ニレと葡萄

「揺りかご」から数年後、オッタビオと復讐のためにオッタビオの命を狙うスクアーロのお話。オッタビオ→剣帝テュール風に読めますがCP要素は特に無いです。
オッタビオ非公式アンソロジー『Viorhythm』に寄稿した作品の続きとして書きました。Twitterに投稿したときは冒頭の桟橋でのシーンのみでしたが色々付け足しています。オウィディウスのニレと葡萄の詩に感銘を受けて書き始めたもののニレの木があるだけで葡萄は全く登場しません……


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      ニレと葡萄

「こんなところにいらっしゃったのですか」
 オッタビオは声をあげて、桟橋に座りこんでぼんやりしているテュールに近づいた。
「早くお休みになったほうがよろしいのではないですか? 明日はスペルビ・スクアーロとの決闘なのでしょう。お忘れになったわけでもないでしょうに」
「もちろん覚えているとも」
 テュールはちらりと目を向けて微笑むと、海に視線を戻した。
「ただ、ちょっと懐かしい気分になってな。なぜだか急に昔を思い出してしまった」
 とうに日は沈み、色濃くなりつつある夜に溶けこむように、海は薄暗い海面にゆったりと波を描いている。テュールは波をなぞるように指を動かし、暗い海と星のまたたく空を指さした。
「覚えているか、オッタビオ? オレとおまえが初めて会った日のこと。あの時もこんなふうに色の変わりゆく水面を見ていた。夕焼けが湖に映りこんで……湖も空もオレンジ色から濃い青色に移り変わり……暗くなると島のあちこちに光がついて……」
「昨日のことのように覚えています。忘れたくても忘れられませんよ」
「だよなあ。あの頃のザンザス坊ちゃんはとても小さくて可愛らしかった。背丈なんてこれくらいしかなくて」
 膝のあたりをぽんぽんと叩いて、わざとらしくため息をつく。
「ちょっと口が悪くて生意気なところもあったけど一生懸命で……。そうそう、ザンザスの補佐であるおまえも成人してまだ間もない悩み多き若造だったな。ザンザスのわがままに振り回されてオロオロしていた」
「オロオロなどしていません」
 むっとして言い返そうとしたところで、ふいに思いあたってオッタビオはテュールの顔をそっと覗きこんだ。
「……まさかとは思いますが、お酒を飲んでいるのではないですよね?」
「シラフさ」
「であればいいのです。安心しました」
 オッタビオはほっと胸を撫でおろした。
「急に昔のことなど語りだすものですから、てっきり酔ってでもいるのかと。二日酔いで戦えないなんてことはもってのほかですからね。いくら天才といわれる剣士であってもスクアーロはまだ十四歳の子ども。剣帝、剣の帝王たるあなたが万が一にも負けるようなことがあればボンゴレの名に傷がついてしまいます」
「そうだな。確かにそうだ」
「さあ、思い出語りはほどほどにして明日のためにも早くお眠りになったほうがいい。夜は冷えます。部屋にお戻りください」
 面白そうにけらけら笑っているテュールを立ちあがらせようとしたオッタビオは、その時、急に真剣な顔つきになったテュールに見上げられるような形で見つめられた。
「テュール?」
「なあ、オッタビオ。もしも……」
 テュールはそこで言いよどみ、言葉の続きを探すように唇を動かした。
 いつになく真面目な表情の剣帝に、オッタビオは聞き返すのも忘れて言葉の続きを待ち……それからどれくらいが経ったのか、何十分にも思える沈黙の後でテュールはふいと視線を逸らした。
「やっぱりいい」
「え?」
「なんでもない。忘れてくれ」
「テュール——」
 ぱっと立ちあがって何事もなかったように歩いていこうとするテュールに向かって、オッタビオは声を張りあげた。
「お待ちください。いったい何をおっしゃるつもりだったのですか。テュール!」
「そう大きな声を出すなよ。こんな時につまらないことを言っておまえを困らせるのはよくないって思ったんだ。おまえにはまだやらなければならないことも、考えなければならないこともたんまりあるわけだし」
「つまらないかどうかは私が決めます。先程の続きを言ってくださるまでは、てこでも動きませんから」
「強情な奴だ」
 前に回りこんできてずいと立ちはだかったオッタビオにテュールはため息をついた。その口元はおかしそうに笑っている。
「分かったよ。スクアーロとの決闘が終わったら、さっきの続きを言おう。な? それでいいだろう?」
「……」
 まだ納得はしていなかったものの、優しく言い聞かせるような表情のテュールを睨みつけているうち、自分が随分と子どもじみたことをしているような気がしてきた。
「……分かりました。それまで待つとしましょう」
 オッタビオは顔をそむけた。
「その時には絶対に最後まで言っていただきますからね。あんなふうに言いかけておいて、やっぱりなしだというのは、こちらとしても気になってしまいますので」
「分かった、分かった」
 テュールは笑いながらオッタビオの背中をばしっと叩き、つんのめりそうになったオッタビオを見てまた笑い声をあげた。オッタビオはむきになって声をあげた。
「こんなところで私をからかっている暇があるなら、明日に備えて早くお休みになってください!」
「おっと、そうだった。そうだったな」
 ひとしきり笑い終えると、テュールは目を細め、オッタビオの肩にそっと手を置いた。
「じゃあな。——よい夢を、オッタビオ。おやすみ」
「ええ」
 オッタビオは囁いた。
「おやすみなさい、テュール。また明日」
 
 
 
 街はずれの通りに、初夏の風が吹きぬける。
 日中の日差しは強くなりつつあるが朝晩の気温はまだ低い。薄手のジャケットを羽織るとオッタビオは車を降り、続いて降りようとする部下を手で制した。
「ここからは私一人で結構です。貴方達はここで待っていなさい」
「ですが……いえ、分かりました。我々はここで待機しています」
 オッタビオは頷き、一人、さらにはずれへと続く道を進んだ。しばらく歩いたところでアスファルトが途切れ、未舗装の砂利道へと出る。そのさらに奥まったところにある背丈ほどのアーチ門をくぐると、そこは墓地だった。小さな入り口からは想像もつかないほど広くひらけていて、芝地にいくつも石の墓標が並んでいる。ほかに人の姿は見当たらず、ときおり鳥の鳴き声や風に吹かれた木々がざわざわいう他はひっそりと静まりかえっていた。
 オッタビオは深く息を吸いこんで周囲を見渡した後、目的の場所に向かって進んだ。墓地の一画、植え込みに囲われた大きなニレの樹のたもとに、まださして古くない墓がぽつんとひとつだけある。墓標に手向けられたいくつかの花の隣に、オッタビオは持ってきた花を置いた。風が強く吹き、木々のざわめきがいっそう大きくなった。
「……なぜ貴方がここにいるのですか?」
 オッタビオは言った。
「姿を隠していても分かりますよ。そのように殺気だっていては自ら居場所を明かしているようなものです」
 しばしの間を置いて、植え込みの後ろからふいに滲み出るようにしてあらわれる者がいた。
 まだ若い、十五、六程度の少年である。その眼はオッタビオを見据え、いかにも好戦的なぎらぎらする光を放っている。
 けれどもその鋭い目つきとはうらはらに、少年の顔はひどくやつれ、頬は落ちくぼんで病的な雰囲気さえあった。同じ年頃の少年が持つような若さゆえの瑞々しさや、溌剌としたエネルギーは微塵も感じられない。そのかわりに冷たく、けれども触れれば一瞬のうちに熱く煮えたぎるような何かが少年の内側を満たしていた。
「ヴァリアーは貴方を含めて全員が謹慎中のはずです、スペルビ・スクアーロ」
 静かにオッタビオは言った。
「許可なく外出したのであれば、何かしらの罰が与えられたとて文句は言えませんよ」
「生憎、オレは待ってるだけなのは性に合わねぇんだぁ」
 スクアーロはにやっとして影の中から歩み出てきた。左の袖口から抜き身の剣を取り出し、その刃先をまっすぐにオッタビオに差し向ける。
「どうしてオレがここにいて、貴様に剣を向けているのか。その理由が分からないわけじゃないだろう、オッタビオ」
「……あのクーデターの失敗の原因は私にあり、貴方はそれが許せない。だから、今こそ復讐を遂げようとでも?」
「ふん。随分と物分かりがいいじゃねえかぁ」
 そう吐き捨てると、スクアーロは燃えるような目つきをオッタビオに向けた。
「あれだけ入念に準備したクーデターがなぜ成功しなかったか。ただ一人実行に加わらなかったおまえに疑いの目をかけるなというほうが無理がある。なにせおまえはクーデターの後、九代目にうまくとりいってひとりだけ幹部にまで昇りつめたんだからな」
「それは——」
「おっと、オレだっておまえに感謝していないわけじゃないんだぜぇ。なにせあのクーデターの後、おまえがオレたちを庇わなかったらオレやベルたちも今頃どうなっていたか分かったものじゃねえからなぁ。おまえはただオレたちの計画を踏み台にしてうまいことやってみせた。ずっとそうだと思っていた。——だが、本当にそうなのか?」
「何をおっしゃりたいのやら」
 オッタビオはため息をついた。
「私に問いただしたいことがあるのでしょう? もっとはっきり言っていただいて構いませんよ」
「ああ、なら分かるように言ってやる」
 スクアーロの青灰色の眼がぎらりと光った。
「ザンザスは右腕として長年仕えたおまえを信頼し、クーデターの計画を打ち明けたのに、おまえはただひとりその計画に加わろうとせず、オレたちを止めようとした。いや、止めるふりをしただけだぁ。おまえ、本当は裏で九代目と内通していたんじゃねえのか?」
 スクアーロは今にも噛みつきそうな勢いで叫んだ。
「地位か金の代わりに、オレたちをあのクソジジイどもに売り飛ばしたんだろう? ザンザスの信頼を裏切って!」
 しばし、静寂があたりを包んだ。
 オッタビオはしばらく無言でうつむいた後、ぽつりと言った。
「だから、ここで私を殺し、復讐を果たそうとでも?」
 スクアーロははっとした。オッタビオの肩が小さく揺れている。オッタビオが笑っていることに気づいたのだ。
「なるほど、よく分かりました。ですが……復讐とはまったくおかしなことを言う。——それは、お互いさまでしょう。スペルビ・スクアーロ」
 顔をあげたオッタビオは微笑んでいた。
 スクアーロは気圧されたように身を引いた。「どういう意味だぁ」
「分かりませんか? ザンザス様を失った貴方が復讐に燃えるのと同様に、私にも果たされるべき復讐がある。そう言っているのですよ」
 スクアーロは一瞬、面食らったような顔になった。
「それは——どういう意味だぁ。まさか……剣帝のことかぁ? オレがテュールを殺したから、オレを恨んでいるというのか?」
 問いただそうとしたが、オッタビオは無言でスクアーロの顔を見つめたまま微笑み続けている。スクアーロは狼狽した。
「馬鹿げたことを言うな。おまえにとってテュールがどんな存在だったのかは知らねぇが、あれはお互いの命を賭けた両者合意の決闘だった! 剣士であるテュールがまさかそのことの意味を理解していないわけが——」
「だが、私は合意していない。死んでいいとも、殺していいとも言っていない」
 いつのまにか、オッタビオの顔から笑いは消えうせていた。物憂げな表情を片手でくいと眼鏡をあげながら隠す。
「決闘の正否について外野である私にあれこれ文句を言われるのは貴方も納得がいかないでしょう。私とて頭では理解しているのですよ、剣士には剣士のやり方があるのだと。ですが剣士の誇りも、決闘の流儀も、私にはどうでもいいこと。やり方はどうあれ、貴方はテュールを殺した。であればこの私にも、いえ、この私にこそ復讐を果たす権利がある。そうは思いませんか?」
「それは……」
「テュールのことだけではありません。あの決闘を境にヴァリアーは変わってしまった。九代目の《剣》であったテュールは死に、それからたった半年でザンザス様もいなくなってしまった。本部との信頼関係は崩れ、もはや誰もヴァリアーを信用などしない。どれもこれも貴方が現れてから起きた出来事ですよ」
「なんだと?」
 スクアーロはかっとなって叫んだ。
「オレのせいだと言いたいのか?」
「もとはといえば貴方が始めたことではありませんか。私からすれば貴方こそが全ての元凶。貴方が私から全てを奪いとったといってもいい」
 オッタビオは冷たく言い放った。
「貴方さえいなければテュールは死なず、ザンザス様があの短期間にあのような無謀なやり方で突き進むこともなかった。スペルビ・スクアーロ、貴方こそがザンザス様を焚きつけ、破滅へと導いた張本人なのではありませんか?」
「貴様——!」
 スクアーロの剣が動いた。
「そうやって、また力でねじ伏せようというのですか? クーデターでそうしようとしたのと同じように?」
 オッタビオの声は冷静だった。
「確かに貴方は剣士として優れている。この場で私一人殺すことくらい容易いでしょう。ですが私を殺したのが貴方だと知られればたちまちヴァリアーは罪を問われ、今度こそ跡形もなく消え失せることになる。残された貴方の仲間たちが果たしてどうなるのか、想像もできないのですか?」
「おまえも、おまえを殺した証拠も、全部消してやる!」
「そううまくいくでしょうか? 貴方が無駄口を叩いている間に、私の部下たちが後ろから貴方に照準を定めているかもしれませんよ」
「てめぇの部下どもが全員ここの入り口で待機しているのは確認済みだぁ!」
「私が本当に何の対策もせず一人でのこのことこんなところに来るとでも思ったのですか? 彼らが何もせずただぼうっと呑気に私を待っているだけだと?」
 スクアーロが視線のみを動かしてすばやく左右を見回す。少年の顔にはあきらかに焦りの色が見てとれるようになっていた。
「このまま黙って立ち去れば、今日の貴方の行いは不問としましょう」
 オッタビオはため息をついた。
「勝ち目のない戦いに挑むのは賢明ではありませんよ。《ヴァリアー・クオリティ》は戦略と実行力によって実現させるもの。無謀さや命を投げ捨てる覚悟によって叶えるものではありません。まして怒りや憎しみに駆り立てられて一人で挑もうなどと……」
 何も言い返せなくなってしまったスクアーロを冷ややかに、憐れむような目つきで見下ろす。
「一対一では私はきっと貴方に勝てないでしょうね。けれども私は周りと手を組み、貴方を出し抜いたり陥れたりすることができる。力や暴力を振りかざさなくても、剣を突きつけなくても、相手に勝つことはできるのです。——テュールが生きていてくださったならば、きっと貴方にそのことを何度もいいきかせて教えたでしょうに。それなのにあの人は——ああ、貴方が殺してしまったんでしたね? あの人は、幼いザンザス様に剣を教え、命をも救ってくださったことのある方だったのに。生きていればきっとザンザス様のお力になってくれたでしょうに」
 その言葉を聞いたスクアーロはしばらくぼうぜんとオッタビオの顔を見つめていたが、ふいに下を向くと、急にぼろぼろと涙を流しはじめた。年齢相応の少年らしい泣き顔だった。
「さあ、帰りなさい、スクアーロ」
 諭すようにオッタビオは言った。
「先程も言ったとおり、今すぐにここを立ち去るのであれば今日のことは不問とします。私は今日は貴方と出会っていないし、貴方を見てもいない。なぜなら貴方は朝からずっと部屋にこもりきりだったのだから。そういうことにでもしておきましょう」
「どうしてザンザスについていってやらなかったんだぁ」
 スクアーロはこみあげてくる嗚咽をこらえながら、小さな声で訴えた。
「あいつはおまえを信じていた。信じていたんだぞぉ。オレよりもずっと長くザンザスと一緒にいたくせに、なぜ裏切った。おまえがいたら、もしかするとあのクーデターだって……!」
「その話はもう終わりにしましょう」
 オッタビオはきっぱりと言った。
「これ以上話を続けても無益です。私達はお互いを理解しないし、分かり合うこともない。——誰かを失うという同じ苦しみを味わっても、絶対に共感などしない。我々の道はとっくに違えているんですよ」
「——くそっ……ちくしょう……」
 スクアーロは歯を食いしばって唸りながら、何度も何度も涙をぬぐった。
 オッタビオが無言で促すと、今にも噛みつきそうな視線と表情でオッタビオを睨みつけたが、やがてよろよろと、うなだれたまま木立の向こうに消えていった。オッタビオはその背中が見えなくなるまで見送ると、ようやく緊張がとけたと言わんばかりにその場にどっと膝をついた。
「……はあ。いかがでしたか、私の演技は? なかなか冷酷な雰囲気を出せていたのではないですか? 以前よりはだいぶマシになったかと思うのですが——テュール」
 目の前の墓標に笑いかける。
 おとなげないことをしたと自分でも思う。経緯はどうあれ、結果的にテュールの命を奪うことになった少年に対する、ちょっとした意趣返しのつもりも確かにあった。だが、まさか泣かせてしまうとは。
「まあ、あちらは本気で私を殺すつもりだったのですから、やりすぎということはないでしょう。私とてまだ死にたくはありませんからね。それに、死に場所が貴方の墓の前というのはちょっと——私にだって自分の死に場所を選ぶ権利くらいある。そうは思いませんか」
 オッタビオは墓石にそっと手を置き、陽光に温められてじんわりと温かくなった石の縁を指で辿った。
「——本当に、何を言おうとしていたんでしょうね。貴方は……」
 スクアーロとの決闘前夜のことをふいに思い出す。
 桟橋に座りこんで思い出話を口にしたときの少し寂しそうな表情も、何か言いたげにこちらを見つめていた瞳も、すでに記憶から薄れておぼろげになりつつある。——決闘の後、血の気を失いながらもかすかに微笑んでいるように見えた《剣帝》の最期の表情さえも。
 あの時、決闘に赴く彼を引き止めていたら何かが変わっていたのだろうか? 思い直して決闘をとりやめるか、もしくは決闘の後も死なずにしぶとく生き残ったのではないだろうか? ザンザスとスクアーロの間にずけずけと無遠慮に割って入り、無謀な革命に挑もうとする少年たちをそれとなく諌め……
 馬鹿げた考えだ、とオッタビオは自嘲した。あれこれ想像を巡らしてみたところで、変わるものは何ひとつ無いというのに。
 こうして思い悩み、嘆いている間にも、時間は容赦なく進んでいく。明日にはもっと先へ。その次の日にはさらに遠くへと。生きていく限り、オッタビオも、スクアーロも、前を向いて進み続けなければならないのだ。
(——また、夏がやってくる。貴方のいない夏が)
(ここに来るのはきっとこれが最後になるだろう。私はもう立ち止まらない。私は前に進まねばならない。この決意こそが、貴方へのせめてもの手向けとなるだろう……)
 その決意を刻みこむかのように、己の胸に手をあてる。しばらくして顔をあげ、花を添えた墓に背を向けて歩きだした時、オッタビオははっとして振り返った。
 初夏の風に揺れる木々のざわめきの中に、ふと懐かしい声がこちらに呼びかけるのを聞いた気がしたのだ。
 だが、それが幻聴に過ぎないこと、聞きたいと願う自分の心がつくりだした幻であることをオッタビオは知っていた。それでも、薄れつつある記憶の片隅からたちのぼってきたその声は、ほんのいっとき、オッタビオをまだ何も知らなかった数年前の自分へと引き戻した。星のまたたく夜、潮風のにおいのする、薄暗い海を眺める桟橋へと。

(——よい夢を、オッタビオ。おやすみ)

「おやすみなさい、テュール。剣の帝王よ。どうかよい夢を……」
 かすかに震える唇でそう呟き、静かにその場をあとにする。《揺りかご》と呼ばれるあのクーデターから、もう何度目かの夏が来ようとしていた。

     おわり

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