孤独な少年ザンザスのもとへやってきた、人の言葉をしゃべる灰色の翼の鳥・ヨウム。
不思議な出会いをきっかけに二人は心を通わせるようになる。
ザンザスが頑なに母親と顔をあわせようとしないことを知ったヨウムは、こっそりザンザスの母親に会いにいき、そこで不思議な幻を視る。
※最終的にヒロイン(鳥)は死亡します。
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ぼんやりとした夢は、かすかな感触を残したまま、はるか遠い世界へと遠ざかっていった。
波のようなさざめきがやむと、どこまでも澄みきった透明な自分を感じられるようになる。しばらくはそのまま風にふかれ、どこともいえない場所を漂っていたが、そうしているうち、おぼろげだった意識が徐々に一点に集中してくる。まどろみを振り払うため、ぶるりと身震いをした。
突き出したくちばしは黒。ぎょろぎょろ動くのは、黒のふちどりのある金色の瞳。震わせた翼は灰色で、尾羽は真紅。
大きく広げた翼に風をあびると、心の奥底から、果てのない高揚感がわきあがってくる。
飛翔。風とともにどこまでも駆けていく感覚。さえぎるもののない大空を、一直線に突っ切っていくすばらしい心地。翼あるもの。翼持つもの。
――鳥……
――そう、僕はハナコという名の鳥。
――僕はハナコ。ヨウムのハナコ。僕は言葉をしゃべり、空を飛ぶ。
1
冷たいものが頬にかかった。
僕は急に、空を飛んでいる自分を意識した。
空の黒雲からたくさんの滴が生まれ落ち、全てのものにひとしく降り注ぐ。それは僕の知る言葉でいう、雨だった。すぐさま、灰色の紗幕があたり一面を覆う。緑の情景は激しい雨のむこうに見えなくなる。進むべき方向――そんなものがあるかどうか知らないが――を見失い、僕は戸惑った。
雨を吸ってぬれそぼった翼がひどく重い。どこかで身体を休ませなければ。
手近な枝を求めて周囲を見渡す。だが雨のせいでなにも見えない。そのうち、バランスをとりづらくなってだんだんふらふらしてくる。もはや飛ぶのだけでせいいっぱいだ。どこか身体を休められるところへ。急がなくては。
翼が雨を吸って重たく、飛ぶのにも疲れてきた。よろめきながらあちこちを見渡して、眼下の丘にひとつ、広がる緑とはまったく異質のものがあることに気がついた。
それは古い白石の屋敷だった。緑の中にうずくまるようにして建っている。おそらく人間が暮らしている家なのだろう、遠目に生き物の気配がうかがえる……
――人間? 家?
僕はなぜだか言いようのない懐かしさを感じた。
鳥として、ヨウムのハナコとして生きてきた自分に、懐かしさなどあるはずもないのに、それはまるで遠い昔から知っているもののように思われた。
――懐かしい? どうして?
僕はほぼ無意識のうちに、屋敷へむかってよろめきながら飛んでいき、心の赴くままに窓へ身を投げいれた。
「うわぁ!?」
幼い声が耳に飛びこんできた。
ぶつかる、と思った瞬間、黒髪の少年は椅子ごと後ろにひっくりかえった。僕は木机の上に腰を下ろし、疲れ果てて座りこんだ。ぐっしょりぬれた翼からひっきりなしに水がしたたり落ちる。
少年は唸りながら身体をおこし、なにごとかというように目をぱちくりさせ、それから僕の姿を発見しておののいた。赤い瞳が、未知のものを探るような視線で見つめてくる。
少年は真っ白のブラウスに黒いなめらかなジャケットを重ねて着ていた。それと膝下にかぶるくらいの、ジャケットと同じ素材のズボン。ネクタイまで結んでいる。まるで大人をそのまま小さくしたような格好だ。黒い服につつまれて、少年の幼さがひときわ際立って見える。
部屋の床には、繊細な色合いの絨毯がぴっちりとしきつめられていた。剥がして売っただけでもたいそうなお金になりそうなくらいの上物だ。僕が腰をおろしている木机は赤茶色で、なめらかな曲線を描いた四本の足に支えられている。子どもが座るには大きすぎる牛革のソファが部屋の隅にあり、その隣にはフロアランプが置いてある。壁には明かりのついていないブロンズのウォールランプ。深みのある赤色をしたチェストの上に、木彫りの写真たて。そして油絵……人間の女の人がやさしい微笑をうかべている。
「鳥?」
少年は小さな声でつぶやいた。
そのとおり。僕は鳥だ。
僕は少年のほうへふり向き、そこでふと、その口のまわりに食べ物のかけらがついていることに気がついた。見れば、彼の小さな手には、食べかけのお菓子が握られている。小麦粉とバター、ナッツの香りが空っぽの腹をくすぐった。
思わず僕はさっと飛びたって、少年の手元めがけて飛びついた。とがったくちばしにびっくりして少年の手がゆるんだその隙に、食べかけのお菓子をがっしりつかんでふたたび舞いあがり、壁のウォールランプに片足をひっかけた。ナッツのたっぷり入った固焼きのクッキーにすぐさま食いつき、あっというまにたいらげる。喉の焼けるようなひどい甘さだけど、とてもおいしい。
少年はぼうぜんとこちらを見つめていたが、ふいに僕と自分の空の手を何度も見比べ、恨めしそうに僕を睨みつけた。
「降りてこい! 羽があるなんて、卑怯だぞ!」
僕は聞こえていないふりをした。
少年はがばりと立ち上がり、窓をぴしゃりと閉めて、さらにしっかり鍵をかけた。そして意地の悪そうな笑みをうかべて僕を見た。ナッツの香ばしさにうっとりしていた僕は、そこでようやく自分がこの部屋に閉じ込められたことを理解した。
『出られない! ひどい!』
僕は思わず叫んだ。
すると少年は、びっくりした顔をしてよろよろ後ずさった。その拍子に机に身体をぶつけ、置いてあったペンがからから乾いた音をたてる。少年はそのままその場に座りこんで、ぽかんと口を開けたまま僕をじっと見あげた。
この少年、どうやら、しゃべる鳥というものが珍しいらしかった。そこで僕はすかさず少年の頭上を飛びこえて、机の上にさっそうと降り立ち、大きく翼を広げてみせた。赤い瞳が僕を追いかけ、少年はふりかえる。僕の金色の瞳と少年の赤い瞳はつかのま見つめあい、まばたいた。少年は様子をうかがうようにしながらそろそろと近づいてきた。
「おまえ……いったい、なんなんだ?」
『僕はハナコ。僕はかしこいヨウム』
僕が答えると、少年は目を丸くした。
「おまえの名は、ハナコというのか?」
『そう、僕はハナコ。あなたは?』
少年は不可解そうな顔をしていたが、しばらくして、
「……ザンザス」
とても小さな声でそう答えた。
『僕はハナコ。きみはザンザス』
僕がちゃめっけたっぷりに身体を左右にふりながら言うと、ザンザスは子どもらしい笑みをかすかにのぞかせた。
そのうち、いくら近づいても僕が逃げようとしないことに気がついたらしく、ザンザスはおそるおそるといった様子で、小さな手のひらを伸ばしてきた。ひかえめな手のひらに僕は恐れることなく頭を寄せた。ぎこちない手にこちらから頭をこすりつけてやる。少年の手から、張り詰めたものが少しずつ抜け落ちていった。やわらかい手のひらには、小さな傷跡と、薄い火傷の跡のようなものがいくつか染みついていた。
「おまえ……ぬれてる。さっきの雨に降られたのか?」
ザンザスはつぶやき、ポケットからハンカチを取り出して僕の翼をすこし乱暴にぬぐった。お礼の気持ちをこめてぴぃと鳴いてみると、ザンザスは嬉しそうに目を細めた。
「お腹すいてるか?」
上機嫌な声でザンザスは言った。お菓子をとられたときの怒りなんて、とうに忘れてしまったのだろう。
「さっきのお菓子、まだあるんだ。給仕係の女の人にこっそりもらったやつだし、言ったらまたくれるだろうから、気にせずに食べていい」
言いながら、机の引き出しをあさり始めた。いったいいくつ隠しているのか、さっきのお菓子のはいった袋をひょいひょい机の上に出していく。やがてすっかり出しきると、机の上はお菓子の袋でいっぱいになった。ザンザスはどこか誇らしげな笑みをうかべて僕を見つめた。
「全部おまえにやる。ハナコ、好きなだけ食べていい。……袋が開けられないのか? だったら、オレが」
そのとき、部屋の扉が重々しい音をたてて開いた。
「ザンザス! 遅くなってすまない! 勉強ははかどって」
男の声がした。とたん、ザンザスは大声をあげて机の上に身を投げ出してきた。
お菓子の袋といっしょくたに抱きこまれて、僕はくぐもった声を出した。
「……何を、しているんだ。ザンザス、そこになにかあるのか?」
「ない! なにもない! だから、こっちへ来るな、テュール!」
もがきながら耳を澄ます。絨毯をふむ靴の音がこちらへ近づいてくる。
わずかな隙間に影がさした。僕はすこしびくびくしながら身体を縮こまらせた。
「おまえがそれを気に入っているのは、オレも知っているが。約束しただろう、ザンザス、お菓子を食べるのは勉強を終わらせてからだ。それは全部、またあの給仕係からもらったのか? 全部没収にするぞ」
「ごめんなさい」
早口に謝りながら、ザンザスはジャケットの中に僕を押し込めようとする。
もみくちゃにされて僕はますますもがいたが、せまいジャケットの隙間に無理やりつめこまれてしまった。ザンザスは机から身をもぎ離し、そのまますっと背を正す。きっとお腹の部分だけがつっぱってふくらんで、男の目には不恰好に見えているに違いない。やけに堂々としているザンザスにおかしさを感じたのだろうか、男がため息をついたのが聞こえた。
「ザンザス、それで隠しているつもりか? 服の中につめこんでやり過ごそうたってそうはいかないぞ。ちゃんと全部出しなさい」
咎めるような声がした、かと思うと突然強い力でがっしと全身をつかまれた。
僕はびっくりしてじたばたした。すると今度は男が短い叫び声をあげた。ザンザスは暴れさせるまいと両腕で締めつけてくる。僕はとうとう我慢できなくなり、ひたすらにもがいて、ジャケットの胸元のところから顔だけ飛び出させた。息のつまるような感覚がさぁっと薄れていく。
「馬鹿、出てきちゃだめだ」
ザンザスは厳しい声色で言った。
僕はいやいやと頭をふった。とたん、空色の瞳と目が合った。
男が、こちらをじっと凝視していた。意志の強そうなきりっとした眉に、ととのった目鼻立ち。髪はガラス瓶につめこんだ蜂蜜の色によく似ている。服は真っ黒。男は右手をあごにそえて、僕の瞳の奥深くを覗きこんできた。僕はどきどきしながらそっと見つめかえした。
「なんなんだい、こいつは」
分からない、というふうに男は言った。
「部屋に入ってきたんだ。お腹がすいてるみたいだった。自分のこと、ハナコと名乗った」
ザンザスがすこし笑いながら言った。
「名乗った?」
「ハナコ、こいつはテュールっていうんだ。テュールにも聞かせてやってくれ。おまえの声を」
『こんにちは、テュール』
僕が言うと、テュールは空色の瞳を大きく見開かせた。
『僕はハナコ。僕はかしこいヨウム』
驚いてくれているのだと思い、自信たっぷりにそう続けた。
しかし、ひやりとする冷たさが僕の喉にふれた。いつのまにか、白い剣の切っ先がぴったりと首にそえられていた。僕は息を呑んでその剣の持ち主を見あげた。ぞっとするような冷たい表情で、テュールはこちらを見下ろしていた。
テュールの左手は義手になっていた。剣は握られているのではなく、彼の手首と手の甲のところにぴったりとあてがわれて固定されているようだった。
「なにをしている、テュール。どうしてハナコに剣をむける?」
「このような『かしこい』ヨウムを、おいそれとヴァリアーの屋敷に入れるわけにはいかないからです」
空色の瞳の奥で、なにかがぎらぎらと鋭い光を放った。
「ザンザス様、分かりますね? あなたは九代目の御子息だ。九代目がこのヴァリアーをあなたの教育の場としてお選びになった以上、私はいかなる危険をもあなたから遠ざけなければならない。たとえそれが、こんな鳥であったとしても」
その瞬間、ザンザスの腕が大きく震えたのが僕にも分かった。
「――だからってこいつを殺すのか?」
ザンザスは震える声で言った。
「ハナコはただ、お腹が空いていたからオレのところへ来ただけだ! ハナコはなにも悪くない!」
ザンザスは両手でテュールの剣に抱きついた。
一瞬、テュールの剣から力が抜けた。僕はその隙をついて翼をはためかせ、ザンザスの胸の中から抜け出した。
テュールが閉め損ねたらしく、扉はわずかに開いていた。細い隙間の向こうで光がきらめく。まるで、いざなうように。僕は扉の隙間にすばやく身体をねじいれて廊下に飛び出した。
「逃がすな! 誰か、その鳥を捕らえろ!」
すぐさまテュールの怒鳴り声が響いてきた。
廊下の壁にたくさん並んだ扉から、テュールの声を合図にしたように次々に人が飛び出してくる。みんなテュールの服と同じような黒い服を着ていて、飛んでいく僕の姿を呆然と見あげてから、我先にと押し寄せて手を伸ばしてきた。
赤絨毯の床の上を滑るように飛び、追いつかれそうになると一気に天井まで飛び上がる、僕はそんなことを繰り返しながら開いている窓を探した。しかしどこへ飛んでもそんなものはひとつも見当たらなかった。ここは閉鎖された空間のようだ。
「誰か、はやく捕まえてよ!」
「あんな高いところにいるの、無理に決まってるだろうが!」
人間達の声が重なりあう。低いもの、高いもの、騒がしいもの、しわがれたもの……
ここから出なければならない。ここは人がたくさんいて楽しそうだけど、とても怖い感じがするからだ。
それにあのテュールという男。あれは僕を殺すつもりだ。ザンザスは僕をかばってくれようとしていたみたいだけど、テュールは絶対に手加減などしない。あの剣で僕を切り裂いて、羽をむしって、それから焼き鳥にでもするつもりなんだ、きっと……
(あれ?)
冷たい感触が身体を駆け抜けた。
次の瞬間、なまぬるいものが横腹から噴き出した。僕はそれをどこか他人事のように感じながら、ぼとりと床に落ちた。意識が冴えて痛みが襲いかかってくる。瞳がぎょろぎょろ動き、身体はひくひくと痙攣する。生命の流れというべきものが、急速に身体から流れ出ていっていた。のたうちまわることもままならず、じんじんする痛みにただただ叫ぶだけの僕を、黒い服の人々が遠巻きに囲う。
身体が冷えていく感じがする。僕は、死ぬのだろうか。
「悪く思うな」
影がさし、空色の瞳が僕を覗きこんだ。
かがみこみながらテュールが手をかざす。頭上で白い光がきらめいた。僕は薄れゆく意識の中で自分の死を予感し、まぶたの重さに任せるままに目を閉じていった。
「やめろ、テュール!」
だが、幼い声が僕の目をふたたび開かせた。
人々の輪がどよめきとともに左右に分かれていったかと思うと、突然、大きくて真っ赤な瞳が僕の顔の上に飛びこんできた。傷だらけの小さな手が僕をすくいあげる。
「ハナコはなにも悪くない! 悪くないんだ!」
ザンザスは床に膝をつき、かばうように僕を胸に抱きこんだ。真っ白のブラウスが血を吸いあげて赤く色づいた。
「だから、殺さないでくれ!」
「……ザンザス、おまえ」
テュールが悲しそうな声でつぶやいた。
僕はザンザスの顔をぼんやりと見つめた。頬の上を光るものがすべり落ちていき……
それきり視界は真っ暗になった。
それから、目が覚めたときにはもう夜だった。
あの喧騒が幻であったかのように屋敷はすっかり静まりかえっていた。
「テュールのこと、怒らないでやってくれ。しょうがなくおまえを傷つけただけなんだ」
ザンザスはなめらかそうな素材のパジャマを着て、ベッドの上に寝転がってひじをつきながら僕をじっと覗きこんでいる。
僕はどういうわけか生きていて、白布のひかれた籠の中に寝そべっていた。翼はすっかりかわかされ、胴には清潔な包帯が丁寧に巻かれている。すこし痛いけど耐えられないわけではない。
『ザンザスは、どうしてハナコを助けた?』
気になって僕は尋ねた。
「どうしてって」
ザンザスはきょとんとした。
「……ハナコはただの鳥なのに、ここにいるからって殺されるのは嫌だろ。おまえをほうっておけなかったんだ」
ザンザスはずっと僕を撫でてくれている。僕は心地よさに目を閉じながらザンザスの言葉を聞いた。
「オレ、鳥に憧れてるんだ」
『鳥に?』
ザンザスが僕の羽をちょいちょいと軽くつついた。わずかに傷が痛んだが僕は我慢した。
「翼があるってかっこいいし、どこへでも飛んでいけるだろ。オレも羽があったら父さんのところへ飛んでいきたいんだ……でもその前にテュールに捕まりそうだよなぁ」
最後のほうはうんざりといった声色だった。
テュールというのは、僕を斬りつけたあの金髪の剣士のことだ。いったい彼は何者なのだろうか。
『テュールというのは誰?』
「おまえを斬ったやつだよ、ハナコ! でも悪いやつじゃないんだ、絶対」
ザンザスは早口に言った。
「あいつ、このヴァリアーで一番偉いやつなんだけど、オレの父さんに頼まれて、オレの家庭教師みたいな役をしてるんだ。だから危なそうなのは全部排除しないと気がすまないんだってさ」
『ヴァリアー? ヴァリアーとは?』
聞いたことのない言葉だった。ザンザスは自信たっぷりの表情で口を開いた。
「<ヴァリアー>はイタリアのマフィア・ボンゴレに属している……属している?『独立』だから属してないのか? とにかく、そのボンゴレの独立暗殺部隊がヴァリアーという名前なんだ。テュールはヴァリアーのボスであり、<剣帝>とうたわれるほどの剣の使い手。そんな人がオレの先生なんだから、びっくりするよな」
イタリアンマフィア・ボンゴレ、ヴァリアー……頭の中で何度も何度も反復してその舌触りを確かめる。その言葉は驚くほど自然に僕の頭の中になじんだ。まるでそれを覚えるのが当然であるかのように、すっと入りこんできたのだ。僕は素直に驚いた。そして……
ボンゴレ、それはイタリアにある最大のマフィアのこと。
ヴァリアー、それはボンゴレの影、屈指の独立暗殺部隊。
テュール、それはヴァリアーのボスであり、剣帝と謳われる剣の使い手。
ザンザス、それはテュールの教え子、この目の前の少年。
意識もしていないのに、頭の中で次々に情報が整理されていく。
「でもな、ハナコ。オレの父さんはもっとすごいんだ」
ザンザスが嬉しそうに言った。
『ザンザスのお父さんって?』
すぐ真上から覗きこんでくる赤い瞳にむかって僕は尋ねた。
テュールはザンザスの父に頼まれて、ザンザスの家庭教師みたいな役をしているそうだが、剣帝とうたわれる彼に頼むくらいだからザンザスのお父さんはよっぽどの人なのだろう。僕はその人の情報を知りたかった。
「ああ。オレの父さんはボンゴレのボスなんだ。ボンゴレ九代目ってみんなに慕われてる」
僕が尋ねてすぐ、ザンザスは赤い瞳をますます輝かせて僕を見つめ、まるで自分のことのように嬉々とした表情で言った。
『ザンザスのお父さんが九代目だということは、ザンザスはいつかボンゴレの十代目になるの?』
「そう、そうだ、ハナコ。オレはまだちいさいけど、大きくなったらボンゴレの十代目になるんだ。そのためにこのヴァリアーの屋敷でたくさん勉強するんだ……そうすればいつかは本部の方へ、父さんのいるところへ行ける」
声の最後のほうはくぐもっていた。ザンザスの瞳がまたかげりを見せる。
僕の目の前にいるのはたぶん、大人ぶっただけのまだまだ幼い少年なのだろう。瞳に不安そうな心がのぞいている。
大人みたいにスーツなんて着こんでいても、心は街にいる子ども達となんら変わらないのだ。パジャマを着ている今の姿のほうがよっぽど彼らしく見える。子どもっぽい言葉と大人ぶった言葉が混在している今の彼は、ヨウムの僕にもなんだかいとおしく映った。鳥がこんなことを思うなんておかしいのかもしれないけど。
僕は小さく鳴いて、ザンザスの指をくちばしで軽くつついた。
ザンザスはびっくりした様子で一瞬指をひっこめたが、またそうっと近づけてきて、今度はくちばしを撫でてくれた。
『ザンザスのお父さんはここにはいないの?』
「父さんは本部にいる。父さんは忙しいから……全然会えない」
ザンザスはすっと目を細めて押し黙った。
僕は彼の顔をじっと見つめてから、くちばしを指に押しつけた。彼の傷だらけの指はとてもあたたかかった。
「……ハナコ、おまえ、翼がなおったらどこかへ行っちゃうのか? ここにとどまる気はないのか? オレと一緒にここにいてよ」
ザンザスがかぼそい声でささやくように言ってきた。
「ここにはなんでもある。欲しいものがあるならたぶん買ってやれるし、明日にはおまえのための食べ物だって届くんだ。なぁ、ハナコ」
僕はしばし悩んだ。
そして……
『ハナコはここにいる。ここにいて、ザンザスと一緒にいる』
ザンザスははっきりと喜んでくれた。木籠をぎゅっと抱きかかえて目を細める。
「やった。ハナコ、約束だからな。きっといつかおまえを、父さんに見せてやるんだ。オレの友達のハナコだって」
約束――その言葉はなんだかとても甘い響きに感じられた。
ここを出ていく理由も特にないし、なにより、このザンザスという少年は僕にやさしくしてくれる。だったら僕はこの少年と一緒にいたい。こんなふうにとても喜んでくれるわけだし。
廊下からわずかに足音が忍び寄ってきた。僕がそれに気付くのとほぼ同時にザンザスがはっと顔をあげる。
「テュールだ」
ザンザスはつぶやき、毛布を引っぱってきて自分の身体にかけた。ふかふかの大きな毛布につつまれたザンザスが小さく見える。
ハナコ、おやすみ、と小さな言葉を残してザンザスは目を閉じた。部屋の扉がゆっくりと開く。あの金髪の男が静かに入ってきて、ベッドで眠るザンザスの顔を覗きこんだ。僕はうっすらと目を開けてその様子をうかがった。壁のブロンズのランプがずっと淡い明かりを落としてくれているおかげで視界は失われていないのだ。
テュールは小さく笑みをうかべると、右手でザンザスの黒い髪をくしゃりと撫でた。
続いて籠の中の僕の顔を覗きこむ。このときばかりは僕も目を開けていられず、きつく閉じた。ややあってから大きな手が僕の翼にふれた。いたわるような手つきで毛並みにそって撫でてくる。僕はすこしうっとりしてしまった。
テュールは最後にもう一度ザンザスを見てから、そっと部屋を出て行った。
横を見ると、ザンザスはもう眠ってしまっていた。彼の幼い眠り顔を眺めているうちに僕もうとうとし始める。そのうちに沈むように眠りこんだ。
2
僕はヨウムのハナコとしてヴァリアーの屋敷で暮らすことになった。
あの運命の日、僕をつかまえようと追いかけまわしていた黒服のヴァリアー隊員たちも、今では僕の姿を見かけては「ハナコ、ハナコ」と声をかけてくれる。僕は飛びまわるよりもそのあたりの適当なところで腰を下ろしていることのほうが多かったので、隊員達の目につくことも多いというわけだ。僕に言葉を覚えさせようとしていろいろ話しかけてくれる隊員も多く、僕は今まで以上にたくさんの言葉を覚えるようになった。
たとえば<坊ちゃん>――これはザンザスのことだ。
ザンザスは九代目の子息ということでヴァリアーの中でも特別視されている。そのぶん稽古などの中で手抜きされることもあれば、逆に容赦なく叩き潰されることもある。人によってさまざまな対応があるのだろう。ザンザスのことを坊ちゃんと呼ぶ隊員達はとりわけザンザスのことを気にいっていて、ザンザスの姿を見ては我が子のようにかわいがろうとする。彼らから差しのべられる手を払いのけるふりをして、実はザンザスがすごく喜んでいることを僕は知っている。
ちなみに、稽古でザンザスを容赦なく叩き潰す人――これには二種類ある。彼のことを考えてそうする人と、彼のことが気に食わなくてそうする人だ。なぜ後者の人々がザンザスを嫌うのか僕は知らない。まだ子どもなのに九代目の子息としてザンザスが特別扱いされるからだろうか……考えても僕の中から答えは出てこなかった。
そうそう、もうひとつ変化があった。
僕はあのテュールとすっかり仲良くなった。
こういうふうに空を飛んでいると、カチ、カチと小さな音が聞こえてくることがある。
テュールが歩くと彼の義手の剣はかすかに金属音をたてる。僕はその音のするほうへ飛んでいき、彼の近くで羽を震わせてばさばさと音をたてる。そうするとテュールはすぐに僕の存在に気付くのだ。
今日もいつものように、彼がふりむいたところで僕は彼の右肩にすっと降りた。彼はまるで猫にするみたいに僕の羽をくすぐった。
「やぁ、ハナコ。今日も元気そうだな」
テュールの大きな手はとても気持ちがいい。それだけが理由ではないが、とにかく僕はテュールのことが大好きになった。
テュールは普段隊員達に稽古をつけたり、ボスとしての事務的な仕事をこなしたりしながら、ザンザスの勉強を見てあげている。
僕もたまにそれにつきそっているのだが、言葉や計算、歴史などを教えるときのテュールの表情といったら、とても楽しそうなのだ。彼は自分の持っているものを他者に受け継いでもらうことに喜びを見出すところがあった。彼の知識は僕をわくわくさせた。だけどザンザスはげんなりした顔をしていることが多かった。どうやらテュールとの勉強よりは稽古のほうが好きなようだ。
『テュール、今日はなにを?』
「今日はまず隊員達の剣の訓練からだな……ハナコ、おまえも来るか?」
『行く! テュールが剣を使うのを僕も見たい』
僕がそう言うと、テュールは僕の羽をわしゃわしゃと撫でた。
背高のテュールの肩に乗って見渡す世界は不思議なものだった。
偉そうにいばっている隊員もテュールの姿を見れば瞬時に敬礼をするし、どんなに背中を曲げている隊員もテュールを見ればやはり姿勢を正して敬礼をする。その後でテュールが「あまり無理をするな」と言うのはお決まりのことだ。
だけどテュールはみんなから恐れられたり、嫉妬されたりしているわけではない。そうしない人間がいないとはいいきれなくとも、テュールはヴァリアーの隊員ほとんどにとても好かれているのだ。剣帝に話しかけられて顔を輝かせている人間もよく見かける。ただし、緊張のあまり胃を押さえている隊員がいるのも事実。
独立暗殺部隊とはいえ、テュールも隊員も任務以外のときには非常に穏やかなものだった――だけど任務の時は話は別。
以前、任務から帰ってきた隊員達を偶然見かけたことがあった。
彼らはみな瞳になにかを抱えていた。ある者は瞳の中で冷たいものをぎらつかせ、その氷塊の奥にはとぎすまされた鋭い刃があった。ある者は瞳の奥でどす黒い炎を激しく燃えあがらせ、それをどうにかかき消すのに必死だった。またある者は小さく笑い声をあげながら目をきらきらと輝かせていた。そんな彼らを初めて目にした日の夜、僕は怖くなってザンザスのベッドへもぐりこんだ。震えている僕をザンザスはなぐさめるように抱いてくれたが、結局夢の中にも彼らの瞳が出てきて、それからしばらく隊員達に近づけなかった。まぁ一晩もたてば彼らはけろりとしたいつもの顔に戻るので、今はもう慣れてしまったのだが。
「そうだ、ハナコ。聞いてくれ。今度の任務にザンザスを連れていこうと思うんだ」
僕はテュールの言葉に驚いた。
ついにザンザスが任務に就くときが来たのだ。
「それに今度、九代目がここへ来てくださるんだよ。彼に会うのはハナコも初めてだね」
『九代目? ザンザスのお父さんが?』
「そう――……息子であるザンザスに会うために。そして、この屋敷にいるザンザスのお母さんに会うために」
ザンザスは屋敷の裏にいた。
数歩離れたところから、いびつな形の巨大岩にむかって手をかざしている。
僕の羽ばたく音に気付いたザンザスがばっと顔をあげた。「ハナコ!」叫んで手をふる。僕はザンザスのかかげた腕にさっと降りたった。出会ったときよりもいくぶんか大きくなった手が、僕の羽を抱えこむようにやさしく撫でる。僕はザンザスの胸元に頭をこすりつけて喉を鳴らした。彼は腕をかるく持ちあげて僕の顔に頬ずりをしてくれた。
『あのね、ザンザス――』
「ハナコ、ちょうどいい! 見ていてくれ! やっとうまくできるようになったんだ」
ザンザスはさえぎり、興奮気味に僕を肩に乗せた。得意げに微笑んだ横顔が隣にある。
「いくぞ……」
ザンザスがいびつな岩に手をかざす。まばゆい光が手中から溢れだす。僕は目を見張った。
雷光のような輝きが手のひらでいったん収束し、次の瞬間に解き放たれた。いくつもの光の矢が大きな弧を描いて岩に降りそそぐ。それはたとえるなら聖なる矢とでも言うべき、光り輝く炎だった。視界全体を白い光が埋め尽くす。激しい音がやんで目を開けたときには、岩はもっといびつになっていて、ぼこぼこに削られた不恰好な姿をさらしていた。
これが、ザンザスが特別扱いされる理由のひとつでもあった。
テュールが言うには、ボンゴレの血族はその血の中に脈々と炎の力を受け継いでいるらしい。九代目の子息であるザンザスももちろん例外ではない。この炎の力を持つことこそが、ザンザスがボンゴレの正統たる後継者であることのなによりの証なのだ。ボンゴレというのはなるほどすごいものだ。僕のような一般人、もとい一般鳥にはとうてい手が届きそうにない存在だ。
『ザンザス、すごい! ハナコはとても驚いた』
僕が言うと、ザンザスはすこし照れたように笑みをこぼして僕の頭を撫でた。手はすこし熱かった。
「このコントロールでもっと威力をあげたらきっとすごい炎になる。炎がうまく扱えるようになったことを知ったら、父さんは喜んでくれるかな」
ザンザスは嬉しそうだった。
十代目になるんだ、十代目になるんだといつも言っている彼のことだから、嬉しいのも当然だ。
彼の手のひらが火傷の跡だらけである理由はたぶん、この強大すぎる炎の力を、昔の彼が扱いきれなかったせいなのだろう。こういうふうにひとりきりで練習して、近頃ようやくコントロールもうまくいくようになったのだ。テュールはかならず喜ぶだろう。言葉どおり、ザンザスを次の任務に連れていってくれるに違いない。
そこで僕はようやく本来の用事を思い出した。ザンザスに伝えるようにとテュールが『信頼するハナコ』に頼んでくれたのに、忘れていたなんて。
『ザンザス。テュールからの伝言があるよ』
僕はごほんと咳をするように喉を鳴らし、ザンザスを見つめた。
『――ザンザス、三日後、君のお父さんがここへ来てくださるよ。お母さんのお見舞いだそうだ。仕事の時間を削って会いに来てくださるんだから、時間は少ししかないけどおまえもお母さんの病室へ行きなさい』
僕は一字一句正確にはっきりと伝えた。
だけどザンザスはなぜだか暗い顔をして俯いている。赤い瞳にかげりが見えた。
なにかまずいことを言った? 僕はテュールの言葉をそのまま言っただけのはずなのに。
『――それと、今度の任務に君を連れていこうと思う。炎はうまく扱えるようになったかな』
続けて言うと、ザンザスがようやく顔をあげた。ごくりとつばを飲みこむ音がした。真剣な表情で僕の言葉に聞き入る。
『――任務は一週間後。お父さんにいい知らせを送ってあげられるよう、ちゃんと練習するんだよ。君の家庭教師のテュールより』
「テュール……いつまでもオレを子ども扱いするんだな」
ザンザスは不満そうに眉を寄せた。
「オレだってもう大人なんだ」
『でもザンザスはまだ十を過ぎたばかり』
「ハナコまでオレを子ども扱いするのか?」
僕は返事をする代わりに彼の頬に羽を寄せた。
くすぐったそうにザンザスが顔をくしゃくしゃにする。そういう表情を見ると、やはりまだ子どもだな、と僕は思わずにいられないのだった。
三日後のその日、ザンザスは部屋から出てこなかった。
部屋の窓に顔を寄せ、こっそり中を覗いてみると、ザンザスはベッドにつっぷして枕を抱えこんでいた。
部屋の中は薄暗かった。明かりはない。窓からさしこむ光がザンザスの小さな背中に布のようにかかっている。部屋の隅の暗がりで、あの油絵の女性がやさしく微笑んでいた。僕はすこし悩んだ後でその場を飛びたった。
今日は九代目――ザンザスのお父さんが屋敷へ来る日だ。
ザンザスはお父さんのことがとても大好きなようだった。彼と話しているとお父さんの話題がよく出てくる。テュールから聞いたお父さんの功績をザンザスは誇らしげに僕に語ってくれる。それほど好きなのだ。それなのに今日のこの日、ザンザスが部屋を飛び出さないというのはなんともおかしな話だ。
僕はまっすぐに上まで飛んでいき、白石の尖塔の上空を旋回した。強い風がふきつけて羽毛が逆巻きになる。雲ひとつない青空が頭上にどこまでも広がっていた。
……そういえば、僕はまだザンザスのお母さんに会ったことがない。
九代目はザンザスとザンザスのお母さんに会いにやって来るのだというし、この屋敷のどこかに彼女はいるはずだが、果たして?
しばらくのあいだ考えていると、ふと、土地の端っこにある白い邸宅が視界に飛びこんできた。隊員達が日の大半を過ごす建物からはだいぶ離れた場所にあり、周囲を大きな木々に囲まれるようにして建っている。
僕はあそこに行ったことがない。
もう屋敷のかなりのところへ遊びにいったけど、ザンザスのお母さんらしい人は見あたらなかった。だとすれば、もしかして彼女はあの邸宅にいるのではないか?
僕は小さな期待を胸に飛んだ。
木々が邸宅の外壁に灰色のまだら模様を描いている。一番大きな木がいいぐあいに窓辺にかかっていたので、僕はその枝へ腰を下ろした。ひょいと窓を覗きこむ。見覚えのある背高のやわらかな金髪が、ちょうど扉のほうへ去っていくところだった。その背中をじっと見つめてから、ベッドのほうへふり返る老人がひとり。そしてベッドに横たわる女性がひとり。
あれがザンザスのお父さん――それと、ザンザスのお母さん?
老人、たぶんザンザスのお父さんであろう人は、ほっそりした身体にスーツを着こなしていた。ほとんど色の抜け落ちかけた白髪はやわらかそうで、後ろにむかって自然とはねている。白いまゆげと白い口ひげはふさふさしていた。やさしい丸い瞳。目尻のしわが彼の穏やかな雰囲気をよけいに際立たせているせいもあり、とてもマフィアのボスには見えない。
老人はなにかつぶやいてベッドの端に腰かけ、横たわる女性の金色の前髪を指でそっとすいた。女性は小さく笑みをうかべる。だけどその瞳はうつろで、どこか遠い世界を見つめているようだった。
女性は若かったが、やつれていた。彼女の身体は白い寝巻きにつつまれ、ほとんど動かずにじっとベッドに沈んでいる。
僕はそこではっとなった。この女性は、ザンザスの部屋にあるあの油絵の女の人にそっくりだ。部屋の暗がりにある、微笑みをうかべた女性の肖像、あれはこの人に違いない。絵の顔と今のやつれた顔とではいくぶんか違いもあるものの、顔立ちや笑ったときの表情は同じだ。
老人がなにかささやく。
彼は、ザンザスのお父さんはなにを話しているのだろうか。僕は我慢しきれずに窓ガラスをかるくつついた。老人が顔をあげた。僕の姿を見たとたん、老人はあっというふうに口を開け、立って窓辺までやってきてガラス窓を開けてくれた。
「やぁ、もしかして君は」
僕はすこし遠慮しながらそっと部屋の中に入った。追い払うでもなく、老人はまた元通りベッドの端へ腰かける。部屋には必要最低限のものしか置かれておらず、すこし物寂しいかわいた雰囲気がある。僕は部屋の中をぐるりと回ってから老人の肩にそっと腰を下ろした。
「灰色の翼に、この赤い尾羽……黒いふちどりの金の瞳。テュールが言っていた、かしこいヨウムのハナコというのは君のことだね?」
『ブオンジョルノ、おじいさん。僕はハナコ。あなたは誰?』
「やや、これは本当にかしこい子だ。ブオンジョルノ、ハナコ。私は……ボンゴレ九代目、とみんなには呼ばれているね。君に分かりやすく言うと、ザンザスのお父さんということさ」
やはり彼がザンザスの父親なのだ。
たまらず僕は彼に頬ずりした。彼はくすぐったそうに目を細め、僕の羽をやさしく撫でてくれた。
「ハナコ、私になにか言葉を聞かせておくれ。こんなにもかしこい鳥に会うのは初めてだ」
僕はなにを言おうか悩んでから、
『ザンザス、違うだろう。この計算は昨日もやったはずだ。もう一度思い出してごらん。……そう、そうだ。えらいな』
この前、ザンザスに勉強を教えていたときのテュールの言葉をそのままそっくり言ったのだった。
九代目はたまらず吹きだすように笑い、僕の翼をわしゃわしゃとくすぐった。
「あっはっは! テュールだな!」
「……あの子は、ザンザスは元気ですか、ハナコ」
横たわっていた女性がか細い声で言った。僕は一瞬びくりと驚いてしまった。
『ザンザスはとても元気。心配することはない』
「ああ……よかった……ザンザスは元気にしているのね」
表情がやわらかくなる。油絵と同じ――彼女がザンザスの母親なのだと僕は確信した。
彼女はうつろな目で虚空の向こう側を見つめ、もう一度息子の名前をつぶやいた。ちょっとした風にもかき消されてしまいそうなほどの細い声だった。九代目はそんな彼女に手を伸ばし、彼女の手をやさしくつつんで撫でさすった。
ヨウムのハナコにもなんとなく分かってきた。
ザンザスはたぶん、理由は知らないが、お母さんのことが苦手なのだろう。それでお母さんに会いに行きたくなくて、ここに来てくれたお父さんにも会いに行けない。だからザンザスのお母さんが、あの子は元気か、なんて尋ねてくるのだ。息子の様子を自分の目では確かめられないから。
「ハナコ、ザンザスは……」
九代目が気がかりそうに尋ねてきた。
『ザンザスは部屋で眠りこんでいるよ。炎をうまく扱えるように毎日練習していたから、疲れてしまった』
僕はたぶん嘘をついた。
「それじゃあ――ザンザスに会いに」
「九代目、そろそろお時間です」
九代目が言いかけたとき、扉が開いた。
黒いスーツを着た男がふたり、部屋に入ってきたかと思うと、彼らは厳しい視線でこちらを見つめた。九代目の肩に乗る僕の姿を見つけてぐわっと目を見開く。すごい勢いで近づいてきて僕の頭をつかもうとする。
「こいつ、どこから入ってきた!? しっしっ、九代目から離れろ!」
「やめろ、この子は」
「ハナコがなにか失礼なことを?」
九代目の声に低い男の声が重なった。
ふたりの男は扉のほうにふり返り、後ずさった。黒衣を着こんだ背高の金髪がふたりを見下ろすようにしていた。僕は慌てて九代目の肩から飛びたち、テュールのがっしりしたぶあつい肩に降りたった。
「ハナコがあなたがたに失礼なことをしたのなら、この私が謝罪致します」
テュールは九代目をじっと見つめた。
「いや……謝る必要などないよ、テュール。むしろハナコにお礼を言いたいくらいだ。ありがとう、ハナコ」
九代目は目を細めた。スーツのふたりがうろたえるような表情をうかべて頭をかき、
「その鳥は何者で?」
「かしこいヨウムのハナコです。彼女も私の信頼するヴァリアーの一員」
「こ、こんな鳥がぁ?」
ふたりは驚いた様子で僕をじっと見つめた。僕はかわいげたっぷりにウインクしてみせたが、彼らは気がついてくれなかった。
九代目は部屋を出ていく前、ザンザスのお母さんの瞳をじっと見つめ、慈しむように頬を撫でた。彼女はやはり微笑んだが、その目はどこかうつろだった。九代目とふたりの部下が出ていくのを見送った後で、テュールと僕もザンザスのお母さんにひとことふたこと話しかけてから、静かに部屋を後にした。
「ハナコ」
テュールの右肩でぼんやりしていた僕にテュールが話しかけてきた。顔をあげると突然、右手の指でくちばしを軽くつままれた。
「オレはザンザスとおまえを探しにいっていたというのに、おまえは自分でここに来たんだな……だめじゃないか、ハナコ、勝手にこの建物に入ったりしちゃあ。九代目の部下に丸焼きにでもされたらどうするつもりだい」
ごめんなさい、と僕は謝ろうとしたが、上下からくちばしを押さえられているせいでうまく言葉にできなかった。
「九代目は喜んでくれたようだから、これ以上は何も言わないが」
テュールはぱっと指を離した。その指ですぐに羽を撫でてくれる。僕はその手つきにうっとりしながらテュールの頭にもたれかかった。
「……ザンザスは、部屋から出てきてくれなかったよ」
テュールが残念そうにつぶやいた。
「忙しいのも分かるが、九代目にはやはりザンザスに会いにいってあげてほしい。あの子はああ見えて寂しがりやなんだ」
『ザンザスは部屋でベッドにつっぷしていた。あんなにお父さんに会いたがっていたのに、ザンザスはどうしてここへ来ないの? お母さんに会いたくないの?』
テュールの空色の瞳がじっと僕を見あげた。しばらくしてからテュールは口を開きかけ、また閉じた。
じれったくて僕が羽を動かすと、
「おまえは知らなくてもいいことだ、ハナコ。ザンザスが話したくなったときにきっと話してくれるさ。それまでは黙っておいで」
余計なことを聞くなといわんばかりにテュールは僕のくちばしをまたつかんだ。それから彼は押し黙ってしまった。
しかしテュールも、そしてザンザスも、次の日にはもういつものふたりに戻っていたのだった。
週末、テュールは宣言したとおりザンザスを連れて任務のために屋敷を出た。
ヴァリアーのボスが自ら実地に赴くのはめずらしいことだった。数人の精鋭の隊員とザンザスを連れてイタリアの北のほうへ向かう。
本音を言うと、僕も彼らについていきたかった。しかし僕はただの鳥だ。飛ぶこととしゃべることしかできない。
それでもテュールは九代目の前で僕を<信頼するヴァリアーの一員>と呼んでくれた。その期待を裏切ることはしたくない。だからせめてテュールが不在のあいだ、僕がヴァリアーの屋敷の見回りをするのだ。僕はひとり意気込んで尖塔からさっそうと飛びたった。風をきって屋敷の上空を飛びまわる。
訓練場からは金属のぶつかりあう音がひっきりなしに聞こえてくる。屋敷はずれの地下射撃場もいつもどおりだ。食堂も普通に機能しているし、談話室ではみな楽しそうに談笑している。外の日だまりのところでは恋人同士らしい男女の隊員ふたりが寄りそいあっているし、どこも特に異常はない。
見回りはあっさりと終了した。今日もいつもとなんら変わらない穏やかな日だ。
ふたたび尖塔のところに腰を下ろす。
そういえば――……
灰色の羽の手入れをしながら、僕はふとあのはずれの邸宅のことを思い出した。ザンザスのお母さんは今頃どうしているのだろうか。今もずっとあのさびしい部屋でひとり寝ているのだろうか。外はこんなにも明るく、日差しが気持ちいいというのに。
そう思ったときにはもう僕の心は決まっていた。
行ってみよう――彼女のところへ。
テュールに怒られることなどすこしも考えずに僕はすぐに飛びたち、あの邸宅へ向かって大きく翼を広げた。はずれのところにある、木々に囲まれた白い邸宅が目に入る。濃い緑と静寂がその周囲をつつんでいた。しかし、その静寂に分け入るものがあった。僕は近くの大枝に腰をおろして辺りをうかがった。
「オレだってまだ行ったこともないのに」
ぼさぼさの茶髪の若い男の隊員が気だるそうに言った。
「どうしてあんなガキを任務に連れて行ったんだ、剣帝は? オレとあのガキじゃあ、実力だってオレの方が上だろ?」
「やめろよ、そんな言い方……誰かに聞かれたらどうする」
ふわふわの赤茶の髪を撫でながら、もうひとりの男がささやくように答えた。ぼさぼさ茶髪の隊員は眉を寄せて食いかかるように叫んだ。
「じゃあなんだ、おまえはザンザスの味方だってのか? あんなの、ただ九代目の息子ってだけで特別扱いされてるだけじゃねえか!」
あのガキというのがザンザスを指し示していたことに、僕はそのときようやく気がついた。
「ちょっと、声を落として」金髪の女性がすかさず割って入る。「愚痴を言うならもっと小さな声にして」
「愚痴? 愚痴だと? これがただの愚痴に聞こえるか! 九代目の息子だからって突然ヴァリアーにやってきたガキにオレ達の任務を奪われて、なんでおまえらは平気な顔してられんだ!」
ぼさぼさ茶髪が怒鳴った。
「だいたい、おかしいんだ。あのガキに関することなにもかも。ガキとその母親が突然ヴァリアーの屋敷にやってきて、ガキは剣帝じきじきに鍛えられ、母親はあの不気味な家で寝込んでる。変なんだよ。ボンゴレ十代目候補には既に九代目の息子の三人があげられていた。そこへ突然なんの前触れもなく、生意気な顔したザンザスがやってきて割り込んだんだ」
「おい、もうやめろよ」
「オレはなぁ、あのザンザスは本当は九代目の息子なんかじゃないって考えてるんだ!」
赤茶髪と金髪が息を呑んだ。
「そもそも本当に実子なら、もっと早くに後継者候補にあがっていたっておかしくないはずだろうが。出てくる時期がおかしいんだ。母親はずっと寝込んだまんまで――そうだ、あれは淫売婦で、ザンザスは誰か別の男と寝てできたガキに違いねぇ」
九代目の息子ではない。ザンザスが?
あんなに父親のことを慕い、喜んでもらえるようにと炎を扱う練習をし、テュールとの特訓に励んでいる、ザンザスが?
「根拠のないことを……」
赤茶髪が焦った表情できょろきょろと周囲を見渡した。
『おまえはなにを言っている』
僕はおもわずつぶやいていた。
三人の隊員ははっと顔をあげ、灰色の翼を広げている僕を見つけた。
「おまえ……ハナコ! ザンザスの飼い鳥の」
『おまえはなにを言っている。おまえはなにを言っている!』
僕は枯れた声で何度も繰り返した。
ぼさぼさ茶髪はぎらついた瞳でじっと僕を睨みつけ、腰にある銃に片手をかけた。金髪がそれを押しとどめようとする。赤茶髪は僕とぼさぼさ茶髪を何度も見比べてうろたえた。僕はかっと目を見開いて男を見つめた。
『ザンザスこそ十代目となるべきお人だ! あの炎がなによりの証拠!』
男は制止をふりはらうと銃を握り、僕にむかってまっすぐに照準を定めた。
「やめて!」金髪が叫んだ。
「やめろ、エドモンド! ハナコを殺せばザンザスが――」
赤茶髪の男が言いかけた瞬間、ぼさぼさ茶髪は彼を睨みつけた。
エドモンドというのがこの男の名前らしかった。しまった、と口に手をあて、すっかり怯えた表情をしている赤茶髪をもうひと睨みすると、エドモンドはようやく銃口を下げた。ぎらついた視線はそのままに僕を見あげ、
「ハナコ、てめぇ余計なこと言いやがったら……殺してやる」
エドモンドは立ち去りながら何度も僕のほうをふり返り、やがてふたりの隊員ともども見えなくなった。
元通りの静寂が訪れた。
しかし、強い風が吹きつけても、ぬめるような空気までは運び去ってくれない。
彼はなにを言っているんだ――
ザンザスが九代目の息子ではないなどと、ありえるわけがない。
だがエドモンドの言葉ははっきりと僕の心に刻みつけられていた。不安がひたと僕の心を満たし、今にもこぼれて溢れ出しそうになっている。
僕はその場を飛び出した。
嫌だ。この感覚は嫌いだ。喉からなにかの塊が這い出してくるようだ。僕はめちゃくちゃになってわめき、あらぬ方向へ飛んだ。
テュール、ザンザス、お願いだ。早く帰ってきて、この不安を拭い去ってほしい。羽を撫でて安心させてほしい。
誰か――……
「おいで」
僕ははっとなって声のするほうを向いた。
あの邸宅の窓辺に立って、あのときベッドに寝ていた女性がこちらへ手を伸ばしていた。
「おいで、ハナコ」
ザンザスのお母さんはもう一度言った。
僕はふらりと飛んでいって彼女の手もとにすべりこんだ。
やわらかい手が僕をつつみこむ。とても懐かしい心地がした。だがこの懐かしさがどこから来たものなのか、僕には分からなかった。
「今日はなんだか調子がいいの。それで外を覗いてみたら、あなたが飛んでいたわ、ハナコ」
風に吹かれた金髪が僕の頬を撫でる。
豊かな胸からは甘い乳の香りがかすかにした。僕はそれにすがるよう、彼女の胸元に頭を押しつけた。心の中にたまっていた泥がするすると抜け落ちていく。限りのない抱擁とやわらかい腕のぬくもりが僕の全てを包みこんだ。
これが――母……これが、お母さん?
僕には母の記憶がなかった。
鳥ならば親鳥がたまごを温めてくれたのではあるまいか、殻の中で親のぬくもりを感じたのではあるまいか、幼い僕に親がえさをとってきてくれたのではあるまいか。そう考えてみても、どうしたものか、僕にはてんで昔の記憶がないのだった。思い出せるのはあの運命の日――ザンザスと出会うために飛んでいた、あの日からだ。
それまで僕はいったいなにをしていたのだろう。
今までそんなこと気にも留めなかった。僕はザンザスとテュールが大好きで、それでいいと思っていたから。
だが今、このあたたかな腕に包まれて、自分への問いかけがふたたび心の表面に浮かびあがってきていた。
まだ羽毛も生えない僕をあたためてくれたのは誰なのか。僕が生きられるようえさを与えてくれたのは誰なのか。
僕は、ヨウムのハナコは、いったいなんなんだ――?
僕の父は、母は――?
どんなに求めても抱きかえしてくれない夢幻の父母の姿を描いて、僕はザンザスのお母さんの胸にすがりついた。
そのとき、やわらかな白い光が僕の頭にすべりこんできた。
暗いところに僕はいた。
なぜ、こんなところにいるのだろうか。ここはどこだ?
雨にぬれた石畳が月の光をてらてらと反射して、暗い路地裏の足元をなんとか見えるくらいにまでしている。暗闇にうかびあがるようにして小さな家が軒をつらねていた。
空気はすっかり冷えきっていて、容赦なく肺を刺してくる。
ここはどうやら、街の中でもとりわけ貧しいものたちが集まるところらしかった。冷えた石畳の上には人間が寝ていた。やせっぽちの猫が歩いていくのを、地に這ったままのうつろな瞳で老人が見つめる。赤い顔をした男がふたり座りこんで、空っぽの酒瓶をちびちびと舐めては大声で笑いあっている。そこかしこから腐敗臭とかび臭いにおいがした。みんな僕の姿は見えていないようだ。
「――!」
遠くから女性の声が聞こえた。
とても苦しんでいるような声だ。僕は翼を動かしてそちらへまっしぐらに飛んだ。
導かれた先には、くすんだ白壁の小さなぼろ家があった。今にも崩れてしまいそうなその家の中から、かきむしるような女性の声が聞こえてくるのだ。僕はそっと窓辺に降りたって中を覗きこんだ。
寝台の上にあおむけの女性がいた。汗で前髪が額にはりつき、長い髪の先から滴がしたたりそうになっている。汗だくになった彼女を頬のこけた老婆がぼろぼろの白布でぬぐう。ベッドの足のところで女がなにかしている。他にも何人かいるが、彼らがいったいなにをしているのかはよく分からない。
痛みにあえぐようにしながらきれぎれに呼吸をしていた彼女が、弾かれたようにのけぞった。顔があらわになった。彼女はまぎれもない、僕が先程まで抱かれていた女性だった。
周囲の女達が口々に叫ぶ。応援か非難か、重なっていてよく分からない。彼女が叫んだ。やがてその場の全てを突き破るような、ひときわ大きな甲高い声が響いた。
おお、おお、と女達が言う。みんなで寝台の上の彼女を囲う。彼女の足の間で女達がごちゃごちゃとして、なにかかたまりのようなものが彼女にそっと手渡された。
「ああ……」
彼女の目からぼろぼろと涙がこぼれた。ぬぐうこともせず、腕に抱いたまま、彼女はひたすらに泣いた。
「私の、私の子よ」
腕の中のかたまりには手足があった。頭があった。おへその部分から細長いなにかが飛び出ていた。
彼女が抱いているのは人間の男の赤ん坊だった。ぶよぶよの赤いしわくちゃ顔についた唇をめいっぱい広げて、さかんに泣き声をあげている。投げ出した手のひらについた、小さな小さな指が、なにかを求めるように頼りなげに動いた。指が母親のあたたかな乳房にふれると、彼はいっそう泣きわめいた。
僕はなにか神聖めいたものを目撃しているような気分だった。
ふと別の女が、彼女から赤ん坊を取り上げようとして手を伸ばした。
その瞬間、その女はひきつった声を出して後ずさった。
「これは……!?」
赤ん坊が、輝きはじめた。まるで身体の内側から光を放つように。
うっすらと身体が透けるようにも思われた。やがて、薄く開いた小さな手のひらから光が溢れ出す。光は黄金の放射線を描いた。
「あたたかい……」
母親は静かにつぶやいた。
赤ん坊の手のひらにあるのは、黄金の炎。炎は暗くて冷えきった部屋をあたため、まぶしいほどに明るくし、出産で弱った母親の身体をいやした。炎の熱にとかされたように、彼女の目からまたぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「炎……この子、炎を宿している」
誰かがしわがれた声で言った。
「まさか、ボンゴレの? でも、そんなこと」
女達がささやきあった。
子を抱いたまま、母親は微笑んだ。黄金の光に照らされて微笑む彼女は、まるで聖母のようだった。
「そう――この子、ボンゴレの」
彼女は言った。
「この子は、十代目になるのね。ボンゴレの十代目に」
「なにを言っているの。落ちついて、その子の父親は」
「ザンザス。決めたわ、この子の名前はザンザス。イクスの文字を入れてあげるの、この子が十代目になれますようにって」
黄金色に照らされた滴が落ちる。彼女は涙にぬれた瞳でザンザスを見つめた。
それは間違いなく、我が子への愛に満たされた母の、やさしくなごやかな瞳だった。
情景がゆらいだ。彼女の瞳も黄金の炎も、水に溶け出すように尾をひいて流れた。女達も全員消えうせ、子のか細い泣き声は空間に反響しながら遠ざかっていった。
そしてふたたび彼女が現れた。
先程と同じ家だったが、窓が壊れて、風除けのために立て置かれた木の板の隙間から雪まじりの風が吹きこんできていた。嫌がらせのような落書きが外壁の一部をぬりつぶしている。
彼女は床に座りこんで胸に子を抱いていた。子の小さな手のひらを自分の指でそっとなぞるようにしながら、微笑んでいる。凍てついた暗闇の中で、ふたりの姿だけが輝いてうかびあがっているようだった。
彼女は子が凍えないよう、ありったけの布で子をやさしくくるんでいた。自分の衣服までかぶせていて、凍えそうにも思われたが、彼女はずっと微笑みをうかべたまま子を、ザンザスを見つめているのだった。
また彼らの輪郭がゆらいだ。
ふたたび世界が目の前に現れたときにはもう、違う場面に変わっていた。
彼女は床に膝をついて、泣き叫んで髪をふり乱しながら、身を丸めてうずくまる少年をひっぱたいていた。ぶって、少年が苦しげにうめいても、また何度も何度もぶつ。少年の目には涙がうかんでいた。歯をくいしばり、声を押し殺して耐えるようにしている。やがて彼女は嗚咽まじりに叫んだ。
「炎を――炎を出しなさい、ザンザス! どうして? あのときみたいに、出せばいいのよ? できるでしょ、あなたは九代目の血を引いているんだから!」
少年はぶたれながら、伸びた黒い前髪の隙間から母を見つめた。赤い瞳が震えていた。
少年は小さく口を開いてなにか言おうとしたが、まともな言葉にはならなかった。
「炎を出さなきゃ、ザンザス、お願い、炎を出して! 出しなさい! あなたならできるわ! その炎がなきゃ、あなたも、私も、ずっとここから出ていけないの!」
母さん、とようやくザンザスが言った。
その声には決して憎しみなどなかった。ただ、どうしてこんなことをするのか、とだけ訴えていた。
「あなたはボンゴレの十代目になるのよ、ザンザス……あなたはこんなところにいるべきではないの。こんな暗くて寒いところは嫌でしょう。九代目のところへ行かなくてはならないわ。九代目のところで、ボンゴレ十代目にふさわしいことを学ぶのよ。あなたこそボンゴレの王にふさわしい」
「ボンゴレ……?」
「そう、あなたはボンゴレ十代目になる。あなたは特別な人間なのよ、ザンザス。特別なの。だからこのへんの薄汚い子たちと遊んではいけない。彼らはあなたをだめにしてしまうわ。あなたはただ、炎を出せばいいの――炎を! 炎を出せばいいのよ! それだけのことなのに、どうしてできないの!?」
彼女はわっと声をあげ、ザンザスの身体に覆いかぶさって泣いた。
ザンザスは呆然と自分の手のひらを見つめた。そして音にならない息遣いで、炎、炎、と繰り返した。
それからは、見るに耐えない光景ばかりだった。
暗がりにうずくまって膝を抱え、寒さにかたかたと震えながら、自分の手のひらを見つめるザンザス。母親にひっぱたかれてできた頬のあざをこすりながらひとりむせび泣くザンザス。炎の出ない手のひらに力をこめる。爪の食いこんだところから赤い血がしたたる。ぼんやりとした瞳でゆらぐ蝋燭の火を見つめる。泣き叫んで家を飛び出した母の背中に手を伸ばし、追いかけようとするが、痛みで手足も動かなければ声も出ない。赤い瞳が揺れてにじんで、涙が次々にこぼれ落ちる。
「……かあ、さん……母さん、母さん」
ザンザスはとぎれとぎれに繰り返した。
僕の視界に、いくつもの彼がうかんでは消えた。
全てがいったん彼方に流れ去り、新しい情景がうかんだ。
今まで着ていたぼろぼろの服よりはいくらかましなものを着て、ザンザスは母に連れられて立っていた。白い息が震えている。彼らの前にはひとりの老いた男がいた。髪からは色素が抜け落ち始め、この場所に不似合いなスーツの上に長丈のコートを羽織っている。
男はぼろ布で寒さをしのいでいる女と、その小さな子を順々に見つめた。
「十代目のエックスをとってXANXUSと名付けました……」
そう言ってから母親はザンザスの背をそっと押した。ザンザスは男の前に踏みでて、手のひらを持ちあげると、そこに黄金の光をはなつ光球の炎を灯してみせた。幼い身体を寒さに震わせたまま、赤い瞳でじっと男を見つめる。男もザンザスを見つめ、やがて永遠に思われるような長い時間の後で、ゆっくりとザンザスの前にしゃがみこんだ。
「ああ……これはボンゴレの死ぬ気の炎だね」
男は言い、自分の肩かけを手にとると、それでザンザスの細い首を覆うように包んだ。
「間違いない。おまえは私の息子だよ」
赤い瞳がゆれた。あざのある頬を涙がゆっくりとすべり落ちていった。
ザンザスは涙を止めようとして、手の甲で何度も何度も目元をぬぐった。男は――ザンザスの父親である、九代目は、ずれてザンザスの肩から落ちそうになった肩かけをなおしてあげて、ザンザスの頬をそっと撫でさすった。涙はいつまでもかわかなかった。母親はふたりの姿をじっと見つめていた……
僕はまたいつのまにか、まったく別の場所に移動していた。ここはヴァリアーの屋敷。だけど現在ではない、おそらくは過去の屋敷。
屋敷のはずれらしい、草ばかりが生えたところだった。遠く向こうのほうに屋敷の尖塔が飛び出ているのが見える。
風に吹かれて草がなめらかにゆれていた。そこへひとりの少年が走りながら飛びこんできた。ふいに突風にあおられて少年はかたく目を閉じ、細腕で首をつつんだ。
鳥の鳴く声がした。
顔をあげると、ちょうど黒い影が羽ばたいて遠くへ去っていこうとしているところだった。
頭上にふわりとなにかが舞い、ザンザスはあっと手をかかげた。それは風に吹かれてあっちへこっちへと踊っていたが、最後にはそっと手の中にすべり落ちてきた。赤い羽根。
翼、とザンザスはつぶやいた。見開かれた赤い瞳がきらきらと輝く。宝物を見つけた幼子のように。
「ザンザス」
誰かが彼の名を呼んだ。ザンザスは慌てた様子でポケットの中に羽根を隠した。
「ここはどうだい。おまえが気にいってくれると嬉しいんだけど」
歩いてきた背高の金髪の男、今よりもほんのすこし若く見えるテュールが、かがんでザンザスの黒髪をわしゃと撫でた。
ザンザスは赤く輝く瞳でテュールを見あげた。
「父さんと離れるのはすごく嫌だけど――テュール、ここでいっぱい勉強したら、オレはボンゴレの十代目になれるんだろ。だからちゃんと頑張ることにする」
不意をつかれたらしく、テュールは目を見開いた。
「十代目に?」
「そう、オレは十代目になりたいんだ――ううん、絶対になるんだ。だからたくさん勉強するし、ちゃんと銃も扱えるようになって、炎ももっと上手に出せるようになってみせる。そうしたら父さんも喜んでくれるから」
テュールはじっとザンザスの瞳を見つめ、やがて微笑むと、しゃがんで目線を合わせ、慈しむようにザンザスの手のひらを撫でた。
「そうか、ザンザス、おまえはボンゴレの十代目になりたいんだな。その気持ちと志を忘れずに頑張れば、きっといつかお父さんもおまえを認めてくれるよ」
ザンザスの顔が笑みでいっぱいになった。
「ザンザス、ザンザス!」
ふいに女の声がした。
ザンザスはびくっと肩を震わせた。テュールは立ちあがり、声のするほうへ視線をやった。
「おいで、池に魚がいっぱいいるわ! 見て!」
侍女が慌てながら見守るそばで、母親が池を覗きこんではしゃいでいた。手を水につっこんできらきらと水しぶきがあがるのを楽しんでいる。彼女は顔をあげてザンザスのほうを見つめ、おいでおいでというふうに手を動かした。彼女の顔はすこしやつれ始めてきていた。侍女がはらはらした顔で母親とザンザスを交互に見ている。テュールはくすりと微笑んだ。
「さぁ、お母さんのところへ行っておあげ、ザンザス」
そっとザンザスの背を押す。
ザンザスはうろたえるようなぬれた瞳でテュールを見つめ、池のほとりにいる母親を見やり、小走りに駆け出した。その背中を見守るテュール。左手はもう義手になっている。僕は羽ばたいて彼の肩にとまり、彼の横顔を見つめた。空色の瞳の奥に、激しく燃えさかる青い炎を見た気がした。
「……ハナコ? ハナコ、どうしたの?」
目を開けたとき、僕はザンザスのお母さんの腕の中にいた。
情景はまたたくまに薄れ、記憶の彼方へ流れ去っていった。
いったい今のはなんだったのか。
まるで時をさかのぼって体験したみたいに、僕の記憶には先程の映像が鮮明に刻みつけられていた。思い出そうとすると、それらは生々しい色とにおいと痛みをもって記憶の表層にうかびあがってくる。映像が昔のものだというのはよく分かったが、それがなぜ僕の頭の中に?
なにが起こっていたのか分からずに戸惑っている僕の羽を撫でて、ザンザスのお母さんはやわらかく微笑んだ。しかし先程の映像の彼女を思い出すと、どうしても素直に身を預ける気になれない。あれが真実なら、彼女はその手でザンザスを殴りつけていたんだ……どんな理由があるにせよ。
(――オレはなぁ、あのザンザスは本当は九代目の息子なんかじゃないって考えてるんだ!)
あのエドモンドという男の言葉が頭の中で反響する。
ザンザスは九代目とこの女性の息子ではないのか。それにしては、先程の映像には、父親としての九代目の姿があまりにも足りなかった。彼は下町にいたザンザスを息子として認め、自分のところへ引きとったのだ。
本当の息子だから引きとった? ザンザスが炎を持っていたから? それとも――……
「ねぇハナコ、私にもなにか、あなたの言葉を聞かせてくれる?」
突然に彼女が言った。
「ハナコが話す言葉を、私もゆっくり聞いてみたいわ」
彼女は僕を抱えたままそっと窓を閉めるとベッドに腰を下ろした。
僕の羽を眺め、微笑む。そこにあのときのような、ザンザスをひっぱたいていたときのような怒りと悲しみはない。
『――母さん』
僕は静かに言った。
『あなたはザンザスのお母さん』
「そう、私は、ザンザスのお母さん」
彼女はにこりと微笑んだ。
……ザンザスがお母さんのところへ行かないのには、過去のことが少なからず関係しているのだろう。僕はそう考えた。
子は母の乳を飲み、求めるものを与えられ、母を、世界を信頼する。
ザンザスはさほど愛情をもらえなくても母を信頼しているようだった。少なくとも、父やテュールに出会うまでは、ザンザスはお母さんのことが大好きだったんだ。だがお父さんやテュールがたっぷりと彼を愛してくれる今、お母さんに傷付けられたことは、理不尽な思い出でしかないはずだ。
あのときの彼には殴られる理由なんて分からなかった。ただお母さんのことが大好きで、母が彼の全てだった。だがあのときの母は炎が全てだった。ザンザスの炎が彼女のただひとつの希望だったのだ。
母はただ炎に魅せられただけだ、と僕の中の冷静さは言う。
だが、頭にすべりこんできた映像の、幼いザンザスのあの顔、あの瞳!
なぜこんなことをするのか、と訴えかけるあの表情!
それを思うと、この目の前の女性を素直に好きになることができない。たとえあのときの彼女にどんな理由があったとしても――……ああ、僕はひどい鳥だ。昔の彼女と今の彼女は違うかもしれないのに。今も昔も彼女はザンザスの母親だというのに。彼女の腕は確かに、母親のぬくもりを僕に教えてくれたのに。それなのに彼女を、ザンザスの母親として認めたくないのだ。
知りたい。彼女がなぜ、ザンザスにあんなふうに接したのか。
『あなたは、どうして』
聞くな、と頭が叫んでいた。だが聞かずにいられなかった。
『炎、炎とザンザスのことをぶったの……?』
彼女の顔が硬直した。
次の瞬間、激しい金切り声が僕に襲いかかった。めちゃくちゃにふり回された手が、慌てて飛びたった僕の体をかすめる。僕はバランスを崩してよろめいた。そこらに置いてある花瓶や置物が壁に叩きつけられ、僕のすぐ傍で砕け散った。
「やめて!」
そう叫んだのは僕ではない、彼女だった。
「全部私が悪いっていうの!? なにも知らないくせに。なにも知らないくせに、よくもそんなことが言えるわね! 卑怯者! 私が今まで、どれだけ苦しんだと思う。一生かかったってあんたには分からない。分からないわ!」
『ごめんなさい、ごめんなさい! お願い、もうやめて』
僕は部屋の中を逃げまわりながら必死に大声で謝ったが、彼女の耳にはすこしも届いていないようだった。どうして彼女がそうなったのかは分からなくとも、僕が彼女をこんなふうにしてしまったのは確かだった。
僕の羽のすぐわきを金属の写真たてが飛んでいった。
写真たては窓にあたり、ガラスを粉々に砕いた。風が吹きこんできて、彼女の長い金髪を荒波のように激しくなびかせた。
「あの子が、あの子も悪いのよ! ボンゴレの血をひいているくせに、なかなか炎を出そうとしないから! 私は、私は……ああ、ザンザス、ザンザス!」
彼女の目からどっと涙があふれた。
崩れ落ちるようにして床に座りこむ。泣き叫ぶ声と嗚咽が入り混じった。騒ぎを聞きつけた侍女数名が慌てて部屋に飛び込んできて、僕は割れた窓から外に追い出された。邸宅からはしばらく彼女のすすり泣く声がもれていたが、少しするとそれも落ちつき、静寂が横たわるのだった。
彼女に謝りたい。謝らなければ。
だけど僕が今彼女のところへ行けば、たぶん彼女をまた怒らせてしまうだろう。すこし時間が必要だった。僕はまたあの尖塔のてっぺんに戻り、やさしい暗闇が降りてくるのを待つのだった。
数日後、彼女は死んだ。
僕が部屋に入っても彼女は怒らなかった。
ベッドに横たわる彼女を、不気味なほどの静寂が取り囲んでいた。
彼女の瞳はもはやここではない、違う世界を見つめていた。生ある地平の中にぽっかり開いた、死の形を見つめていたのだ。僕など視界に入るはずもない。
僕は彼女の傍らに降り立ち、謝り、彼女の頬に頭をこすりつけた。周りにいた侍女達も医者ももうなにも言わなかった。僕は泣いてしまった。彼女は僕にひとときの母のぬくもりを教えてくれたのに、僕が彼女にしたのは、ひどい仕打ちだけだった。
……しばらくして、任務を終えて既に帰路についていたテュール達が駆けつけた。
部屋の中に数人が駆け込んできた。小さな少年がひとり、取り残されたように扉のところに立っていた。それはこれまでこの部屋に入ったことのほとんどない、そして最近は決して入ろうとしなかったザンザスだった。
彼は息を切らしていた。
黒髪も赤い瞳も、隊服もびっしょりとぬらし、怯えるように震えながら彼はそこに立っていた。
やがてよろよろと歩き出し、駆け出し、ベッドに手をついて母の顔を覗きこむ。うつろな母の顔を見つめた彼の瞳に、どっと涙があふれた。
「かあ、さん」
涙はとどまることなく、次々に流れ落ちた。
「かあさん……母さん、母さん」
ザンザスはとぎれとぎれに何度も繰り返しながら、母の手をぎゅっと握った。
「オレ、炎をうまく扱えるようになった。テュールに教えてもらって、勉強だってひとりでできるようになった。もう前みたいに、母さんのこと困らせたりしない。母さんに辛い思いなんて絶対にさせない」
声に嗚咽がまじり、泣き顔に昔のままの幼さがうかびあがった。
ここにいるのは紛れもなく、あの日炎を抱いて生まれたあの赤子であり、寒さの中で母に抱きしめられ、ふりかざされる拳に震えながらも母のことを愛した、幼い少年だった。
「母さんのこと怖かった、でも、そんなのもうどうでもいい。これからはずっと母さんの傍にいる。オレが十代目になって、母さんのことを守る。母さんにひどいことを言う奴らはみんな消す。母さんとずっと一緒にいる! だから……母さん、お願いだから、死なないで……」
そのとき、母が動いた。
うつろな瞳に光が灯り、震える指がザンザスの手を握り返す。彼女の瞳はまっすぐにザンザスを見つめた。青白い顔に穏やかな笑みがうかんだ。子を見つめる母のやさしい表情。ザンザスの部屋にある油絵と同じままの、彼女のやさしい笑顔。
「ザンザス……」
か細い声で子の名を呼び、彼女は眠るように息絶えた。
ザンザスは見開いたままの目で、じっと母を見つめていた。
しばらくしてその顔はくしゃくしゃになり、瞳から涙をしたたらせ、ザンザスはその場にたたずむ者の心を引き裂かんばかりの悲痛な声で激しく泣き叫んだ。母の身体に顔を押しつけてすがりつくその様子は、赤子が乳を求めて母の胸にすがるのによく似ていた。
どんなにひどい扱いをされても、ザンザスにとってのお母さんは彼女だけだった。
昔も今も、言葉や態度に表せなくても、恐怖の記憶が心をさえぎろうとも、ザンザスはお母さんのことが大好きだったのだ。彼がどんなに母のことを愛していたかを知り、僕は胸がかっと熱くなるのを覚えた。
テュールがザンザスの背中にそっと手を置き、撫でさすった。そのときのテュールの表情は僕がこれまで一度も見たことのない、悲しみと決意、そして誓いを秘めた複雑な表情だった。
九代目は彼女の死に間に合わなかった。それでも息を切らしながら晩のうちにここへ駆けつけ、彼女の遺体にすがりついて泣いていたザンザスのそばに駆け寄り、かわききった彼女の唇に接吻をして、そしてザンザスをひたすら抱きしめるのだった。
よく冷えた夜のことだった。
これが、僕が現実にザンザスの泣く姿を見た、最初で最後の時だった。
中編へ続く
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