uomo tranquillo(XANXUS夢)

現代なのか十年後なのかは特に想定していませんが、色々と説明不足なザンザスがヒロイン(日本人女性)の住むアパートに夜な夜なやってきて(不法侵入して)誤解されながらも打ち解ける?話です。
少し暴力シーンがあります。全体的には楽しい系の話です。

説明不足なザンザス(最後まで名乗らない)に振り回されるヒロインと、結構気の強いヒロインにたじろぐザンザス、そんなザンザスに対して「分かってないな」と微妙に上から目線なスクアーロを書きたくて書きました。


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       uomo tranquillo

 花子は目をさました。
 毛布にもぐりこんだまま、しばらく目をぱちくりさせる。
 風が時折窓をがたがた鳴らしながら過ぎるほかは物音ひとつしない。このアパートも、街も、まだ夜の底に沈んでいる。
「……」
 しばらく考えこんでから、花子はベッドサイドに手を伸ばして明かりをつけた。
 白い壁の一角が、そこだけ異様なほど黒い。
 真っ黒い服を着た大男がそこに立っているせいで、その一角だけペンキで塗りつぶしたかのように黒いのだ。
「帰って」
 花子はきっぱりと言った。
「聞こえているんでしょう。お願いだから帰って。勝手に家に入ってこないで」
 そのほとんど黒一色の薄闇の中で男がゆっくりと顔をあげた。黒髪の、左頬に大きな火傷のような痕のある、雰囲気からしてただものではないと分かる男だった。 
「ずいぶんと冷静だな」
 男の赤い瞳がじっと花子を見た。
「最初のあの天地がひっくりかえったような騒ぎを思えば、今の落ちつきぶりはたいしたものだ」
「知らない人が部屋にいれば誰だってびっくりするに決まってるでしょう。慣れてきたのよ、貴方のせいで。いい加減もうやめて。貴方のせいで寝不足だし、疲れてるし、バイトもクビになりそうなの!」
 花子も負けじと男を睨み返した。
 きちんと鍵がかかっていることを確かめてからベッドに入っているはずなのに、この男、どこからか入りこんできてはきまって部屋の隅にいる。ここのところは毎晩。気の休まる暇などあるはずがない。
「お願いだからさっさと出ていってくれる? わたし明日も早いの。寝坊したら貴方のせい。どうすれば出ていってくれるの?」
「ふん」
 男は腕を組み、わざとらしく考えこむような仕草をする。
「おまえがおとなしくオレを受けいれるってんなら、考えてやってもいい」
「不法侵入してるのはそっちなのにずいぶん態度が大きいのね」
 いらいらしながらベッドサイドの携帯電話をひっつかむ。
 男があざ笑うような笑みを浮かべた。「通報するのか? いつものように?」
「黙ってて!」
 花子はきっと男を睨みつけた。男は意に介した様子もない。
「無駄だ。助けなど来やしない。おまえも分かっているはずだ」
「黙っててって言ってるでしょ!」
 花子は金切り声をあげた。そんなこと、言われなくても分かっている。今ごろ近所の住人たちは、また始まった、と布団の中で耳をふさいでいるに違いない。
 男の言う通り——何度も警察に通報し、近所の人に助けを求めたにもかかわらず、これまで誰ひとりとして花子に手を差し伸べる者はいなかった。初めて男がこの部屋にやってきた夜、部屋に不審者がいると通報してもどういうわけか反応がなく、翌朝怒りに震えながら警察署へ乗りこんでいっても話を聞いてもらえるどころか門前払いされてしまった。異国の地であわれ手篭めにされようとしている女性を見捨てるとはイタリアの警察はなんて不親切なんだ、とはらわたが煮えくりかえるような思いだったが、男はそれから毎晩のように部屋を訪れ、ある日、金やら宝石やらで最初から警察を抱えこんでいることを花子にばらした。
 そして正体を明かした——自分はマフィアなのだと。
(マフィア?)
 耳を疑い、思わず聞き返した花子を、男は冷たい表情で見下ろした。
(単刀直入に言う。オレのものになれ。もし断るなら——力ずくでオレのものにする)
 ……あの日は、花子が家にあるあらゆるものを投げつけて抵抗したのが功を奏したか男は結局何もしないで引き下がった。その代わり、それからほぼ毎日現れるようになり花子はますます寝不足になった。
 きっと近所の人たちも警察同様すべて見過ごすようにとこの男に金を握らされるか脅されているに違いない。はじめは単身イタリアに渡ってきた日本人の女をめずらしがって親切に焼きパンや惣菜を分けてくれていた二軒隣のおばさんも、この男が現れてからというもの目をあわせてもくれなくなった。花子にとってマフィアは本や映画の中にだけ現れる幻想の一種でしかなかったが、ここイタリアではそうではない。いまだに現実味のある存在なのだ。
「電話するのは諦めたのか?」
 男の赤い目がすっと細められる。
「そもそもどこに連絡するつもりだ。警察か? 近所の人間か? アパートの大家か? それとも心配をかけないようにとこれまで相談ひとつしてこなかった日本の家族や友人どもに泣きつくつもりか? 毎晩のようにアパートに現れるマフィアの男に狙われていると?」
「わたしは——わたしは孤独な戦いを強いられているのよ、貴方のせいで!」
 怒りがこみあげてきて、電話の番号ボタンを押す指がぶるぶると震える。せっかく日本での仕事を捨てて憧れのイタリアまでやってきたのに、どうしてこんな男なんかのためにわたしが苦しまなければならないのだろう?
 花子はかっとなり、机の上の辞書をひっつかんで男めがけて投げつけた。男は軽い動作でそれを受けとめると床の上に放り捨てた。
「はっ。日本人の女というのはもっとおとなしくて礼儀正しいものだと思っていたが——おまえはそうではないようだな」
「そりゃあ、貴方のような犯罪者が相手じゃおとなしくもしていられないでしょうよ!」
 スプーン、フォーク、手近にあるあらゆるものを投げつける。男はほとんど動かないままそれらを全て避けるとダイニングテーブルの上に飛びあがった。息ひとつきらしていない。信じられない思いで花子は男を睨みつけた。
「悪くない。気の強い女は好きだ」
 男がにやりと口の端を持ちあげた。
「終わりなんだったらこちらから行くぞ」
 言い終わるよりも早く、男の姿が視界から消えた。
 花子はとっさに身構えた。背後から急に手が伸びてきて、花子は男の腕に乱暴に抱えこまれた。悲鳴をあげそうになったが、ほとんど声が出なかった。恐怖のせいか身体が硬直して動かない。離れていた時には意識しなかった、男の身体の大きさや腕の太さを感じて恐ろしさがこみあげてくる。
 急に動かなくなった花子を不審に思ったのか、男がぴたりと動きを止めて後ろから花子の顔を覗きこんだ。
「おい」
 顎を掴まれた花子がおののきながら見上げると、男はしばらく考えこむようにじっと花子を見つめた。それから花子の顔を無理やり自分の方に向けると、いきなり唇を近づけた。
 花子は目を見開き、触れるよりも早く、その唇に歯を立てて噛みついた。
「!」
 男の腕がわずかにゆるんだ隙に、その中から転がりでる。立とうとしてうまく立ちあがれず、半分床に膝をついたままきっと男を睨みつけた。
「ふざけないで! 日本人だからって舐めてかかってると、いつか痛い目みるわよ!」
 男は唇から血を流したまま、しばらく放心したように花子を見下ろしていた。
 自分より小さくていかにも弱そうな女が反撃してきたことが予想外だったのか、それとも、噛みつかれたことそれ自体に驚いていたのかは定かではなかったが——怒りのあまりぜえぜえと肩で息をしている花子を見下ろし、それから急ににやりとすると、腕を伸ばして花子の胸ぐらを引き寄せ、いきなり強引に口づけた。
 何が起きたのかとっさに理解できないでいる花子に更なる追いうちをかけるように、口の中に無理やり舌をねじこむ。舌の上に広がる血の味に花子はぎょっとし、凄まじい唸り声をあげて男の肩を突き飛ばした。
 逃げなきゃ。
 どこに?
 分からない。でも、このままじゃ殺される。殺されなかったとしても酷い目に遭う。
 そんな思いが頭の中を駆け抜けた。花子はじたばたしながら玄関のほうに向かおうとした。そして、そこで、男がぴくりとも動かないまま突っ立っていることに気がついた。
「な——何、何なの」
 そのまま逃げればいいものを、自分でもどうしてそうしたのか分からないまま、花子は声をかけていた。男はだらりと腕を下げて立ったまま半ばぼうぜんと花子を見ている。
「なぜ拒む」
 ぽつりと男は言った。
「え? なんて?」
 花子は最初、男が何を言っているのか本気で分からなかった。
「ごめん、もう一回言って?」
「なぜオレを拒む?」
「……本気で言ってるの?」
 聞き間違いかと思ったが、男の表情を見るにどうやら本気らしい。花子はあきれた。
「それ、わたしに聞く? どうしてわたしがこんなに抵抗するのか本当に分かってないの? 今の今までわたしが貴方を受けいれると本気で考えてたの?」
「……」
 男は無言だったが、しばらくして、ぽつりと口を開いた。
「これまで擦り寄ってくる女は掃いて捨てるほどいた。どいつもこいつもちょっと可愛がるだけですぐ手懐けられる。犬を手懐けるみてぇに——だがおまえは……」
 男の赤い目が、不可解だ、と言いたげに花子を見た。理解できないことを突きつけられて戸惑う子どものような目だ。
「なんなんだ、おまえは。なぜオレを拒む。どんなことをすればおまえは喜ぶ?」
「どんなって……そんなこと言われても……」
 花子はどぎまぎした。
 あんなに恐ろしかったはずの男が、急にしゅんとして、まるで子どものように見えてくる。わざとそうしているわけでも、気を引こうとしているわけでもなく、どうして自分が相手にされないのか本気で分からないらしい。
「少なくとも……今の貴方が考えているようなことでは喜ばない……と思う」
 花子がおそるおそる言うと、男はちょっと心外そうな顔をして、くるりと背を向けた。
「また来る」
「いや、もう二度と来ないで。お願いだから!」
 花子は男がいつものように窓を開けてそこからすっと出ていったのを見ると、窓の外を覗きこみ、上にも下にも横にも姿がないのを確かめてしっかりと窓を閉めた。
 それから玄関のほうにも行って鍵がかかっているのを何度も確認すると、布団にもぐりこんでようやく安堵の息をついた。
 なんだか、どっと疲れた。
 もうここで死ぬのだ、そうでなくても言葉にできないような酷い目に遭うのだと思っていたのに、なんやかんやで今日もまたこうしてベッドで眠りについている。
 なぜ?
 考えてみると、あの男が現れるようになってからもう何週間も経つというのに、今日の今日に至るまで男は何もしてこようとはしなかった。
 名前すらも教えず、マフィアということ以外は何も語らないまま、毎晩のように部屋にやって来ては何もせずに帰っていく。
 大抵は壁にもたれたまま、花子がむきになって抵抗するのを面白そうに眺め、しばらくすると窓を開けて去っていく。そもそもここは一階ではないので窓から出入りをするのはどう考えても異常なのだが、男があまりにも自然にそうするものだからもうそんなものだと半分受け入れてしまっている。冷静に考えると色々とおかしいことだらけだが、非日常が続いたせいで自分もおかしくなってしまったようだ。
『オレのものになれ。もし断るなら——力ずくでオレのものにする』
 男のその言葉にきっと嘘偽りはないのだろう。
 だが、あの素早い身のこなしや腕力を使えばいつだって力ずくで花子を自分のものにできたはずだ。それなのに男はそうしなかった。だらだらとこの部屋に通い、花子がめちゃくちゃに物を投げつけても辛抱強く耐え、怒ることも手を出すこともしなかった。
『なんなんだ、おまえは』
 ……それはこっちの台詞!
 花子は男のあの子どものような表情を思い返し、どきまぎしながら毛布を被り直した。

     ◇

 それから数日——
 男はさっぱり現れなくなった。
 花子が拍子抜けしたのは言うまでもない。
 また来ると言っておきながら、全く現れないではないか。意外だったし、予想外だった。てっきりまた明日も来ると思って枕の脇に投げつける用の重いペーパーウェイトを仕込んでおいたのに。
 おかげで花子はすんなりと語学学校に通えるようになった。日本でしっかり勉強していたおかげで日常会話には苦労しないが、警察に苦情を入れるときにはイタリア語で強くまくしたてられるようになりたかった。それもこれもあの男が警察を懐柔していたせいだ。
「——勉強熱心なんだな」
「え?」
 授業後、辞書やテキストをかばんに入れていた花子は急に声をかけられて顔をあげた。
 気がつくと、隣の席の男がじっとこちらを見ていた。イタリア語を話しているがところどころ訛りが強くて聞き取りづらい。イタリアではめずらしい真っ白い長い髪を後ろに垂らして、もう暖かい季節にもかかわらず真っ黒の長袖の服をきっちりと着こんでいる。
「そんなに沢山のテキストが必要なのかぁ? さっきの授業では文法も発音も完璧だったが」
「どうも。まだ勉強中なの。言いたいことをガツンと言えるようになりたくて」
 答えながら、花子はいぶかしんだ。
 ……こんな人、隣に座っていたかな?
 さっきの授業の光景を思い返しても、隣には誰も座っていなかった気がする。集中するあまり気づいていなかっただけだろうか? それにしたってこんな長髪の人間がいたら自然と目がいくと思うが……。
「そりゃよかった。そういう向上心のある人間はオレも好きだぁ」
「向上心?」
 かばんに筆箱をつっこんで、席を立とうとした花子は、その時隣にいたはずの男がいなくなっていることに気がついた。
 見ると、男はとっくに席を立って教室の出入り口からさっそうと去っていくところだった。白い髪がさらさらと背中で波打っている。
「……何?」
 花子は思わず声に出してそう言いながら、そそくさと教室を後にした。毎晩現れる男のせいで寝不足がたたりクビになりかけていたバイトにまた安心して通えるようになったのだ。次にまた何かやらかしたら今度こそクビになるだろう。
(学校を出るのが遅れたから、今日はあっちの道から行こう……)
 バイト先の店まで近道ができる、メインストリートから離れたちょっと薄暗くてさびれた雰囲気のする通り。
 あそこにはマフィアのたむろする危ない店があるから女性一人の時には通らないほうがいいと二軒隣のおばさんに口酸っぱく言われていたのだが、まだ明るいからさして問題は無いだろうと判断して花子は人通りの多い道から外れて急ぎ足に通りに足を踏み入れた。
(だいたい、マフィアなら毎晩のようにウチに来ていたんだから……)
 そう軽く考えていたのが運の尽きだったのかもしれない。
 通りの真ん中あたりまで歩いてきたとき、急に物陰からいかにも悪そうな二、三人の男たちが出てきて花子の前に立ちふさがったのだ。
「本当にこの女なのか?」
「間違いない。こいつがあの御曹司の執心してるっていう——」
 男たちの目が花子を捉える。花子は後ずさった。
「何か用?」
「ああ。おとなしくこちらへ来てくれるなら、何も痛いことはしな——」
 男たちが言い終わるより早く、花子は後ろに向かって駆け出した。
「逃げたぞ!」
 男たちの誰かが叫ぶと、今度は花子の向かった先からも仲間と思しき男たちが出てきた。進退をはばまれて花子はその場に立ち止まると、かばんから素早く何冊かの辞書を取り出し、男たちに向かって思い切り投げつけた。
 思わぬ反撃にひるんだのか、辞書はそのうちのひとりの顔面に直撃し、男はううっと声をあげてかがみこんだ。当たりどころが悪かったのか血が出ている。
「この女!」
 花子は向かい合う男の拳をすんでのところでかわし、一瞬の隙をついて、迫りくる男たちの輪から転がりでた。だが、走る速さだけはどうにもならず、追いかけてきた男に後ろから服の襟をむんずと掴まれた。
「はなして! 誰か、助けて!」
 花子は大声で叫んだが、物凄い勢いで頬を叩かれて地面に転がされた。口の中が切れて痛みとともに血の味がにじんできた。倒れる時に打ち付けたのか頭がくらくらする。
「おい、殺すなよ。ここで死なれちゃ困る」
「分かってるって。死なせなけりゃいいんだろ、死なせなけりゃ。ザンザスとの交渉材料にさえなればいいんだから、別に無傷でなくたって——」
「誰が誰と交渉するって?」
 急に頭上から声が降ってきた。
 花子はよろよろと頭を動かし、声のする方に目を向けた。
 逆光の中、誰かが建物の屋根の上に仁王立ちになっている。腰まで届きそうな長い髪が風で背中にひるがえり——……その髪は、めまいのするほどに白い。
「ゔお゛ぉい、黙ってないでもう一回言ってみろよ。おまえら誰と交渉するつもりなんだぁ?」
 白い髪をなびかせながら言う。
「あ——」
 男たちの一人が呆けた声をあげた。それから叫んだ。
「ヴァリアー!」
 白い髪の人間がばっと宙に飛びあがった。左腕に取り付けられた刃のようなものを振るうと、小さな爆発が起きて周囲は煙に包みこまれた。右往左往する男たちの中から何度か悲鳴があがり、ばたりと倒れる音が繰り返される。
 花子は状況を飲みこめないまま咳こんで起きあがり、這うようにしてその場から逃げだそうとした。
「逃すか!」
 煙の中からぬっと男の手が出てきて、花子の髪をつかんだ。
「こうなりゃここで殺すしかねえ。ザンザスの野郎にはおまえの死体を箱詰めにして送りつけてやる!」
 男は恐怖と焦りであえぎながらもナイフを取り出し、花子の身体めがけて振り下ろそうとした。
 花子はもがきながらぎゅっと目を閉じ、ナイフの刃先が身体を貫くのを恐怖とともに待ち構えた。
 ……だが、いつまで経っても衝撃はやって来なかった。
 おそるおそる目を開けると、ナイフを持つ男の手を別の男が掴んでいた。ナイフを握りしめたまま男は恐怖でぶるぶると震えている。
「や——やめろ。撃つな」
 その眉間には銃口が押しあてられていた。銃を握っているのは、花子も見覚えがあった、何度も部屋に現れたあの黒髪の男だった。
「ふざけた真似を」
 短く言うと、彼は銃を下ろして男を冷たく見下ろした。
 銃口がそれても、男はナイフを振り下ろそうとはしなかった。ナイフを握った手をだらりと垂らしてそのまま少しずつ後ずさっていく。おびえた動物が尻尾を垂れて逃げていくかのようだ。
「やめろ。撃つな。殺さないでくれ。ひいっ!」
 涙と脂汗で顔じゅうびっしょりさせ、ついには頭を抱えて地面にしゃがみこんでしまった。がくがく震えながら恐怖のあまり失禁して、もはや抵抗する意志も失ってしまったらしい。
 花子は何が起きたのかさっぱり理解できないまま、ぼうぜんと二人の男を見た。
「立てるか」
 銃をしまった男が花子に手を差し伸べた。
「た——立てない……」
 花子がようやく言うと、男の腕がぬっと伸びてきた。大きな腕が身体の下に入り、宙にもちあげられる。抱きあげられたのだと気づくのに少し時間がかかった。
「血が出ている」
「え? あ——」
 間近く迫った男の顔に至近距離から見つめられて、花子はどぎまぎしながら言った。
「さっき殴られたから、口の中を切ったのだと思う」
 男は無言でじいっと花子の顔を見つめた後、血をぬぐおうとしたのか手を動かそうとしたが、両手がふさがっているのに気づいてはたと動きを止めた。
 それから周囲を見回すと、
「ベスター」
 何者かに呼びかけた。
 呼応するように、煙の中からゆったりとした足取りで大きなものが現れる。男は自分の足元にすり寄ってきた四つ足の大きな獣に花子を乗せた。
「ぎゃーっ!」
 花子は悲鳴をあげて転がり落ちそうになった。花子が腰を下ろしたのは、どこからどう見ても白いライオンだった。
「でけぇ声を出すな」
 花子の態度に機嫌をそこねたのか、男はちょっと怒った表情になりながらも花子をライオンの上に再び跨がらせた。
「そいつはおまえを食ったりしない。そいつは——匣——」
 何と説明すべきか悩んだように、数秒のあいだ口をつぐみ、
「……オレのペットだ」
「ペット!?」
 花子は恐怖で声をうわずらせながら叫んだ。
 ペット、と言われたライオンは少し不服そうな顔をしていたが、花子が震えていることに気づくとグルグルと甘えるような声を立てた。確かにこちらを攻撃する意図はないようだ。
「だ、大丈夫……? 重くないの? 乗ってていいの……?」
 おそるおそるライオンのたてがみを撫でている花子をじっと見ると、男は手を伸ばして花子の口元についた血をぬぐった。
「痛いか」
 花子が痛みと驚きでびくりと身体を震わせると、男の手が引っこんだ。花子は頷きながら男を見上げた。
「痛いよ。でも——ありがとう。色々分からないことだらけだけど……貴方がわたしを助けてくれたってことは分かる。その点は感謝してる。本当にありがとう」
 花子ににこりと微笑みかけられて、男はしばらくじっとしていた。それからふいに花子の頬に手をあてた。
「痛いっ……え、何。ちょっと」
 殴られたほうの頬に手をあてられて花子がひるんでいると、それに気づいた男が今度は反対側の頬に手を伸ばし、唇を近づけてきた。花子は手のひらで男の顔面を押し返した。
「ちょっと待って。どう考えても今はそういうことする場面じゃないでしょう。何をしたらここでそういう雰囲気になるの。待ってってば! 痛いって言ってるのに!」
 ぐいぐいと近づいてくる男に押しのけようとする花子、自分の上で繰り広げられるはた迷惑なやりとりに白いライオンがうんざりした表情をしている。
「ゔお゛ぉい、ボス! いくらなんでもそりゃ説明不足なんじゃねえかぁ!」
 倒れ伏した男たちを黒マスクの人間たちが回収するのを横目に見ながら、すっかり煙の晴れた通りをあの白い長髪の人間が歩いてきた。訛りが強く、そして驚くほど声が大きい。
「そいつはまだ何も知らねぇんだからちゃんと説明してやれよ。流石の百戦錬磨のボスさんもカタギの女の扱い方は分かってねえなぁ!」
「スクアーロ、貴様! ボスになんということを言う!」
 いつのまにか現れた別の大男が至近距離で怒鳴るのを無視して、スクアーロと呼ばれた白い髪の男は花子にちらりと目を向けた。
「すまねえな、うちのボスさんはちょっとばかし言葉が足りないところがあるんだぁ。ボンボンで甘やかされて育って、そのうえちょっと長いこと寝てたからよぉ、常識知らずなところもあるんだがまあ広い心で受け入れてやってくれぇ。——ボス、何度も言ったが、そいつはマフィアってこと以外はおまえのこと何も知らないんだぞぉ。日本からやってきた日本人で、ボンゴレとは何の関わりもねぇ。当然ヴァリアーのことだって知るわけがねぇんだ。それなのにおまえに好かれたってだけでわけ分かんないことに巻き込まれてよぉ。オレも説明不足だなんだってよく言われるが、ボスさんほどじゃないと思うぜぇ」
「スクアーロ! 貴様何度言ったら……!」
「ゔお゛ぉい、触るんじゃねえ! 気持ち悪ぃ!」
 大男に白い髪をひっぱられてスクアーロが怒鳴り返す。スクアーロの言葉を黙って聞いていた男はふと花子を見下ろし、花子がむくれたような表情でいるのに気がついた。
「その人の言うとおり。わたし、まだ貴方の名前すら知らない」
 花子はむすっとして言った。
「貴方は誰なの? マフィアというのは本当? イタリアのマフィアはこんなふうに争ってばかりなの? ライオンがペットだなんて相当なお金持ちなの? 貴方も、貴方の仲間も、みんな不思議な人ばかり。——何も説明してくれないんだもの。ちゃんと教えてくれないと困る」
「……悪かった」
 ごくごく小さな声で男が言った。まるで今まで一度も謝ったことがないかのような、不自然な言い方だった。
「説明が不足していたことは……謝る。くだらねぇいざこざに巻き込んだことも」
「うちに押しかけるような真似をしたことは?」
「……謝る」
 男は喉の奥でぐっと唸り、いかにもしぶしぶといったふうに呟いた。花子はため息をついた。
「分かった。謝ってくれてありがとう。じゃあ、ちゃんと説明して?」
「このオレに説明をしろというのか?」
「何言ってるの、当たり前でしょ。そもそもどうしてわたしのアパートにあんなふうにやって来たの?」
「一目惚れしたんだってよぉ」
 花子に睨まれて黙りこんでしまった男に、スクアーロが助け舟を出すつもりで発言した。
「バイト先って、港近くのあの花屋だろぉ。ルッスーリアが花を買いに寄ったとき、ボスさん、車の中からおまえを見てたんだぁ。そこで一目惚れして——ゔお゛ぉい、唸るな!」
 花子を乗せたライオンが急にスクアーロに向かって吠えた。花子はぼうぜんと男を見あげた。
「まさか——それで? 一目惚れしたからって、あんなふうにウチに来たの?」
「……駄目か?」
 男はバツの悪そうな表情をした。
「駄目っていうか——駄目に決まってるけど。不法侵入、普通に犯罪じゃない。まさかそれでいけると本気で思ってたの? ボンボンって言われてたけど、箱入り息子なの? お金持ちの社交界で出会った女の人にしか接したことなくて、ごくごく普通の一般人にはどういうふうにアピールしたらいいか分からない? 花の一本でも買いにきてくれたら会話だってできるのに!」
 花子は笑った。男はますます不機嫌そうになった。
「常識知らずか。確かにそうかもね。だけど……ちょっと面白いと思っちゃった。貴方って不思議な人なのね。ねえ、そろそろ名前を教えてくれる?」
 男は笑い続ける花子をすねたように見ていたが、ふいにぐっと花子の肩を掴むと、ふいうちで唇を重ねた。
「てめぇはオレのモンだ。——それを忘れるな」
 くるりと背を向けると、そのままどこかへ歩いていってしまった。
 われに返った花子は驚きのあまり慌てて後ろに飛びのきそうになって、ライオンの背にしがみついた。文句のひとつでも言ってやろうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。花子はとまどいがちに男の遠ざかる背を見つめた。妙に頬が熱い。
「……で、おまえはこの先どうすんだぁ?」
 入れ替わりになるようにスクアーロが話しかけてきた。
「今日のところはとりあえず帰るか? 語学学校はどうすんだぁ? アルバイトは?」
「……バイト!」
 花子は飛びあがって叫んだ。
「バイトに行くはずだったのに! また遅刻しちゃった!」
「いいだろもう、バイトなんざ」
 スクアーロがにやりと笑った。
「バイトなんてしていないでオレたちのところに来ればいい。あんな狭っ苦しいアパートともおさらばだぁ! 衣食住の心配もなし、いつでも清潔なふかふかのクイーンサイズのベッドで寝られる。おまえならキングサイズのベッドだって許されるぞぉ」
「そもそも、ここまできて今までどおりの普通の生活を送れると本気で思っているのか?」
 スクアーロの隣にいた大男が言った。
「女、貴様は——偉大なるボンゴレファミリーの九代目当主の御子息にして、ヴァリアーのボスであらせられるあのザンザス様に求婚されているのだぞ。それをまあ、まるで何事もなかったかのようにバイトなどとアホらしく叫びおって」
「ザンザス……? あの人、ザンザスっていうの? 偉大なる? ボンゴレファミリー? 当主の御子息……?」
「世界でもっとも巨大で資金のある、数々の偉業をなしとげてきたマフィアだ! ザンザス様はそのファミリーの当主のたった一人の跡取り息子なのだ!」
 大男はかっとなったように叫ぶと、花子の肩に掴みかかった。
「名誉なことだと思え! 貴様は世界一の幸せ者なのだぞ!」
「跡取り——に関しては、まあいろいろと邪魔者がいるんだが、どちらにせよ相当な権力と財力はあるぞぉ。それこそ国家警察なんぞ簡単に丸め込めるくらいには」
 目を丸くしている花子に、スクアーロがにやりと笑いかけた。
「おまえも覚悟しておいたほうがいいぜぇ? 今までの人生からは到底想像もつかない、とんでもない世界に足を踏み入れた、とな」
「は……はは……」
 今更のように指がぶるぶると震える。
 日本での仕事を捨てて、憧れのイタリアにやってきて。それが、マフィア? 当主の息子? 何がいったいどうなってるの? 近所の人には見放され、警察にも無視されて……どうしてあんな男なんかのためにわたしが……。……。

「……いいじゃない。やってやろうじゃないの! 日本人を舐めてたら痛い目を見るってイタリアの警察に分からせてやるんだから! わたしを無視したこと、絶対に後悔させてやる!」
「その意気だぁ! 向上心のある人間はオレも好きだぞぉ!」
「こうなれば貴様をとことんザンザス様にふさわしい女に仕立ててやる! 行くぞ、女!」

 それぞれの思惑を胸に、妙に気合いを入れて叫ぶ三人。
 白いライオンは、くあっとあくびをしながらそのやりとりを黙って聞いている。

(それに——あの人の——ザンザスのあの顔。子どもみたいなすねた表情。ちょっと可愛いと思っちゃった。あの顔をもう一度見られるのなら——こんな人生も悪くはないかもね)

 何やらやかましく大声で言い合いながら歩く二人と嬉しそうな顔の花子、彼女を乗せた白いライオンの姿が闇の中に消えていくと、血のにおいも痕も薄れていき——薄暗い路地裏に、いつもどおりのさびれた雰囲気が戻ってきた。

      おわり

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