とある村に滞在するアラウディと彼の身の回りの世話をしている村娘の話です。
ナックルもほんの少しだけ登場。
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+
女神とアドニスの花
「はあ……」
長椅子に腰掛けたまま、ハナコは今日もう何度目かになるため息をついた。
でも、それも仕方のないこと。——彼を見たら、誰だってそうなるもの。
(本当に私と同じ人間なのかしら)
そろそろと顔をあげ、ラタンチェアに腰かけている青年を見つめる。
プラチナブロンドの髪に、薄いブルーの瞳。頭のてっぺんからつま先に至るまで全てが完璧な均衡を保っている。
どんなに美しく着飾った貴婦人たちだって、彼を前にしたらきっと気後れする。金や銀、美しい宝石をちりばめられた装飾品も彼の前では色褪せてしまうに違いない。その美貌をたとえるなら……そう、美の女神ウェヌスに愛された美しい青年アドーニス。女神の腕の中で息絶えた彼が流した血は、女神の注いだ酒と混じって真っ赤なアネモネを咲かせたという……。
「ハナコ」
「え?」
急に声をかけられて、ハナコはどきっとした。
夢見心地の気分がさあっと晴れた。手の感覚が戻ってきて、手の中に重みを感じる。皮むきナイフ、それからニンジン。足元に置いた木の籠から野菜の土っぽいにおいが立ちのぼってくる。
「さっきから手が止まっているようだけど」
アドーニスであったはずの青年が読みかけの本から顔をあげて、まだどこかぼうっとしているハナコに青い瞳を向けた。
「僕の顔ばかりじっと見て、何か言いたいことでもあるのかい」
「別に。ただちょっと見とれていただけ」
ハナコは目を細めてはにかんだ。
「あなたの顔がすごく綺麗だから。知ってる? 女神に愛されたアドーニス。きっとあなたみたいな美しい男の人だったんだろうなと想像していたの」
「ばからしい。それより、その野菜の下ごしらえ、早くすませてくれる。それ以外の家事も」
「本当にそうなのよ、アラウディ。本当に綺麗なんだもの」
自分の考えを否定されたような気になって必死に言ってみせたが、アラウディは聞く耳をもたず読みかけの本に視線を戻して黙々とページを繰っている。自分でも気づかないうちにまたその横顔に見入って、ハナコは小さく吐息をもらした。
(本当に……同じ人間じゃないみたい。石像や絵画に描かれた神話の英雄が命を吹きこまれて動きだしたんだって言っても、きっとみんな信じるに違いないわ)
ハナコがそう考えるのは何もこの青年の外見だけが理由ではない。
この村では見かけられないプラチナブロンドの髪も、薄青色の瞳も、村人たちの興味をひくものには違いないが、それ以上に目を引きつける何かがこのアラウディと名乗る青年にはあったのだ。
村人たちと同じような庶民風の格好をしていても、隠しきれない何か——生まれもった気位の高さのようなものが全身から滲みでていて、それらが立ち振る舞いのひとつひとつに表れている。歩く姿やただこうして座っているだけの姿にさえも不思議と目をひくものがあった。
彼を見た村人たちは、きっと彼は貴族の生まれだ、相当に身分の高い人間に違いない、そうでなければ異国の王家の血を継いでいるのだろうとうわさした。
当のアラウディ本人は、そんなうわさ話もどこ吹く風、好奇の視線にさらされても顔色ひとつ変えず、愛想笑いもせず、村の様子をただ物静かに眺め、日がな一日、読書やうたた寝をして過ごしている。
ハナコは村長の言いつけで彼の身の回りの世話をしているが、いまだに彼のことをよく知らない。
知っているのは、アラウディという名と、彼が村長の大事なお客様であるということだけ。それ以外のことはほとんど知らない。彼の素性やプライベートをさぐるような真似はするなと村長にかたく言い聞かされていたので、彼が実際どこの誰でどんなことをしている人なのかはちっとも分からないままなのだ。
ここに住んでいるわけではなく、数日から数週間滞在し、しばらく見かけないかと思ったらまたふらりと戻ってくる。特定の職業についているのか、それとも気ままな旅人なのだろうか?
(アラウディはどうしてこの村に来るの?)
一度だけそう質問したことがある。
ハナコがアラウディのもとに料理や掃除のために来るようになってしばらくした頃のことだ。この美しいプラチナブロンドの男と、自分の住む貧しい村との組み合わせにどうしても合点がいかなかったハナコが、村長との約束をやぶってまで尋ねたのだ。
(やってきたと思ったらまたどこかへ行ってしまう。それでも、しばらくしたらここに戻ってきてくれる。こんなちっぽけで貧しい村に、あなたを引き留めておけるような何かがあるの?)
(僕がここにいたいから。それでは理由にならない?)
アラウディはそう言って読みかけの本を閉じ、窓から差しこむ光を浴びて大きく伸びをした。
(ここは自由で居心地がいいし、周囲がどう思うかはともかく、僕自身は気ままに過ごせる。立場上、ルールに縛られることもあるけれど、僕は窮屈なのは苦手なんだ。できるものなら風に吹かれるまま、流されるままに自由に漂っていたいね。あの雲のように——)
普段は笑うところなどめったに見せないアラウディだったが、この時だけはまるで何かを楽しむように小さく微笑んでいた。彼がどういう人で、どういう仕事をしているのかは結局分からないままだったが、きっと汗を流して働く必要のないほど資産のある家の生まれなのだろう、とハナコは思い、そう結論づけることにした。
それとも本当に人間じゃないのかしら?
だから働く必要もなし、風のように消えてまたふらりと現れる。こんなにも美しいんだもの、そうであっても不思議じゃないわ。手をかざせば透けてしまいそうな白金色の髪、晴れた日の青い湖のような瞳。
(そんな彼とくらべて自分ときたら……)
ハナコはそうっと自分の身体を見おろした。
農作業で日焼けしてくすんだ肌、すりきれてお世辞にもきれいとはいえない服。もつれて毛先がちりちりになった髪はあちこちぴょんぴょんと飛びはねている。座っているだけできらきらして見える彼とくらべると、自分のなんとみすぼらしいこと。彼と同じ空間にいて、同じ空気を吸っているのが夢のようだ。
(せめて彼がここにいる間は頼まれていることを完璧にこなすようにしよう。ドジを踏んだりしたら、村長に怒られて、お役御免になっちゃうかもしれないもの。家事でもなんでもこなして、アラウディにいいところを見せておかなくちゃ)
ハナコはまたこっそりとアラウディを盗み見て、ほんのり頬を染めた。年頃であってもいまだ憧れと恋心の区別さえつかなかったが、こうしてアラウディを見つめているあいだは胸が高鳴り、いつになく心が高揚したようになる。
「また手が止まってる」
ハナコははっとした。アラウディが本から顔もあげないで、視線だけでちらっとハナコを見る。
「今度は考えごと?」
「ごめんなさい」
ハナコは真っ赤になってうつむいた。動揺が手の震えとなって、ナイフを握る手のひらが汗ばんだようになる。
「あっ」
その時だった。手元が滑り、ナイフの刃が指先に食いこんだ。一瞬、鋭い痛みが走り、ハナコは顔をしかめた。みるみるうちに指先に血が膨れあがり、たらりと流れ落ちる。
やってしまった。いいところを見せようと決意したばかりなのに。
「ハナコ?」
「なんでもない」
ハナコはじわじわと痛みだした指をとっさに隠して、アラウディに笑顔を向けた。
「その——ちょっと待ってて。いったん家に戻るから。またすぐに来るわ」
そう言ってそそくさと戸のほうに向かおうとするハナコを、本を置いて立ちあがったアラウディが引き止めた。
「ハナコ」
後ろから腕を掴まれたハナコはそろそろと振り返り、そこに仁王立ちになっているアラウディを見た。
「なに、アラウディ。どうしたの」
「さっきから何か隠しているようだけど」
ため息まじりにアラウディが呟いた。
「僕は、目の前でこそこそされるのはあまり好きじゃない。その後ろ手に隠しているものを見せてくれるかな。君が嫌だと言うのなら、無理矢理にでも見るけれど」
「なんでもないのよ、本当に。ただ——」
ためらってもじもじしているハナコをじろりと見ると、アラウディはもう片方の手を伸ばしてハナコの腕をひねりあげた。
「わ、分かった。ちゃんと見せるから、手を放して」
観念したハナコが手をそうっと開き、握りこんでいた指を見せると、アラウディの目が一瞬大きく見開かれた。
「……そんなもの、隠してどうするつもりだったんだい。隠したって遅かれ早かれ分かることなのに。それとも、そんなことで僕が怒るような人間だと思ってる?」
叱りつけるような口調とは裏腹に、その声は優しかった。
「おいで。傷を診てあげるから」
◇
アラウディの手当ては、的確かつ素早いものだった。
「終わったよ」
血を落とし、清潔な布で止血された指は、じんじんと痛みはするもののそれ以外には何の支障もない。てきぱきと動くアラウディの指にみとれていたハナコは手当てが終わったことにようやく気がついて、慌てて口を開いた。
「ありがとう、アラウディ。その——ごめんなさい」
「謝られるようなことをした覚えはない」
「うん。でも、ごめんなさい。まだやることもたくさんあるのに、怪我しちゃって」
ハナコはテーブルにぽつんと取り残されているナイフと半分皮をむかれたニンジンを眺めた。
「怪我をしている人間を無理に働かせるつもりはないよ」
薬やら包帯やらの入った木箱を棚に仕舞いながら、アラウディが言った。
「そもそも僕は君に給金を支払っていないし、村長が君を寄越して身の回りのことを手伝わせると言っているだけで、無理やり君をここに呼んでいるわけでもない。だから今日はもう帰って構わないよ」
「ええっ」
ハナコは思わず大きな声をあげていた。自分で自分の声の大きさにびっくりするほどだった。
「なに。どうしたの」
アラウディも少し驚いた様子で、急に大声を出したハナコをまじまじと見ている。
「その、わたし帰りたいわけじゃなくて——これぐらいの怪我どうってことないの。水仕事や指を細かく使うようなことはちょっと時間がかかるかもしれないけど、それ以外のことはちゃんとやるから。だから」
「……だから、まだ帰りたくないって?」
アラウディの口元がわずかに緩んだ。
そこでようやく自分が前のめりになって必死に話していることに気がついて、ハナコは顔を赤くして姿勢を正した。
「いいよ、帰らなくても。君がここにいたいのならそうすればいい」
アラウディはハナコの隣に腰をおろし、面白そうにハナコを見た。
「僕はてっきり君が喜んで家に帰るものかと思っていた。結構、こき使ってしまっていたからね。もしかしてここにいるのが好きなのかい? ……まあ、僕の顔をいつまでもじっと見ているくらいだからね。よくもそこまで飽きずに人の顔を眺めていられるものだ。感心するよ」
「あの、それは」
ハナコは口ごもった。青い瞳に見つめられるとうまく声が出せない。
アラウディもいったいどういうつもりなのだろう? いつもはこちらのことになんてまるっきり興味がなさそうに本ばかり読んでいるのに、今はこうしてハナコの隣で、手が届きそうなほど近くにいる。きらきらするプラチナブロンドの髪も、湖のような瞳も。
「あなたが相手なら、他の子だってきっと何時間でも見ているわ。たぶん」
緊張と恥ずかしさのあまり俯きながら、ハナコはなんとか声を押しだした。
「だって……それくらいに綺麗なんだもの。あなたも、あなたの立ち振る舞いも。本当は人間じゃなくて、絵画や神話の世界から飛び出してきたんだって言ってもきっとみんな信じるわ」
「それで、アドーニスだなんて話をしたのかい。確か、女神に愛され、女神の腕の中で息絶えたとかいう」
「からかうつもりでも、馬鹿にするつもりでもなくて、本気で思ったの。女神に愛されるとしたらきっとあなたみたいな人なんだって。あなたがあんまりにも綺麗だから」
俯いたまま背中を丸めて、消えてしまいそうなほど小さくなったハナコに、アラウディは静かに言った。
「君の考えはよく分かった。君が相当な物好きだということも。……でも、そんなにも僕を見ていたくせに、僕が何を見ていたかにはちっとも気がついていないんだね」
「……え?」
顔をあげたハナコは、そこで、アラウディの青い瞳が思いのほか近くにあることに気がついた。
「アラウディ?」
「君は遠くから見てるばかりで飽きないの? 僕は飽きたよ」
青い瞳が思わせぶりに細められる。ハナコが言葉の意味を理解するまでたっぷり数十秒待ってから、アラウディはハナコに近づいた。
白い指先がハナコの髪に触れた。ハナコは驚き、ほとんど反射的に後ずさった。
「……僕に触れられるのは嫌かい?」
「ち、ちがうの。そうじゃなくて」
ハナコはじりじりと後退しながら、
「あなたみたいな貴い生まれの人が、わたしのようなただの村娘に——その、そういうのは、あまりよくないと思う。みんな怒るわ。村長にも怒られる。身分が違うもの」
「貴いだとか、身分だとか、そういうのは君が勝手に考えているだけだろう、ハナコ。僕は何も言っていないのに」
「でも——あっ」
アラウディの指が髪のひとふさを掬いあげた。
ハナコはどぎまぎしながら、アラウディが何をするでもなくただ指先に髪を絡めるのをじっと見た。否が応でも彼の手元に目が吸い寄せられ、心臓が痛いほどに高鳴りはじめる。
「ぼさぼさだから、あまり触らないで」
顔じゅう真っ赤にしながら、ハナコはようやく言った。
「ろくにお手入れできていないから、きっとあんまりきれいじゃないわ。あなたのようなきらきらする髪だったらよかったのだけど」
「……まだ僕のことをアドーニスか何かだと思ってる?」
アラウディはハナコの髪に接吻した。
「僕は人間だ。——君と同じ。こちらに手を伸ばしてくれたら、君にもそれが分かるのに」
ハナコは泣きだしそうな表情でアラウディを見つめかえした。
おそるおそる腕を持ちあげ、引き寄せられるまま彼の胸に飛びこもうとした時、家の外から、馬のいななきが聞こえた。
幾ばくもしないうちに激しく戸が叩かれる。ハナコは顔をあげ、家の入口とアラウディの顔を交互に見た。
「アラウディ——」
アラウディは無言で眉をひそめたが、その場から動こうとはしなかった。だが、ノックの音はだんだん大きくなり、ついには戸を破りそうな勢いになる。
アラウディがはーっと長いため息をついた。目を丸くしているハナコを長椅子に座らせたまま、立ちあがり、戸を開ける。
「アラウディ! いるのなら早く開けんか!」
大声とともに飛びこんできたのは神父服を着た男性だった。
どうやらアラウディの知り合いらしい。いかにも元気のよさそうな、快活な印象の男性だったが、不機嫌そうなアラウディとどぎまぎした表情のハナコを見ると、分かったような分かっていないような複雑な表情を浮かべてアラウディにささやいた。
「すまん、女性が一緒だとは思わなかった。ここはおまえの隠れ家ではなかったのか?」
「何の用?」
無粋な乱入者に向かってアラウディがぶっきらぼうに言う。
「おお! そうだった! ジョットがおまえを呼んでいるのだ。なんでも南方の例の勢力のことで話があるようで、今夜——」
ナックルという名らしいこの男といくつか言葉をかわすと、アラウディは「分かった」と言って奥の部屋に行き、黒いトレンチコートを羽織って戻ってきた。
ハナコは息を呑んでアラウディを見つめた。
庶民風の格好をしていても隠しきれなかった彼の一種の高貴さのようなものが、漆黒のコートを羽織ったことによっていっそう強くひきたてられ、それがあきらかに常人とは違う雰囲気を彼にまとわせている。
さっきまでとはまるで別人のようなアラウディの姿に、ハナコは少し気後れしながらもそろそろと近づいた。
「アラウディ」
「しばらく留守にする。でも、仕事が終わったらすぐに戻る」
アラウディはほんの小さく唇の端を持ちあげた。
「安心してよ、僕は君のいないところで勝手に死んだりしない。どうせ息絶えるのなら、アドーニスのように女神の腕の中がいいからね」
ハナコの髪をひとふさ手にとって口づけ、それから、怪我をして包帯を巻かれた指にも唇を寄せる。
「でも、僕が死んでもそこから花など咲いたりしない。僕も君も同じ人間だから。だから生きて、また戻ってくる……君は僕が戻るまでにこの指を治しておくように。分かった?」
「きっと戻ってきてね、アラウディ。あなたが無事に戻るように祈るから」
「アラウディ、置いていくぞ!」
先に馬に乗っていたナックルが急かすように大声をあげる。アラウディは戸をくぐって、自らの白い馬を連れてくるとその背に跨った。
「いちいち叫ばなくても聞こえてるよ。ただでさえ声が大きいのだから、普通に喋ってくれる」
「おお! それは悪かった! では行くぞ!」
ナックルの声を合図に、二頭の馬が風を切って走りだす。
(アラウディ……)
ハナコは風に吹かれながら、アラウディに触れられてまだ熱く感じる指を折りたたみ、走り去っていく背中に向かって、彼らが無事で戻るようにと強く祈った。
おわり
No responses yet