アラウディが謎の老婆に出会い、とあるものを購入する話です(謎の老婆は謎のまま……)
赤い糸の話を書くならアラウディがよいなと思って書きました。
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赤い糸
「もし——そこの若い御方」
それは、道ゆく人びとの足音にも、ゆるやかに吹く風の音にさえもかき消えてしまいそうな小さい声だった。市場を行きかう人びとは誰も耳を傾けず、気にも留めない。
だが、その声に気がつき、振り向く者がいた。この地域ではめったに見られない、透きとおるような白金色の髪を持つ青年だった。
歳のほどは二十代半ばといったところか。よく手入れのされた白いシャツにベルベットのベストをあわせ、乗馬用と思しき革靴を履いている。湖面のような青い瞳がちらりと動き、日陰に座りこんでいる老婆を見つめた。
「なんだい、御婆さん。僕に何か用があるのかい」
「探し物をしておいでとお見受けする。立ち寄っていきなされ」
見ると、老婆の足元には敷布が広げられ、そこにいくつか売り物らしき品々が置かれていた。アラウディはしばらく思案するようにその場に立ち止まっていたが、老婆に害意がないと見てそらちへ近づいた。市場の大通りからそう離れていないというのに、この老婆の周囲だけ妙に人が寄りつかない。まるでそこには最初から誰もいないのだというふうに、周囲の人びとは視線すらもよこさないのだった。アラウディは怪訝に思いながらも尋ねた。
「この店では何を売っているの?」
「貴方様の求めておられるものを」
奇妙な受け答えをする老婆をじっと見つめ、その真意を探ろうとしたが、彼女の薄笑いからは何も読み取れなかった。アラウディは敷布の上のいくつかの品物を見定め、その中から、赤い糸が巻きつけられた木製の糸巻きを指さした。
「これも売り物?」
「ええ、勿論ですとも」
「僕の目にはごく普通の糸巻きにしか見えないけど。これが僕の求めているものだというのなら、糸巻きか、もしくはこの赤い糸のほうに、何か特別な謂れでもあるのかい」
「どちらもただの糸と糸巻きに過ぎませぬ」
老婆が笑みを深くする。
「されど、東方のさる国々では、このように信じられておるのです。運命によってかたく結ばれた恋人たちは、その指と指を赤い糸で結ばれている、と。——ゆえに、それこそが今の貴方様のお求めになっているものかと」
「……」
アラウディは無言で老婆を見つめた。
ふと、その口元が小さく弧を描く。面白いことを思いついた子どものような、たくらみごとをする時の微笑だった。
「面白いね。いただこう」
アラウディは糸巻きを受け取り、その対価を支払った。
「雲は何ものにもとらわれぬ……」
手から手へと糸巻きが渡されたその時、老婆が消え入りそうな声で呟いた。
「風に吹かれながら心のまま空を漂う。時には風に吹き散らされてばらばらになってしまうこともありましょう。それでも、糸の一本でも手繰り寄せるものがあれば、散り散りになってもひとところに戻ってこられるはず」
「それは何かの助言? それとも忠告かな?」
「なに、ただの老いぼれの戯れ言と思っていただければよろしい……」
その声が小さくなり、遠くなったかと思われた瞬間、不思議な老婆の姿も遠ざかるようにして消えていた。いつのまにか、アラウディは広場のはずれのひとけのない道に佇んでいた。
こういうのが、狐に化かされた、ということなのかな。
説明のつかない不思議な現象はたいてい狐のせいでござる、という知人の話を思いだしながら、アラウディは握りこんでいた手を開いた。幻でもなんでもなく、糸巻きは変わらずそこにあった。イタリアの狐も昼間から人を化かすようなことをするのだろうか?
「……ディ……——アラウディ!」
別の方角から自分の名を呼ぶ声がする。
アラウディが大通りに出ると、野菜や果物のつめこまれたカゴを抱えた女性が息をきらして駆け寄ってくるところだった。彼女はそばまでやって来るなり恨みがましい目つきをアラウディに向けた。
「お願いだから勝手にいなくならないで。少し目を離した隙にあっという間にいなくなっちゃうんだもの。わたし、また置いていかれたと思って、ひとりで泣きたくなったわ」
「ハナコ」
一生懸命に訴える彼女の様子を見て、アラウディは目を細めた。
「悪かったよ。もうどこにも行ったりしない」
「そんなこと言って、またすぐにどこかに行ってしまうんだから」
うっすら赤くなった頬を隠すようにぷいと顔をそむける。
「いい加減わたしも学習したの。貴方の言うことをまともに信じる方が馬鹿なんだって。いつもそうだわ、ふらりと現れて、またふらりと消えてしまう。この街にもいったいいつまでいるんだか。いい加減浮き雲みたいにふらふらするのはやめて、ここに残ってくれればいいのに。ジョットだってそう望んでいるに違いないわ」
ぶつくさ言いながら、ハナコはふと青年の手に何かが握られているのに気がついた。
「それは何?」
「糸さ。さっき買ったんだ」
「まあ、きれいな糸! 赤色がすごくはっきり出てる。どうして急にこんなものを? レース編みにも刺繍にも興味なんてなさそうだったのに」
「信じてみたくなったんだ」
アラウディはハナコの片手をとると、赤い糸をその指先に軽く巻きつけた。
「君と僕のあいだにも、見えざる赤い糸があると。もしも目に見えたなら、きっとこんなふうに真っ赤な糸なんだろう」
「なに、それ? どういう意味?」
「そのうち教えてあげるよ。僕の気が向いた時に」
あまり感情を面に出すことのないアラウディの口元に、その時、かすかに笑みが浮かんでいたことに、ハナコも、おそらくはアラウディ自身も気付いていなかった。アラウディは糸巻きを仕舞いこむと、わけが分からないといった顔をしているハナコからカゴを奪いとった。
「戻ろう。あまり遅くなるとジョットたちが待ちあぐねて帰ってしまいかねない」
「自分はちっとも悪くないとでもいうような言い方ね。アラウディがどこかに行ってしまうからこんなに遅くなったのよ」
「元はと言えば、君が食材を多めに準備しておかなかったからこんなことになったんじゃないのかい」
「まあ、わたしのせいだって言うの? 準備不足は否定しないけれど、まさかジョットが急に友人たちを連れてくるだなんて思わないじゃない? あの赤毛の——シモン……なんだったかしら。とにかく彼らについては構わないのよ。問題は、誰かさんがついていくと言っておきながらまともに買い物の手伝いもしてくれないことなの。そのうえ勝手にうろうろ歩き回って迷子になっちゃうんだから」
「そんなに不満なんだったら、僕の首に紐でもくくりつけておけば」
「いいわね。また勝手にいなくなったら鎖で縛ってしまおうかしら。それとも、その赤い糸でさっきみたいに指を結んでしまったほうがいい?」
悪戯っぽい笑みをうかべるハナコに、一瞬、アラウディは目を丸くした。それからにやりと笑って、
「君に縛られるのなら、僕は構わないよ」
空いているほうの手がつと伸びて、ハナコの小指を絡めとる。
この思いがけない反応に、てっきりいつものちょっと突き放すような軽口が返ってくるものと思いこんでいたらしいハナコは何かもごもごと言いながら顔を伏せてしまった。耳の端がわずかに赤く染まっている。
「行こう」
俯いたままこくこくと頷くハナコの手を引っ張るようにして、アラウディは、市場を抜けて友人たちの待つ家へと戻っていった。
おわり
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