んだ張本人なのだから。
ザンザスはテュールを拒み、僕を拒み、血のつながりのない父を拒んだ。ザンザスが望むのは、ボンゴレのボスとしての自分、ただひとつのみ。他のなにを犠牲にしてでも。
――ザンザスはおまえのことなど忘れ、あげくおまえを殺そうとした。
混乱をすり抜けるように飛び続ける僕の耳元に、甘い声がささやきかけてきた。
しびれるような甘さが、耳を分け入り、血をどろどろにさせながら全身をかけめぐっていく。
――おまえにはもはや居場所などなく、帰りつく場所もない。
――なにもかもが無駄なんだ、ハナコ。
ならば僕が飛ぶことに、いったいなんの意味があるのだろう。
はばたきが弱くなった。
いったんふらりとゆれてから、僕はバランスを崩してそのまま一気に落下した。薄開きの目に深緑の枝葉が飛びこんでくる。
身体全体に針で刺すような痛みが走り、それから土のクッションが僕をやわらかく受けとめた。突然の空からの侵入者に生き物たちはざわめきあい、暗闇からこっそりとこちらをうかがった。
どうやら、ここはかわいた森のようだった。虫のかぼそい鳴き声や、小さな獣の声がそこらから聞こえてくる。どこかで鳴いている夜鳥の声も。闇が深すぎて、彼らの姿を確認することはできないが。
僕はうなされるように身じろぎをした。
枝葉に巻きこまれて身体がぼろぼろになっている。どこか千切れてしまったのか、羽はきしんだようにしか動かない。
そのうち身体から力が抜けてきて、ひどく甘いねっとりとした感覚につつみこまれる。暗闇がそっとまぶたを撫でていく。夢とも闇ともつかぬ場所に意識が沈んでいくのをぼんやりと感じながら、静かに目を閉じた。
僕は落ちた。
疲れたんだ。
僕はもう誰にも必要とされていないし、僕を必要としてくれた人々、僕が守りたかった人々はみんな消えていったのに、どうして生きようなどと思ったのだろう。スクアーロが僕を殺してくれれば、僕はすぐにでも楽になれたのに。
ひどく無駄な時間を過ごしていたような気がする。他よりすこしお喋りが上手なだけのヨウムにしては、じゅうぶんすぎるほどに生きた。
だから、そろそろみんなの後を追いかけてもいいはずだ。
待っていて。ザンザスのお母さん。テュール。僕ももうすぐ、あなたたちのそばへ行くから……
だけど誰かが、僕の目をこじあけようとする。
僕はうっすらと目を開けた。おかしいな、僕を起こしてくれる人はもう誰もいないはずなのに、と思った。
薄闇の部屋だ。ぼんやりとした視界に誰かの姿が映りこんでくる。淡い橙のもやに照らされた、しわを刻んだ顔と灰色のひげが見えた。
「わしは身勝手な男だ」
震えているような声が聞こえた。
「甘やかしぃの、親離れできないだの子離れできないだの、あいつに笑いながら言われるたび、自分がいかに身勝手なことをしているかを知り、胸が苦しくなる。だが<これ>ばかりはどうすることもできん。事実は変えようがない」
男はそっと目を伏せた。
「それでも、本当の息子のように思っているつもりだ。たとえ血のつながりがなくとも」
「存じております」と、別の誰かが答えた。こちらはいくぶんか若いめの男の声だった。
「あなたのお気持ちは、私にも痛いほど伝わってくる」
暗闇の中で男は視線を落とし、つかのま床を見つめてから、
「私にあの子をお預けください。必ずやボンゴレにふさわしい男に育ててみせましょう。あの子のお母様にもこちらで療養していただければ、あの子はきっとさびしさを覚えない」
そして、と付け加え、
「どうかできることなら、時々にでも九代目が会いに来てくだされば」
その瞳には一点の曇りもなかった。
「すまない」灰色のひげの男、九代目は静かにそう言った。「頼む、テュール……」
二人の姿は、風にふきちらされる雲のように流れ去っていった。明かりの色が闇ににじみながら溶けていったかと思うと、そこからまた別の光景がぼんやりとうかびあがってくる。
扉の開く音がした。
逆光の中に誰かが立っている。体格からしてどうやら男らしいそいつは後ろ手に扉を閉め、真っ暗闇の中、慣れた手つきで壁際に手を伸ばした。
とたん、明るくなった。透きとおった空色の瞳と、ほのかに光に色づいた金髪が見えた。
剣帝テュール!
僕は息を呑み、まばたきをして何度も確認し、目の前にいる彼に声をかけようとした。だが口が開かない。羽を動かして僕の存在に気付いてもらおうとしたが、羽がない。僕は姿のない視線そのものになっていた。
テュールは黙りこんだままそっと目を伏せ、床にごちゃごちゃと散乱しているものを見つめた。砕けているランプのシェード。ばらばらに散らばった紙。
なんとなく知っているような気がして部屋を見回してみると、四方をほぼ本棚に囲まれた、窓のない、あの保管庫だった。ザンザスが真実を知った場所だ。……あのときのザンザスの様子を思い出して、僕は暗い気持ちになった。
テュールは歩いていってかがみこみ、くしゃくしゃに丸められた紙くずを手にとった。部屋の端にこけていた小さな椅子を中央の机まで運んでくると、座り、しわだらけの紙をゆっくりと広げる。
あれは、もしかして。
あのとき、ザンザスが読んで、めちゃくちゃに丸め捨てた羊皮紙?
「……ザンザス」
まじまじとそれを見つめるテュールの空色の瞳から、ふいに涙がこぼれた。あのテュールが涙を流すなんて考えたこともなかったので、僕はとても驚いた。
涙をぬぐうこともせずにテュールはじっと羊皮紙に見入る。その顔には、激しい後悔と自責の念がありありとうかびあがっている。今すぐにでも彼に駆け寄ってなぐさめたかった。だけどそれは不可能なこと。テュールはもう死んでいるんだ……
小高い丘の上にある、夜闇の底のような暗い森。
草むらの陰で銀髪の頭が動き、顔を出した。青灰色の瞳が森ひとつ向こうの大きな屋敷を見つめる。
スクアーロは地に膝をつき、蛇のように目を光らせながら屋敷の様子をうかがっていたが、向き直ると、ちらりと笑って片膝を立てて座りこんだ。
「似合ってるじゃねぇか」
反対側で俯いていた少年がゆっくりと顔をあげた。
ヴァリアーの黒い隊服。力強い意志と怒りとを秘めた赤い瞳。首筋からはたくさんの羽根飾りが垂れている。
「その羽根飾りは願かけか? おまえも誓う気になったんだな?」
スクアーロの問いかけに、ザンザスは面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「う゛お゛ぉい! 答える気はないのかよ……ま、構わないがなぁ」
スクアーロはまた屋敷のほうをちらっと見やり、「とうとう、か」とつぶやいた。
「夜明けとともに数箇所に火をはなつ。うまくいけばいいがなぁ」
ザンザスはわずかに目線をあげて森向こうの屋敷を見つめたが、すぐに目を伏せた。スクアーロは右手でちょいちょいとランプを手繰り寄せ、左手の仕込み剣を照らしてぐあいを確かめ始めた。同じように息をひそめている仲間達――なかでもとりわけ目立っているのは、長めの前髪で表情を隠す、小さな冠をかぶった金髪の男の子。逆立った黒髪のいかめしい顔つきの少年。
それなりの人数が揃っていたが、ほとんどがまだ若く、血気盛んな衝動をひそめさせるので手一杯らしかった。それでも彼らのあいだには不思議な一体感があり、他へ対する怒りと憎しみがあり、そしてすこしばかりの希望があった。
しかし、殺気めいた目つきをしている人間が、ひとりいた。
そいつは意外なほど近くに、まったくの自然な様子で、ザンザスのそばにたたずんでいた。
そいつの名は――!
僕は飛び起きた。
枝葉の隙間から白い光がうっすらこぼれ落ちてきていた。目をぱちくりさせて光のぐあいを確かめる。朝だった。
今の夢はいったいなんだったんだろう。本当にただの夢だったのだろうか。
ザンザスとスクアーロが仲間を連れて、ボンゴレの本部らしきところへ乗りこもうとしていた。
しかもその仲間のなかにはあいつの姿が――あの、ぼさぼさの茶髪の、エドモンドの姿があった! あの日、ザンザスのお母さんが寝ている邸宅のそばで、ザンザスに対する怒りをぶちまけていた、あの男の姿が!
いったいどういうことなんだ。彼はザンザスの出生を誰よりも疑い、ザンザスを憎んでいたはずの人間だ。その彼がどうしてザンザスのそばにいたんだ。あれじゃあまるで彼がザンザスの仲間になったようだ。思い出されるのは、エドモンドのあの怒りをひめた瞳。迷うことなく突きつけてきた銃口。あれらはザンザスに向けられたものではなかったのか。
(九代目の息子だからって突然ヴァリアーにやってきたガキにオレ達の任務を奪われて、なんでおまえらは平気な顔してられんだ!)
(オレはなぁ、あのザンザスは本当は九代目の息子なんかじゃないって考えてるんだ!)
そうだ、あのぎらついた瞳。殺気めいた目つき。邸宅や廊下で、僕を睨みつけていたあの瞳だ!
エドモンド、まさか彼は、ザンザスを――!?
ザンザスを助けなくては。ザンザスのもとへ!
そこまで考えて、僕はうろたえた。
ザンザスはもはや僕を必要としていない。それどころか僕を殺そうとして、さらには九代目を傷つけてボンゴレを奪いとろうとしている。
それに僕が行ったところで、いったいなにができるのだろう。僕はただの鳥だ。ほかよりすこしお喋りがうまいだけのただの鳥なんだ。ザンザスのお母さんやテュール、大切な人たちを守れないただの鳥に、できることなどなにもありはしない。
僕はゆっくりと目を閉じ、なにもかも忘れ去ろうとした。
しかし、僕が忘れようとすればするほど、思い出ははっきりとした色と形をもち、心の表層にうかびあがってきて僕を苦しめた。
小さかったザンザス。僕のおしゃべりにきらきらと目を輝かせて、僕の翼をやさしく撫でてくれた。ぶっきらぼうで怒りっぽいところもあったけど、さびしがりやで、甘えることが誰より下手だった。あの赤い瞳。傷だらけの手。僕にふれてくれた、やさしい手。
……だめだ。忘れることなどできはしない。
ザンザスがどんな人間になったって、僕はやはりザンザスのことが好きなんだ。
彼は突然現れた僕を助けてくれた。いつでも僕をやさしく撫でてくれた。
――僕は、ザンザスの翼になりたかったんだ。彼が飛びたつための翼。彼の夜明けを導くための翼に!
もう迷いはなかった。
僕は大きく翼を広げ、高々と咆哮すると、きしむ羽を打ち鳴らして空へ舞いあがった。
僕はハナコ。ヨウムのハナコ。
僕は言葉をしゃべり、空を飛ぶ。僕には言葉がある。翼がある。大切な人々と過ごしてきた確かな思い出がある。
守りたい人がいる。死んでほしくない、生きていてほしい人々がいる。
(オレはまだちいさいけど、大きくなったらボンゴレの十代目になるんだ)
(私の、私の子よ)
(オレと一緒にここにいてよ)
(炎を出さなきゃ、ザンザス、お願い、炎を出して! 出しなさい!)
(きっといつかおまえを、父さんに見せてやるんだ。オレの友達のハナコだって)
(そう、私は、ザンザスのお母さん)
(オレはなぁ、あのザンザスは本当は九代目の息子なんかじゃないって考えてるんだ!)
(君は神の使いかなにかか? それとも、前世は人間だったのかな)
(てめぇ余計なこと言いやがったら……殺してやる)
(おいで、ハナコ)
(オレも羽があったら父さんのところへ飛んでいきたいんだ……)
(この子は、十代目になるのね。ボンゴレの十代目に)
(オレは誰なんだ? オレは……オレは、なんなんだ!)
(まるで神様が、ザンザスの友達として君を遣わしてくれたようだ)
(私は、私は……ああ、ザンザス、ザンザス!)
(そうか……この苦しみを味わわせたかったんだな。オレが悲しむさまを、笑いたかったんだろう)
(自分と……仲間のために)
(卑怯者! 私が今まで、どれだけ苦しんだと思う)
(希望を……)
(貴様も老いぼれと同じだ、テュール)
(オレは今、おまえを殺したくない)
(母さん、お願いだから、死なないで……)
(ハナコが何者であろうと、オレが君を好きなことに変わりはないけど)
(おまえをほうっておけなかったんだ)
みんなのさまざまな言葉が、頭の中で交錯する。
彼らの思いは煮えたぎる熱い奔流となって僕の中になだれこんできた。炎が全身を駆け巡り、うねり、息巻き、四散した。
僕の前世は、人間だったのかもしれない。だから言葉をしゃべる。人間のようにもの思う。懐かしさを感じる。
そして僕には今、翼がある。飛ぶための翼。飛びたつための翼だ。
自分が何者かなんて、もうどうでもいい。僕には言葉があり、翼がある。ザンザスのことを守りたいと思っている。それでいい。
僕はハナコ。ヨウムのハナコ。
僕は、ザンザスを守りたい……!
後編へ続く
No responses yet