2012年10月の「REALMAFIA6」の頒布物「獅子王の剣」をWEB公開用に加筆・修正したものです。
日本へ行ったという九代目の後を追いかけて、ボンゴレの屋敷を抜けだし片田舎の小さな町で開かれていたフェンシングの大会に辿りついた九歳のザンザス。そこには自分にエペを教えてくれた剣帝テュールとその弟子ブラバンダー、そして『鮫』と呼ばれる天才的な剣の才を持つ少年がいた。
※原作では名前のみの登場である剣帝テュールが出てきたり、ブラバンダーがテュールの剣の弟子であったり、ザンザスがテュールにフェンシングを習っていたりといくつかオリジナル設定を含んでおります。加筆したボンゴレ二世関係の記述も捏造設定あり。
二段組のPDF版はこちら
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獅子王の剣
——いつかここへ来るであろう子どもたちと、その友へ捧ぐ。
プロローグ
「お待ち申しあげておりました」
そう言って女は客人たちを案内した。
「主人を呼んで参ります。しばらくこちらでお待ちください」
客人たちのうち、ひとりはソファに腰を下ろした。もうひとりは立ったまま落ちつかなげに室内を見回し、窓辺に近づいて外の様子をうかがう。
窓の向こうは見渡すかぎり海だ。太陽の光を浴びて、波が砂浜に打ち寄せる。水面いっぱいにダイヤモンドをばらまいたように、波のあいだで白い光がちかちかときらめいた。
「座れ」
ソファに腰かけていた方が命令した。外を眺めていた男はきっとふり返って何か言い返そうとしたが、しぶしぶというふうに彼の隣に座りこんだ。
客人は両方とも男だった。
ひとりは黒く、そしてもうひとりはこのうえもなく白い。肌も、髪も、透けてしまいそうなほどに。
「……それにしたって、こんなへんぴなところに本当にあるのかよぉ?」
白い髪の男がいささか訛った声で言った。
「その、ボンゴレ二世の遺したっていう《宝》が。そんなもんがイタリアのど田舎の、ボンゴレとはいかにも無関係そうなこの家にあるとは到底思えねえが。しかもそれを無料で譲ってくれるなんざ、うまい話にも程があるぜぇ。信用してもいいものなのか?」
「うるせぇ。黙ってろ」
黒髪の男が低く言い放つと、白い髪の男はたじろぎ、押し黙った。彼にとって、この男、ザンザスは友人であり、主でもあった。
自身も前に向き直り、ザンザスはそっと息をついた。初めて訪れたにも関わらず、この家はどこか懐かしい感じがした。調度や装飾のひとつひとつでさえも、まるで昔から知っているもののように思われた。
目を閉じると、遠い過去に置き去りになっていた記憶が色をおびてまぶたの裏に甦ってくる。母親と共にスラムを抜けだし、世界で最も偉大なマフィアの子息として過ごした日々。
あの沈黙の八年間よりも、そして「揺りかご」よりもずっと昔……十五年前、ザンザスはまだ何も知らない九歳の少年だった。
第一幕 剣の帝王
「——だから、ボンゴレ二世の傍にはいつも年端もいかない少年剣士がいたっていう話ですよ。資料には残っていないけれども、二世に御者としてお仕えしていたオレの高祖父のそのまた爺さんが言うんだから間違いない」
焼きたてのブリオッシュに手を伸ばしながら、ガナッシュはどこか自慢げにそう言った。
「その少年剣士は子どもながら街を騒がせていた腕利きの盗人だったらしいけど、夜襲を仕掛けた折に二世に左腕を断ち切られて以来、改心し、剣の道を志すようになった。しかも、その少年に剣を教えたのが二世自身だというんだから驚きですよ。『右手に燃えるは炎の黄金、左手に掴むは輝く宝剣。弱き者をかばい、愚かなる者に憤怒の一撃を与える。その御姿はさながら獅子の如し。われら、炎を《憤怒》、その剣を《獅子王の剣》と呼んだ——』」
「……その話は聞き飽きた、ガナッシュ」
ザンザスはむっすりした顔でガナッシュを睨みつけた。
「なにか面白い話をしろと言っているのに、毎度毎度同じような作り話ばかり。くだらない。これならオッタビオのお説教を聞いているほうがよっぽどましだ」
そう言ってフォークを投げだし、背をそらしてふんぞりかえる。さしものガナッシュもこれには声をひそめ、御当主の気まぐれな息子の機嫌をどうにか取り戻そうと、助けを求め、同じテーブルについている同僚のクロッカンとニーに視線をやった。
ふたりとも自業自得だと言わんばかりの表情で笑いをこらえている。
そんな、と呟いてガナッシュがうなだれている隙に、ザンザスは彼の皿から焼きたてのベーコンとスクランブルエッグを素早く拝借した。
「だいたい、ボンゴレ二世が本当に凄い剣の使い手だったなら、それに関する記録が少しくらい残されていてもおかしくないはずだ。書庫の文献や文書にはひととおり目を通したが、そんな記述は一文たりとも見あたらなかった。二世は武器を使わずに素手で戦ったんじゃなかったのか? その宝剣というのは今どこに?」
「痛いところをつくなあ、坊ちゃんは」
ザンザスにきつく睨まれて、ガナッシュはぽりぽりとあごをかいた。
「オレにも詳しいことはよく分からないんです。なにせもうずっと昔のことだし、先祖から代々語り継がれてきているっていうだけで、そこまで詳細な記録があるわけじゃ……。二世が剣を抜くのは滅多にないことだったそうだし、ひい爺さんなら何か知っていたかもしれないが、オレが生まれるよりずっと前に死んじまったんで」
「結局のところ、何も分からないということだな」
クロッカンがにやりとした。
「君の話はいつもそうだ」
ニーが口に手をあててくすくす笑った。
「盛りあげるだけ盛りあげておいて始末がつかない。ジャッポーネの言葉を借りて言うなら『落ちがない』というところかな。ザンザス様のお気に召すようなうまい作り話を持ってこないといけないね」
「おまえたちまでそう言うなよな、ちくしょう。これはオレの家に代々伝わってきた由緒ある物語なんだぞ。作り話なんかじゃねえ」
ガナッシュはごまかしついでにまたブリオッシュに手を伸ばした。後片づけをしていたメイドたちがこそこそ笑っているのに気がつき、居心地悪そうに身じろぎする。
ザンザスと共にテーブルを囲んでいるのは、ザンザスの父にしてボンゴレファミリーの九代目当主であるティモッテオの指輪の守護者たちである。
明るくて気さくな雷の守護者ガナッシュ。からかうような物言いをするのは晴の守護者ニー。そしてふたりよりも少し年上の霧の守護者クロッカン。三人とも成人しているが、九代目の守護者の中ではかなり若い方である。
「それで、その二世といっしょにいたという少年剣士の名は?」
ニーがこそっとささやいた。ガナッシュの肩がぎくりとなった。
「ええと……なんだったかな。本名ははっきりしてなくて、いつも自分の通り名を名乗ってみせていたらしいんだけど……鯨とか、鮫とか、そんな感じの名前だったような」
「はっきりしない男だね、君は」
あきれたように言うニーに、ガナッシュは肩を落としてため息をついた。
1
守護者たちよりもひと足先に朝食を食べ終えたザンザスは、頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めていた。
なんとはなしに胸騒ぎのする朝だった。父さんはどうしているだろう、と思い、そこでようやく父親の姿がちらりとも見当たらないことに気がついた。ほかの守護者——嵐の守護者コヨーテと雲の守護者ビスコンティ、それに雨の守護者ブラバンダー・シュニッテンの姿も。
「父さんは?」
「しばらく外出なされます。コヨーテとビスコンティ、ブラバンダーもいっしょです」
スケジュール帳をぱらぱらとめくっていたクロッカンが顔をあげた。「一週間程度でお戻りになる予定です」
「一週間? そんなに長いあいだどこへ行くんだ」
「スイスのベッリンツォーナです」きっぱりと言った。「カラブリアのンドランゲタが国外進出を図り、スイスやドイツ、アルバニアなどに下部組織を置いて活動しているという噂があります。今回はその調査のために現地の関係者と行動を共にされる予定です。四日目にはそのままドイツのミュンヘンへ入り、同様の調査ののち、こちらへ戻られます」
「ふうん」
つまり現地調査ってわけか。だから、雨の守護者のブラバンダーを連れていったんだな。あいつは幹部たちの中では一番といっていいくらいドイツ語が堪能だ。でも、どうしてわざわざ父が出向く必要があるんだ?
カラブリアのンドランゲタが勢力を拡大しつつあることはオッタビオから聞かされていたので知識として頭の中にあったが、こういうことのために父自ら現地へ赴くのはめずらしいことだった。ただの現地調査ならブラバンダーひとりでもこと足りるはずだ。
それにンドランゲタは最悪だとオッタビオが嘆いていた……冷酷で、人を人とも思わない非情な集団なのだと。彼らは表の顔であるいかにも真っ当なビジネスを隠れみのに、麻薬、密輸、誘拐、売春といったありとあらゆる犯罪に手を染めているらしい。そんなところにオレたちのボスを現地調査役として送りこむなんていくらなんでもおかしいんじゃないか?
ザンザスはしばらくのあいだ考え、言った。
「オレも行きたい。父さんのところへ連れていってくれ」
「わがままはいけません、坊ちゃん」
一番最初に反応したのはガナッシュだった。
「今回は目的が目的、しかも国外ですから、必要最低限の人数で行動する必要があります。九代目をお守りするために同行しているコヨーテたちには、坊ちゃんをお守りするだけの余裕はありません。ボンゴレの子息であるあなたが万が一攫われたり、行方不明になったりしたら、国家を巻きこんでの大騒動になりかねませんからね」
ザンザスはこの男が幹部たちの中でもっとも単純で、感情の表に出やすい人間だと知っていた。彼の苦笑の裏にはかすかな焦りが見てとれた。
「今日はオッタビオに数学を教えてもらうんでしょう?」
助け船を出すようにニーが口をはさんだ。
「お父様の仕事に関心を持たれるのは素晴らしいことですが、まずはあなたのなすべきことをしましょう。立派なボスになるためにもね」
口に手をあててくすりと微笑む。「勉強部屋でオッタビオがあなたが来られるのをわくわくしながら待っていますよ。行って、安心させてあげてください」
ザンザスは用心深く三人を見回した。
彼らの言うことはもっともだ。だが、何かが引っかかる。
「……散歩にいきたい」
しばしの逡巡の後、ザンザスは小さく呟いた。
「今の気分であのオッタビオの顔を見たら、いらいらしてしまいそうだ」
ガナッシュが見るからに困ったような顔になった。「だめですよ、坊ちゃん。わがまま言っちゃあ」
「ロッコを連れていく。それならいいだろう?」
ザンザスは素早く言い、椅子から飛び降りた。「ロッコは頭がいい。オレが散歩の途中でこっそり屋敷を抜けだし、父さんの後を追いかけるなんて馬鹿な真似をしようものなら、即座に走っておまえたちに知らせにいくだろうさ」
ガナッシュとニー、クロッカンは顔を見あわせた。
「まあ……ロッコがいっしょなら」
ガナッシュが諦め半分に呟いた。このわがままなお坊ちゃんには反論するだけ無駄だ、とでも言いたげな顔だった。
ロッコというのは屋敷で飼育されているグレート・ピレニーズの名前だ。
超大型犬といわれるだけあって身体が大きく、寝そべっていると白熊が寝転んでいるようにも見える。図体こそでかいが気性は穏やかで、主人の言うことをよくきくので、俊敏に動きまわるグレーハウンドや気位の高いボルゾイよりは安心して「坊ちゃん」を任せられると、ザンザスの散歩の相手にはもっぱら彼が駆りだされることになっていた。
もちろん、ここでいう主人とは、九代目と九代目の守護者、そして犬舎のトレーナーのことだ。
「よしよし、ロッコ。きちんとザンザス様のお相手をするんだぞ」
クロッカンはロッコの頭を撫で、ザンザスにしっかりとリードを握らせた。
「決して放さぬように。ロッコのためになるべく木陰を歩いてあげてください」
「わかってる」
「散歩が終わったら犬舎にロッコを連れていって、勉強部屋へ行ってください。オッタビオが待ちかねていますから」
「それもわかってる」
ザンザスはリードを引っぱった。ロッコは頭をあげてザンザスの真横にぴたりとくっつくと、ザンザスと足並みを揃えて歩きだした。
見送る守護者たちの姿が遠ざかっていく。
玄関先の段差を降りると、そこから数十メートル離れた噴水へ向かってまっすぐに道が伸びている。周囲の芝生には低木とブロック状に刈りこまれた植えこみが点在し、更に数十メートル進むと大型トラックが四台並んでも余裕で走れる通りに出る。
その通りは輪っかになっていて、道沿いに歩いていけばザンザスが普段過ごしている建物の周りをぐるりと一周するようにできている。距離にして数キロ。ロッコのお決まりの散歩コースだ。
歩道には自然の石を切り出して造られたタイルが敷きつめられ、朝日を浴びてきらきらと光っていた。ザンザスはロッコを気づかって木陰を歩いていたが、玄関からかなり離れた位置までやってくると、急に角度を変え、素早く芝生に入りこんで茂みの裏に隠れた。
「背を低くしろ」
ザンザスが囁いた。
ロッコは伏せの態勢になった。
「そのまま前進。行くぞ」
ひじを地面に突き立てて腹ばいになって進むザンザス。その後をロッコが同じような姿勢で追いかける。
ザンザスの口もとに笑みが浮かんだ。九代目の守護者たちはひとつ間違いを犯した。やつらはロッコが自分たちに忠実だと思っている、けれど本当はやつら以上にこのオレに忠誠を誓っているのだ。
日々散歩をしながら、飴と鞭を使い分けてそうなるように入念にロッコに仕込んできた。まさかこんなふうに役立つ日が来るとは!
日差しに暖められた芝生の感触が腹の下を滑っていく。ザンザスとロッコはおのおの服と毛並みを泥で汚しながら、植えこみの陰に隠れて徐々に玄関まで戻りつつあった。
玄関先ではひと仕事終えた守護者たちが柱にもたれてしばしの休息をとっている。ぎりぎりまで近づいたところで静かに停止し、地面すれすれまで頭を低くした。ロッコも主人に従ってぺたりと芝生に寝そべった。
「ビスコンティ、どうだって?」
「問題なしだとさ」
ガナッシュは片目を閉じてクロッカンにウインクした。「こっちも問題なしと伝えておいたぜ。ただひとつ、坊ちゃんがさっそく九代目の後を追いかけたがっているということを除いては……ってな」
くっくっと笑って口元を押さえる。「さっきはひやひやしたよ。もしかしたらばれてるんじゃないかって。さすが坊ちゃんは鋭いや」
「君の言動にもひやひやさせられたけどね」
あきれ顔でニーが言った。「あんな態度では焦っているのがまる分かりだ!」
「下手なことを言えば見抜かれちまうと思ったんだよ。九代目が日本へ行くなんて知ったら坊ちゃんは絶対ついていきたがるだろうし」
日本!
地図で見たことがあるぞ。
日本は父さんのお気にいりの国だ。門外顧問の家光の出身国でもある。
あんな小さな島国に父さんはいったい何をしにいくのだろう? ベッリンツォーナやミュンヘンに行くふりでオレを騙すような真似までして?
観光……いや、違うな。一瞬浮かんだ考えをザンザスは即座に否定した。ただの観光であれば守護者たちに嘘をつかせる必要などない。父さんは何かするべきことがあって日本へ行くのだ。
「そういえばブラバンダーはどうしたんだ?」
休憩を終え、室内に戻ろうとしたところでガナッシュがクロッカンをふり返った。
「いっしょに行くって言ってたけど、まだ出発してないんだろ?」
「遅れて行くんだとさ。用が済み次第向かうとのことだ」
クロッカンはにやりと笑った。
「そろそろ車を出す準備をしている頃だろう。オレたちも仕事に戻るぞ。やることだけはたんまりあるからな」
「いいか、ロッコ」
車の陰に隠れてザンザスはひそひそと囁いた。
「オレが合図をしたらブラバンダーに飛びかかれ。あいつの鞄でもなんでも奪って、できるだけ長いあいだ、あいつをここから遠ざけるんだ。わかるな」
忠実なグレート・ピレニーズは頷くように頭を低くし、ザンザスの頬をべろりと舐めた。
「いい子だ」
ふわふわの体毛に顔をうずめてひとしきりロッコを撫でてから、ザンザスはロッコの首からリードを外してやった。
頭をあげ、数台向こうの車の様子をうかがう。
九代目の雨の守護者ブラバンダー・シュニッテンが車のバックドアから車内に荷物を運びこんでいる。もともと九代目たちといっしょに日本へ行く予定だったが、何か理由があって後から追いかけることになったらしい。つまり、あいつについていけばもしかするとオレも日本へ行けるかもしれないってことだ。ザンザスはにやりとした。
幸い、パスポートは私室の引き出しに仕舞いこんであった。私室から勉強部屋へと続く扉の前を通りすぎるとき、オッタビオの嬉しそうな声がして心臓があやうく破裂しかけたが、主人に忠実な家庭教師は算数をマスターしたザンザスにどうやって数学を教えるかひとりで予行演習をしていただけで、ザンザスが隣の部屋で泥まみれの服を着替えていたり、慌ててパスポートを探したりしていたことにはちっとも気がつかなかった。
(家庭教師が馬鹿でよかったと思ったのはこれが初めてだ。あとはこいつさえどうにかできれば……)
目を細めてブラバンダーを睨みつける。
彼は一時期、ザンザスの剣術の指南役を務めていた。どちらかというと口下手で、ガナッシュのような気さくな性格ではないが、自分の立場はきちんとわきまえることのできる男だ。空港で荷物を下ろしているときにいきなり当主の息子が現れても無下に追い返しはしないだろう……少なくとも、屋敷にいる誰かにザンザスを連れ戻しにくるように連絡するか、コヨーテたちに連絡をとって指示を待つくらいはするはずだ。
もし後者なら——コヨーテたちのそばには九代目がいる。息子が飛行場まで来ていると知ったら、もしかするとあの慈悲深い父親は、自分の息子がブラバンダーといっしょに日本行きの飛行機に乗るのを許してくれるかもしれない。
無謀な考えだったが、少年の冒険心がこのたくらみがうまくいくかもしれないという思いを強くさせた。きっとうまくいく。きっと。
ブラバンダーはたくさんの荷物とスーツケースを車内に運びこむと、地面に置いてあった革鞄に手を伸ばした。ザンザスはロッコの尻を叩いた。「行け!」
ロッコは車の陰から飛びだすと一直線に走っていき、ブラバンダーの背中に体当たりを食らわせた。
「うわっ」
背中からロッコにのしかかられ、ブラバンダーがつんのめった。「ロッコ、何してるんだ」
手を振り回して追い払おうとするが、白い大型犬はハッハッと息を吐きながら、後ろ足で立ちあがって何度も何度もブラバンダーに体当たりを繰り返す。
「やめろ。今はおまえと遊んでいる場合じゃない」
普段は落ちつきはらっている雨の守護者もさすがにいらいらしたらしく、強い口調になってロッコを睨みつけた。ロッコは一瞬怯えて尻尾を垂らしたが、ついに意を決したようにブラバンダーの鞄めがけて突っこんだ。
ブラバンダーが手を突きだして命令した。「待て!」
ロッコは反射的に動きを止めた。ロッコの前脚は、地面になぎ倒された革鞄にのしかかっていた。下手に動けば革の表面に傷がつく。ブラバンダーはそれを恐れているらしかった。
「待て……待て、ロッコ。そのままゆっくりと脚を上げろ。ゆっくりとだ」
ロッコはブラバンダーと革鞄を交互に見つめ……すかさず革鞄をくわえこむと、一目散に茂みに逃げこんだ。
「こら、ロッコ!」
ザンザスは開けっぱなしのバックドアから車内に乗りこみ、ロッコを追いかけて茂みをかきわけていくブラバンダーの背に向かって舌を出した。
しめしめ。こうなればあとはこっちのものだ。
荷物置きにはトランクとダンボールがつめこまれていたが、子どもひとりくらいならなんとか入りこむことができそうだ。ダンボールの上に乗り、それと椅子との隙間に無理やり身体を押しこめる。窮屈で息が止まりそうだが、この際構っていられない。
遠くでロッコがキャインキャインと吠えた。ぜいぜいと息をしながら戻ってきたブラバンダーがバックドアを閉め、傷だらけのカバンを手に運転席に乗りこんできた。ザンザスは車が動きだすのを静かに待ち続けた。
(……日本か)
飛行機に乗るのは久しぶりだ。最後に乗ったのは一年ほど前、覚えたてのポルトガル語を試すためにコヨーテとオッタビオに連れられてリスボンに行ったときだ。あのときでさえ飛行機に乗っていたのはほんの数時間だった。今度はその倍の倍、いや、それ以上だ。おそらく十時間から十二時間そこらのフライトになるだろう。
日本。
いったいそこに何があるのだろう。
父はなんのためにそこへ行くのだろう……。
やがて、目を閉じてうとうとし始めた御曹司を乗せて、ブラバンダーの運転する車はゆっくりと舗装道を滑りだした。
2
がたり、と大きく床が揺れた。
ザンザスははっと目を覚まし、あくびをしそうになって慌てて口を押さえた。ここは車の中だ。
オレはまだブラバンダーの車に乗っているんだ。
ブラバンダーが運転席を降りる。ザンザスは彼の次の行動を予測し、待ち構える——そのまま後ろに回りこんで、バックドアを開けて……
しかし、彼はそうしなかった。勢いよく扉を閉めると、ほかのものには見向きもせず、その場を去っていった。
(なんだ? どうしたんだ?)
いつまでもバックドアが開かないことに疑問を感じたザンザスはそろそろと身体を起こし、ブラバンダーが自分を捨て置いてどこかへ行ってしまったことに気がついて、床を叩いた。
「ちくしょう!」
荷物を下ろすときに飛びだして驚かせてやろうと思っていたのに。このままでは置いていかれてしまう。
慌ててダンボールの上に這いあがり、バックドアのレバーを引き下ろして外に転がりでる。ブラバンダーがどの方向へ向かったかは見当がつかなかったが、直近の日本行きの飛行機の出発時間に間にあいさえすればチャンスはある。
「よし」
胸元にしまいこんだパスポートに服の上から触れてその存在を確かめる。ザンザスは頷き、ブラバンダーの後を追いかけて走りだし……すぐにおかしなことに気がついた。
これが空港?
あたりを見回しても人がいない。いることはいるが、片手で足りる程度の人数だ。
一年前、リスボン行きの飛行機をオッタビオといっしょに待っていたときに眺めていた人の行きかうロビーの光景を思いだし、それとの違いに愕然とした。
空港というより、村だ。
石でできた家々の向こうがわに、青空にまっすぐに突き出した教会の尖塔となだらかなシルエットの山が見えた。一瞬、もしかするととっくに日本にいるのかもしれないという淡い期待が胸をよぎったが、それもすぐさま消え失せた。イタリア語で書かれた看板を発見してしまったのだ。
ザンザスはがっくりした。あの山はエトナ山だ。エトナ山があるのはシチリアだ。ここは空港なんかではなく、ただの田舎町だ!
冒険心が急激に冷めていくのを感じた。浮きたっていた気分が空気を抜かれた風船のようにしぼんでいく。ブラバンダーはいったいこんなところに何の用事があるのだろう……。そうだ、ブラバンダーは?
幸い、人が少ないおかげですぐに彼の姿を見つけられた。見慣れた藍色の髪が建物の中に消えるのを見て、ザンザスは慌てて後を追いかけた。
「ここは……」
ブラバンダーが入っていった建物の前で立ちどまり、一歩引いて見あげる。
建物は二、三階程度の高さで、石でできた壁に円形のステンドグラスがずらりと一列に並んでいる。ぱっと見では教会か何かの施設のようだが、建物内はずいぶんと騒がしいようだ。
ザンザスはおそるおそる建物の中へ足を踏み入れた。薄暗いホールの、その一番奥の扉を開けてみる。
歓声がわっと波のように広がった。ザンザスはびっくりしてその場に立ちすくんだ。人の声が皮膚の上をびりびりと伝うのを感じる。村の様子からは想像もつかないほどにぎやかで、そしてうるさい。
目の前で、ぎっしり並んだ大人たちの背中や肩が揺れている。
そこだ、やった、馬鹿野郎、口々に叫んでは手を突きだし、隣にいる人間の肩を叩いたり、頭を抱えて悩ましそうにしたり……なんなんだ、いったい?
覗きこんでみようとしたが、背伸びをしても大人たちの身長には敵わなかった。どけ、と声をかけてもまったく気づいてもらえない。ザンザスはすがるようにあたりを見回し、頭の上に吹き抜け廊下があることに気がついた。
(そうだ、あそこからなら……)
ザンザスはもう一度ホールに戻り、階段で二階へあがった。
そこからは手すりごしに一階の様子を見渡せるようになっていた。壁に設置されてある色つきの丸いガラスからうっすらと光が差しこんできているのを見るに、ここが外から見あげたあのステンドグラスのちょうど裏側にあたるようだ。
ザンザスは人のあいだを縫うようにして進み、大人たちの列の中にようやく子どもひとりぶん入れるくらいの隙間を見つけた。身体を押し入れて下を覗きこむ。足もとには意外な光景が広がっていた。
「フェンシングだ」
ピストと呼ばれる細長いコートの上で、剣を構えた選手が向かいあっている。
白いユニフォームとマスクのせいで素顔はうかがえない。種目はエペだ。
ピストは全部で三つ。そのどれでも同じように選手が向かいあい、きちんとひとりずつ審判がついている。ボディコードはなく、互いの身体にエペの先端が触れたときに自動的に点灯する明かりもない。
向かいあっていた選手の片方が跳ねるように前へ飛びだした。剣先が、遅れをとった相手のわき腹を突いた。周囲を取り囲んでいた大人たちのあいだから悲喜こもごもの叫びがあがった。手をふり回して悔しがっている者までいる。今ので決着がついたらしい。
負けた選手が、フェンシング用のマスクをがばりと脱ぎ捨てた。ザンザスはぎょっとした。マスクの中から現れたのは、自分と同い年くらいの子どもの顔だった。強く突かれたらしい腹やふくらはぎをこすりながら今にも泣きだしそうに顔をゆがめている。
そうか、これは子ども同士の試合なのか。ザンザスは同情的な気分になった。痛いよな、下手なやつに突かれると。
フェンシングなら習ったことがある。ボンゴレファミリーの暗殺部隊の頭領であり、ファミリーの剣術指南を取り仕切るテュールに嫌というほど叩きこまれたのだ。
ある年の冬、彼はとつぜん屋敷にやってくると、オッタビオの反対を無視してザンザスを敷地内の小さな練習場に連れていった。
そして室内をぼうぜんと見回しているザンザスにエペの柄を差し向けた。おそるおそる手にとり、剣先をためつすがめつするザンザスにテュールは穏やかな笑みを向けた。「私がお相手致します、ザンザス様」
「相手? おまえ相手にこれで戦えというのか?」
「はい。いずれは。しかし、あなたはまだこういったことに不慣れでいらっしゃる。エペを握られるのも今日が初めてかと存じます」
「当たり前だ。今時、剣をふり回しているマフィアなどいるものか。銃の扱い方でも習ったほうがよっぽど有意義だ」
テュールはちょっとおかしそうに口の端を持ちあげた。「それはどうでしょうか、若君」
「なんだと?」
「上流階級にとってフェンシングは当然の嗜みといっても過言ではありません。父君のような立派なボスになるためにも、剣技のひとつやふたつ身につけておいても損はありませんよ」
ザンザスはしばらくのあいだテュールの顔を睨みつけた。
「……わかった。言うとおりにすればいいんだろう?」
こうしてテュールはしばらく屋敷に滞在することになった。
稽古は想像以上にきつかった。最初の一週間はエペを持って構えるだけ。足の位置が悪いと剣先で膝やふくらはぎを突かれ、ずきずきする足をさすりながら眠る日が続いた。
構えの姿勢がだいぶましになってくると、ようやく攻撃態勢や防御態勢について教えてもらえるようになった。この頃にはザンザスも、テュールというのがどういう男なのかだんだんと理解し始めていた。
いつもにこにこしているが、隙がなく、本心が読めない。剣の実力は折り紙付きで、剣士たちのあいだでは「剣帝」と呼ばれている。剣士の称号としてはもっとも誉れ高いといってよい。剣帝、剣の帝王。つまり世界で一番強いということだ……少なくとも、剣士の中では。あの九代目でさえテュールには特別扱いをする。組織お抱えの暗殺部隊《ヴァリアー》の頭領だということを抜きにしても、九代目はテュールを気にいっているようだった。
「フェンシングには三種あります。フルーレ、サーブル、それから我々の練習しているエペです。胴体への攻撃のみが有効となるフルーレ、上半身への攻撃のみが有効となるサーブルと違い、エペの有効面は身体全体となります。つま先、指先、足の裏、全身のどこを突いてもポイントになるのです」
テュールはそう言ってエペの剣身を自分の身体にあててみせた。
「昔の決闘の名残りだな」
エペの半球型の鍔をこんこんと叩きながら、ザンザスは呟いた。
「決闘は相手を殺すことじゃなく、負かすことが目的だ。相手に血を流させればそれで勝ちとなる。だから全身を突いていいんだ」
「そのとおりです」
剣帝は嬉しそうに微笑んだ。
「そして、ほかの二種と異なり、エペには攻撃権がありません」
「こうげきけん?」
「フルーレとサーブルでは先に剣を突きだした者が攻撃権を獲得します。攻撃権とは相手を攻める権利のことです。攻撃権を持っていない者は必ず防御しなければなりません。この防御が成功すると、相手から攻撃権を奪いとることができるのです。エペにはその攻撃権という概念そのものが存在しません」
「つまり、好きなだけ相手を攻撃していいのか?」
「そうです。双方同時に突いた場合、基本的にはどちらにも得点が入ります」
ザンザスは頷き、エペを構えてみせた。
テュールも向きあって構え、剣先でザンザスのエペを軽く弾いた。
「もう少し身体を斜めに。相手の攻撃範囲を少しでも狭められます」
ザンザスは軽く足を引き、言われたとおりにした。
「そうです。その姿勢をお忘れなく。とにかく先に相手を突けばいいというと簡単に聞こえますが、エペでは心の読みあいや駆け引きが思いのほか重要になります。フルーレのような華麗さやサーブルの迫力あるやりとりはエペには望めないかもしれません。しかし、九代目はその心の読みあいこそを重要視され、あなたにエペを指導するよう私にお言いつけになりました」
ザンザスは胸の奥が熱くなるのを感じた。九代目が、父がそのようなことを?
「……父さんはオレを疎んでいるのかと思った」
「疎んでいる?」
テュールが眉をひそめた。「なぜです」
「なかなか会えないし、いっしょに食事をとる機会も少ない。母さんと話をする時間さえ減っている」
ザンザスはうつむいた。
「父さんはドン・ボンゴレ、偉大なボンゴレファミリーの九代目だ。誰もその代わりを務めることはできない。忙しいのはもちろんわかっている……。だけど」
テュールは何も言わなかった。
言葉の代わりに、剣の切っ先で巻きつくようにしてザンザスのエペを回転させた。ザンザスの手からグリップが引き抜かれ、エペは音を立てて床に落ちた。
「一ヶ月ほどすれば次の段階に進まなければなりません、ザンザス様」
「次の段階?」
「私はあなたにプロのフェンシング選手になってほしいためにここにいるわけではありません」
テュールはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「プロの選手はどうすれば勝てるかを考えます。しかし、我々の場合はどうすれば生き残れるかを考えなければなりません。プロの選手が殺しのために剣を振るうことは絶対にありませんが、我々は殺しのために振るわねばならないのです」
ザンザスのエペを拾いあげ、その握りをザンザスに差しだす。
「稽古のあいだはきちんとルールを定めますが、実際に命のやりとりを行う場ではルールなど何の意味もございません。戦場では常に生き残った者が勝者となります。殺すための——生きるための剣を身につけねばなりません。しかし」
剣帝はやわらかな視線をザンザスに向けた。
「今はあくまでもフェンシングのレッスンの時間です。思う存分に身体を動かしてください。気も少しはまぎれましょう」
ザンザスはエペを受けとり、しばらくうつむいてから、ゆっくりと構え直した。
確かに、こうやって何かに没頭しているあいだは余計な苛立ちや怒りを忘れていられるような気がする。悲しみも……父のいない寂しささえも。
「分かった。続けてくれ、テュール」
幾分か力強くなったザンザスの声に、剣帝はにやりとして頷いた。
「後でフルーレとサーブルも少しお教えしましょう。エペとはルールが違うので頭の切り替えが必要ですが、あなたならお出来になるはずです」
その一ヶ月後、テュールの言っていた「次の段階」が始まった。
稽古は以前と比べものにならないほどきつかった。試合じみたことをさせてもらえるようになったときは心の底から喜んだが、いざテュールと向かいあうと、その思いはもろくも吹き飛んだ。
剣帝の剣技には容赦がなかった。手抜きはもちろん、手加減も一切なかった。もしかするとこいつは本気でオレを殺そうとしているのかもしれない、と思うことすらあった。ある日、痛みのあまりとうとうザンザスが泣きだしてしまうとテュールは真顔でこう言った。
「組織の跡取りたるもの、人前で涙を流してはなりません。敵に隙を見せているのと同じです」
その言葉に気圧されつつ、ザンザスが目をこすって涙をこらえると、テュールはようやく穏やかな笑みを浮かべた。
「それでよろしい」
またあるときにはこう言った。
「ご自分が何者であるか、ということを常に心にお留めください。これまでがどうあれ、あなたは九代目の御子息であり、ファミリーの跡継ぎにほかなりません。しかし、それを疑い、隙あらばあなたを罠にかけようとしている者がいるのもまた事実。敵は常にあなたを狙っているのです。身を守るすべを身につけねばなりません」
「だが、そいつらが疑ってみたところで事実を変えることはできない」
ザンザスは答えた。「オレは九代目の息子だ。誰がなんと言おうと」
頭の中には何人もの大人たちの顔が思い浮かんでいた。エンリコ、マッシーモ、フェデリコら、ザンザスの従兄弟である三人の後継者候補たち……それに組織の古株の重鎮どもの顔も。
彼らが自分を快く思っていないことはザンザスにもうすうす分かっていた。特に後継者候補の三人は目に見えて分かるくらいに自分を敵視している。九代目の手前、手ひどく扱われることはなかったが、彼らがすれ違いざまに見せる視線や表情は、明らかに嫌悪と侮蔑の色を含んでいた。
彼らは恐れているのだ——母親と共にスラムからやってきたというザンザスの出自によって、組織の歴史や伝統が汚されるのを。後継者候補として築きあげてきた自分たちの地位や名誉が脅かされるのを。
エンリコたちはオレを疎んでいる……九代目実子であるこのオレを。
やつらが築きあげてきた地位、名誉、財産ですら、九代目「実子」の前ではあまりに無力。張りぼて同然だ。それをわかっているからこそ、エンリコたちはオレと母さんを——そして、オレたちをスラムから脱出させてここへ連れてきた九代目を、心の底では快く思っていないのだ。
「あんなやつら、放っておけばいい。好きにさせておけばいいんだ」
ザンザスは吐き捨てるようにそう口にした。「やつらが足掻いてみせたところで何も変わりはしない。嘘が真実にならないように、真実を嘘にすることはできない。そうだろう?」
「残念ながら、そうではないのです。ザンザス様」
テュールは少し悲しそうな顔をした。
「事実を偽ることなどいくらでもできます。真実を嘘にすることも、嘘をいかにも本物らしく見せかけることも可能です。たとえ本当のことであっても、誰にも信じてもらえなければ嘘と同じことになります。手段によっては、あなたを後継者候補の座から引きずり降ろすことも可能です」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
地団駄を踏むようにザンザスは言った。テュールは自分を困らせたくてこんなことを言っているのだと思った。
「オレは父さんの息子だ。オレの持つ死ぬ気の炎がなによりの証拠だ。それ以外にいったい何が必要だというんだ」
「なによりも高潔であることかと存じます」
静かにテュールは答えた。
「嘘や偽り、とるに足らない詭弁に惑わされたり、それによって傷ついたりする必要はございませんが、己の身を守るため、あなたは獅子のごとく、誇り高く、気高くあらねばなりません。誇りという、なにより堅固な鎧で己を守るのです」
「誇りなら、この胸に流れている!」
ザンザスはきっぱりと言った。「ブラッド・オブ・ボンゴレだ」
「それも誇りの一種には違いありません」
若い跡継ぎにテュールは優しく微笑みかけた。
「しかし、気高さとは、生まれた国や身分、年齢、出自を問わず、誰もが持ちうるものです。たとえ姿かたちが変わろうと、あなたがそうあろうとする限り、その魂の輝きは不滅となります。気高さはあなたの血筋にではなく、そのお心に宿っているのです」
その場にひざまずくと、剣帝は少年の手を押しいただき、その甲に静かに唇を押しあてた。
「あなたは血と組織の掟に則って選ばれた正統後継者のひとり。ですが、私がこうしてここにいるのは、あなたが九代目の御子息だったからでも、次期後継者候補のひとりだったからでもありません。あなたのその心、魂の高貴さに惹かれたからです。どうか、そのことをお含みおきください」
「……やめろ」
ザンザスは低く呟いた。「そのうっとうしい喋り方をやめろ」
テュールが顔をあげて目を丸くした。ザンザスは視線をそらしながら言った。「オッタビオがふたりいるようで、不愉快だ」
そのようにして日々は過ぎていき、とうとうテュールが自分の領地に戻るときがきた。
短い期間に驚くほど腕を上げたザンザスに、テュールは満足げだった。最後の日、ふたりは揃って屋敷の裏にある山に登り、木々の密集する場所でルールなしに剣を交わらせた。
それは規則に則ったスポーツとしてのフェンシングでも、騎士たちの名誉をかけた決闘としてのフェンシングでもなく、もっと単純な剣と剣のぶつかりあいだった。ザンザスはそのときになってようやく真剣を持たせてもらえた。剣は重く、刃は本物の切れ味を持っていた。辛かった稽古も今日でおしまいなのだ。そう考えると、ザンザスは自分でもびっくりするほど寂しい気持ちになった。
「それはなんだ?」
稽古の合間、木陰で休んでいたザンザスは隣に座りこんだテュールの腰に見慣れない剣が差してあるのに気がついた。さっきまで彼が使っていた剣とは別物だ。
テュールは慈しむようにその剣の柄を撫でた。「気になるかい?」
「ああ。触ってもいいか?」
テュールは頷き、鞘ごと剣を差しだした。ずっりしとした重みがザンザスの手のひらに乗せられた。金色の鞘に、ため息が出そうなほど細かい文様が彫りこまれている。その中に有翼の獅子の姿を見つけ、ザンザスの胸は踊った。獅子はお気にいりの動物のひとつだった。
「この剣、オレにくれ」
「今のおまえには使いこなせないよ」
「どうして」
ザンザスはふくれた。そして苛立った。どうしてこいつはオレの言うことをきかないんだろう。この屋敷に来て以来、望めばなんでもすぐに手に入れることのできたザンザスにとって、思いどおりにならないことは予想外であったと同時に腹立たしいことでもあった。
「この剣は使い手を選ぶ」
ザンザスの怒りを見透かしたように、テュールは穏やかな声で言った。「真の持ち主以外に触れられることをひどく嫌う。魂をこめられた、気位の高い剣なんだよ」
「魂? 使い手を選ぶ? それじゃあまるでその剣が生きているみたいじゃないか」
ザンザスは鼻で笑った。「おまえがその剣の使い手とやらなのか?」
「そうじゃない」
そう答えたときのテュールの顔は少し寂しげだった。
「残念ながら、剣はオレを主人だと認めてくれなかった。オレをただの運び屋程度にしか思っちゃいないんだ。その証拠に剣を鞘から抜き払うことすらできない。おまえも試してみるといい」
ザンザスは言われたとおりにした。剣はびくりともしなかった。
「どうやったら抜けるんだ、この剣」
「さあ。自分が主として相応しいんだというところを見せつけてあげたら、できるかもしれないな」
ザンザスは悩み、今度は目を閉じて念じながら試してみた。——オレがおまえのご主人様だ、おまえの……。
剣は相変わらずぴくりともしなかった。
「この剣、壊れてる」
むっすりした顔で剣を突き返したザンザスに、テュールはおかしそうに目を細めた。
「言っただろう、使い手を選ぶと」
「違う。壊れてるんだ。直せ。今すぐに」
むきになって言い返すザンザスの頭に、テュールはそっと手を置いた。
「そうふくれっつらをするな、ザンザス。これは壊れてなどいないよ。魂を持った剣というのは、いずれあるべきところに帰るようにできているんだ。オレはただその手伝いをしているだけで、それ以外のことは何もさせてもらえないんだよ」
「うるさい!」
ザンザスはテュールの手をふりはらい、立ちあがって彼を睨みつけた。
「オレを騙そうとしているんだろう、テュール。剣をオレに譲りたくないから」
「そういうわけじゃない。ただ、今のおまえにこの剣をやることはできないと言っているだけだ」
「同じことだ!」
ザンザスはわめいた。テュールは子どもだましの嘘で自分を欺こうとしているのだと思い、そのことに更に腹を立てた。
「その剣をオレによこせ、テュール」
「いい加減にしろ。わがままが過ぎるぞ」
テュールは眉を寄せて不快そうにした。「この剣は使い手を選ぶ。そしていま使い手として認められていない以上、おまえにこの剣をやることはできない」
「じゃあ、もし真剣での勝負でおまえに勝ったら、オレにそいつを譲ってくれるか?」
ザンザスはにやりとした。自分の剣技は師の想像以上に上達している。もしかすると、剣帝と呼ばれるこの師を超えられるほどに——。
「……わかった。そうしよう」
そう言ってテュールは立ちあがり、自分の左手に手をかけた。ザンザスはぎょっとした。
「……おまえ」
「利き腕は左なんだよ」
左手が外れてごとりと地面に落ちた。義手だった。
テュールの左腕は手首から先がなかった。
その手首に、剣の刃の部分だけが取りつけられている。隻腕の男は右手に携えていた剣を腰に戻し、ゆっくりとザンザスに向き直った。
ザンザスは、もしかすると師を超えられたかもしれないという自分の考えが単なる思いあがりだったことにようやく気がついた。
(……結局、あの剣は譲ってもらえなかった)
ため息をついてザンザスは階下のピストを眺めた。あのとき、オレはテュールに傷ひとつつけることすらできなかった。
負けるということの意味をザンザスは初めて知った。身体中にできた傷の痛みのためではなく、悔しさのためにむせび泣きを続けるザンザスを背にかばいながら、二度と来るなと言わんばかりの辛辣な表情を向けるオッタビオに、テュールは「いつかおまえをこちらへ引き抜いてやろう」とげらげら笑いながら自分の領地に帰っていった。
あれからフェンシングの練習はほとんどしていない。それ以外のこと——たとえば勉強や作法、今までまったく知らなかった上流階級として必要なことを学ぶのに大抵の時間は費やされていき、エペに触れられる時間はおのずと減っていった。
なにより、ザンザスのフェンシングの腕はとうに周囲の人間を上回っていたのだ。オッタビオは勉強は得意でも運動の方はさっぱりだったのでまともな練習相手にならなかったし、その他大勢は九代目子息に怪我をさせるのを恐れて相手をするのを嫌がった。
時々は、テュールの弟子であるブラバンダー・シュニッテンに相手をしてもらえることもあったし、その腕前自体には満足できたが、九代目の雨の守護者である彼を何時間も練習に付きあわせるわけにはいかなかった。結局、練習はほとんどいつもひとりきりだった。
勉強しているとき、思いだしたようにペンをエペに見たてて握り、防御態勢をとって……相手がそこに立っていると思って……ひとりきりでそんなことをしている自分がだんだんみじめに思えてきて、ザンザスはそのうちエペを握ることすらしなくなってしまったのだった。
(こうなることがわかっていて、テュールはオレに剣を譲ってくれなかったのかもしれない)
ザンザスは剣士ではない。嗜みとして剣を握っているだけで、それに自分の名誉や誇りを賭けるつもりはない。だが、テュールは剣帝だ。剣に自分の全てを賭けようとしている生まれついての剣士だ。その彼が、剣士でもなんでもないザンザスに己の大切な剣を譲りたいと思うだろうか?
……思わないだろうな。ザンザスはうつむいた。
どのみち、自分にはもう関係のないことだ。エペさえ手にとらなくなった自分には。テュールはそれを見越してあのときオレが剣を抜けないように小細工をしたんだろう。
そうでもなければ、あの剣は本当に「生きている」ことになってしまう。
剣が使い手を選ぶなんて、そんな馬鹿なことがあるものか。
「ブラバンダー! ほら、ここだ、ここ」
ザンザスは反射的に頭をあげ、ぎょっとして飛びあがった。
テュール!
心臓が火を噴きそうに熱くなった。ザンザスはとっさに頭をひっこめた。
どうしてあいつがここに?
こうして姿を見るのはあの別れの日以来になる。姿かたちはほとんど変わっていない……違うところといえば、今日はヴァリアーの隊服ではなく普段着だというところくらいだ。
「遅れてすみません」
驚くほどそばでブラバンダーの声がした。ザンザスはおそるおそる顔をあげ、ブラバンダーがかなり近い位置に立っていたことに気がついた。しかし、どうやらやつらはまだこのオレに気づいていないようだ……幸運なことに。
ブラバンダーはザンザスには見向きもせず急ぎ足にテュールのそばへ寄っていき、師に向かって一礼した。
「お久しぶりです。それで、その天才というのは……」
「あの子だ。見てくれ」
階下を指さす。
「かなりの才能の持ち主だと思う。大会に出てくるようになったのはつい最近なんだが、あれでまだ七歳だというんだから驚きだよ」
「あなたが目をかけるくらいだからきっと相当の腕前なんでしょう。名前は?」
「スペルビ・スクアーロ」
「鮫?」ブラバンダーがぼそりと呟いた。「変わった名前ですね」
ザンザスは声援や野次をあげる大人たちの足もとに隠れてふたりに近づき、もう一度下を覗きこんだ。選手たちは皆マスクとフェンシングスーツを身につけているため、同じような外見でぱっと見では区別がつかなかったが、その中にひとりだけ他と違う動きをしている選手がいるのにすぐに気がついた。
——あれがテュールの言う天才……?
背丈はザンザスと同じか、ザンザスより少し低いくらいだろうか。ほかの子どもたちがまだどこかぎこちなさの残る足取りでぎくしゃくしているのに対し、その子どもの手足はまるでエペと一体化したようにしなやかに動く。
いや、動くというより流れるといった方が正しいかもしれない。水中を泳ぐ魚のような滑らかな動作。それこそ、獲物に向かって突進する鮫のような——。腕を突きだす動きひとつとってさえ目を見張るものがある。
それに比べれば他の子どもたちの試合などお遊戯も同然だった。本物の兵隊とおもちゃの兵隊が向かいあって戦をしているようなものだ。鮫と呼ばれた子どもは相手の攻撃を難なく避けると、目にもとまらぬ早さで相手の横腹を突いた。会場がどっと沸きあがった。
「見れば見るほど見事な動きだ」
テュールが感嘆したように息をついた。
「フェンシングだけを学ばせておくのがもったいないくらいだな。オレなら三年で一人前の——いや、イタリアで一番の剣士に育ててやれるというのに。できることなら一度お手合わせを願いたいものだ」
「……久しぶりだ」
「ん?」
「本当に久しぶりだ。あなたがそんなにも楽しそうにしているのを見るのは」
ブラバンダーが微笑んだ。
「今は平和な時代だ。暗殺部隊であるヴァリアーの出番もめっきり少なくなっている。屋敷にひっこんで、ぬくぬくと剣をふるうだけでは物足りないでしょう」
「やめてくれよ、ブラバンダー。人を殺人狂みたいに言うのは。オレはただ……」
テュールはそこで少し言いよどみ、軽く頭をふった。
「命を賭けて戦うに相応しい相手を探している。それだけだよ」
「すみません、オレがもっと強かったら、あなたを退屈させずに済んだのに」
「おまえはよくやっているさ」
テュールは励ますように弟子の肩を叩いた。「オレが教えた中では一番といっていいくらいの剣の腕前だ。もっと自信を持て。せっかく九代目の守護者になれたのに、いつまでもそんなんじゃほかのやつらに舐めてかかられるぞ。おまえもそろそろ弟子をとるべきだな……責任感もつくし、自分の実力も上がる」
そこで企みごとを思いついた子どものようににやりとし、ブラバンダーの耳にこそこそ囁いた。
「この先、あのスクアーロという子どもがフェンシングというスポーツだけで満足できなくなれば、いずれ剣を極めるためにオレたちと同じ世界にやってくる。そのときにはおまえがあの子に剣の稽古をつけてあげなさい。あいつをおまえの弟子にするんだよ。そうすればおまえの腕も上がるし、あの子も強くなる。ザンザスの護衛につけてやるのもいいかもしれない。どうだ、悪くない話だろう——」
……あいつら、何をしゃべっているんだ?
ザンザスはつまらなくなって頬をふくらませた。ふたりともなんだか楽しそうだ。周囲の大人たちが騒いだり叫んだりしているせいで、ふたりの会話もところどころしか聞き取れない。
(あの、鯨とか鮫とかいう名の子どもがいるからか?)
手すりを掴んで、もういちど階下を覗きこんでみる。あいつとオレとでいったい何が違うっていうんだ。見たところ背丈も変わらないし、フェンシングの実力だって……そんなに変わらないじゃないか。
それとも、剣帝様は、まさかこんな子どもをあの金色の獅子の剣の使い手だとでも言うつもりなのか? このオレを差し置いて?
それこそ大馬鹿ってやつだ! ザンザスはあざ笑うような笑みを浮かべた。どうせ、ちょっと才能があるだけのただの子どもだ。剣帝じきじきに鍛えられたこのオレに勝てるものか。
——ザンザスは英語、スペイン語、中国語、ロシア語、ほかにもたくさんの言葉を覚え、同じ年頃の子どもたちが学校で学んでいるような内容はとっくにマスターしていたが、幸か不幸か、謙虚である、ということの意味を学んだことがなかった。
「しかし……オレにはまだ弟子など……早すぎます。今は自分のことだけでせいいっぱいで」
「だから、いずれの話だよ。なんなら、あの子どもに直接話をつけてこようか、オレの弟子のそのまた弟子にならないかって……」
にやにやしながらブラバンダーと話をしていたテュールが、はっとして階下を見た。
「試合が終わったようだぞ。あの子の勝ちだ!」
鮫と呼ばれた子どもは疲れひとつない足取りで休憩用のエリアまで歩いていくと、ぶっきらぼうな手つきでマスクに手をかけた。
ブラバンダーがあっと声をあげた。ザンザスも息を飲み、一瞬、マスクを脱いであらわになった少年の顔にくぎづけになった。
短く切られた髪も、顔も、手をかざせば透きとおってしまいそうなほどに白い。まじりけのない白い髪が汗でぴたりと額にはりつき、あごの細い痩せた顔に、切れ長の眼とつんととがった鼻、青白い唇がおさまっている。
ぱっと見では少女のような印象もあったかもしれない。線の細い、まだ男女差のない身体つきが余計にその感じを強くさせた。
「……驚いた」
ブラバンダーが呟いた。「顔も、髪も……全て真っ白だ。このあたりではずいぶん珍しがられるだろうに」
ザンザスも少年から目を離せずにいた。
あの白い顔、白い髪を、どこかで見たことがあるような気がした。だが、それがいつどこでのことだったのか、どうしても思いだせない。屋敷を訪れる客人たちの中にいたわけでも、夜毎繰った書物の頁の中にいたわけでもない。
それでもザンザスは彼を知っていた。そう、オレは知っている。覚えている。ザンザスの中にいる何かが、そう訴えていた。
ザンザスはぶるりと身震いした。ちくしょう。なんなんだ、いったい。
オレはあんなやつ知らない。見たことも、聞いたこともない。知りたいとも思わない。
「——あの子を……」
テュールの声に気がつき、ザンザスは少年から無理やり視線を引き剥がした。
テュールがブラバンダーに何事か囁きかけている。
「ヴァリアーに……剣を……あの子に……」
ザンザスは驚き、全神経をそちらへ集中させた。しかし、会話はそれで終わりとしたようで、テュールはブラバンダーと目を合わせてにやりと笑うと、口を閉ざしてピストに視線を下ろしてしまった。その眼はしっかりとあの白い髪の子どもを見据えている。
(剣を? ……あの子に、だと?)
まさかテュールは、剣帝は、本当にあの剣をこの白い髪の子どもにやってしまうつもりなのか?
——させるものか。
奥歯がぎしっと音を立てた。怒りがふつふつとこみあげてきて胃の底を熱くさせた。
あんな子どもに、どこの誰かもわからないような馬の骨なんかに、あの獅子の剣を渡してなるものか。オレが手にできなかったものを、あんな子どもなんかに!
ザンザスは少年の白い顔をじろりと睨みつけ、その場を離れた。階段を駆けおり、ホールを走りぬけ、選手の控え室に続くと思しき廊下で立ちどまる。
ちょうど、フェンシングスーツに身を包んだ少年が母親らしき女性に背中を叩かれ、めそめそ泣きながらこっちへ向かってくるところだった。脇には顔全体をすっぽり覆うマスクを抱えている。
「どこへ行くんだ?」
「え?」
少年は顔をあげ、突然話しかけてきたザンザスにぎょっとしたように目を見開いた。
「……トイレ」
「ふうん」
ザンザスは少年の肩を抱き、いっしょに歩きだした。横目に相手の様子をうかがう。背は……同じくらい。声の高さもそんなに変わらない。肌の色も。髪も同じ黒色だ。よし。
「おまえ、名前は?」
「エリオ。君は?」
「ザンザス」
「変な名前」
「……おまえこそ」
ザンザスは少年を蹴りつけたくなったが、そう言うだけに留めておいた。
「きみは試合を観にきたの?」
エリオは涙をぬぐって顔をあげた。「ぼく、次の試合に出なきゃいけないんだ。まだフェンシングを始めたばかりで……相手が反則をしたせいで勝っちゃって。まぐれってやつだよ。勝ちたくなんてなかったんだ。痛いのはきらいだから」
「へえ」
ザンザスはぐいとエリオに顔を近づけた。
「だったら、オレと代わらないか」
「代わる?」
「おまえの着ているフェンシングのユニフォームとエペをこちらへ寄越してくれれば、オレがおまえの代わりに大会に出てやる」
「ほんとうに?」
驚きで見開かれた目がきらきらと光った。
「ほんとうに試合に出てくれるの? ぼくの代わりに?」
「ああ。ばれないようにやるし、きちんと勝ってみせる。おまえは時間が来るまでどこかに隠れていればいい。もしもオレが優勝したらトロフィーはおまえのものになるし、おまえの母さんだって喜ぶ。どうだ、悪くない話だろ?」
「うん……」
エリオはためらいがちに頷いた。だが、すぐに、ああ、やっぱりだめだ、と首をふった。
「ばれたらたいへんなことになる。お母さんに怒られてしまうよ」
「分かんないやつだな。ばれないようにやると言っているだろう」
ザンザスはポケットの中から紙幣を何枚か取り出してエリオに握らせた。
「これをやるからオレと代われ、いいな」
しかし、これは逆効果だった。エリオは手のひらからこぼれんばかりの紙幣とザンザスの顔を交互に見つめて目を丸くしている。
ええい、まどろっこしい! ザンザスはとっさにトイレの引き戸を開けてエリオを中に押しこみ、叫び声をあげそうになったエリオの口元に容赦なく掴みかかった。
「いいか。今からオレの言うとおりにしろ。痛い目に遭いたくなければな」
エリオは目を見開いてザンザスを凝視してから、小さく頷いた。
「よし」
ザンザスはゆっくりと手を離した。「まずは、おまえの着ているそのユニフォームをよこせ」
エリオは言われるままにグローブを外し、フェンシングスーツとプロテクターを脱いでザンザスに渡した。ザンザスは自分の着ていた服と交換する形でエリオのユニフォームに袖を通した。他人の汗が染みついている服をまとうのだと考えると気が遠くなりそうだったが、それ以上は構っていられなかった。
「試合まであと十分しかない」
エリオが早口に叫んだ。「エペのルールは知ってるの?」
「当たり前だ」
ユニフォームをしっかりと着込みながら、ザンザスはエリオの顔をじろりと見つめた。エリオは緊張した面持ちで口をつぐみ、その視線に晒されるがままになった。しばらくしてザンザスがナイフを取りだすと、エリオの顔がひきつった。「それでどうするの」
「まあ見ていろ」
ザンザスは自分の伸びかけの髪をひっぱって、そこにナイフの刃をあてた。
「あ……」
思わず口を押さえたエリオの前で、黒い髪の一束がはらりと落ちた。
ザンザスは無言で手を動かし続けた。まるで野菜でも切るような調子で、ざくざくと髪を削ぎ落していく。しばらくすると、そこにはエリオとほとんど同じ髪の長さになったザンザスがいた。最後の仕上げに、水をつけた手でさっと髪を撫でつける。
驚きを隠せないでいるエリオにザンザスはゆっくりと向き直った。
向かいあうふたりは、ぱっと見では鏡像のようだ。顔はさほど似ていないが、少なくとも、体格と髪の色、髪型はほとんど同じだ。
「きみは……きれいな目をしている」
エリオが呟いた。「ルビーをはめこんだみたいだ。ほかのところをぼくに似せても、その赤色だけはどうやってもごまかせないね」
「試合中はマスクをつけているから、目の色なんて、うつむいたり、目を閉じたりしていればなんとかなるだろう」
エリオの純粋そうな目に見つめられると、なんだか気が落ちつかなかった。ザンザスはもう一度髪を撫でつけ、マスクを被った。そして自分に言い聞かせた。今のオレはボンゴレファミリーのザンザスではなく、ただのエリオなんだ、と。
替え玉で試合に出たことがばれて失格になるのが一番たちが悪い。エリオやエリオの母親は落ちこむだろうし、勝手に家を抜けだしてきたあげく勝利どころか反則負けという無様な結果を残す羽目になったザンザスを、テュールは決して許してはくれないだろう。
「万が一、選手が入れ替わっていることがばれたら、オレに脅されたとでも言っておけ。ナイフを突きつけられて、ほかにどうしようもなかったんだって。オレは逃げるからな。オレの名前は出すなよ」
「ザンザス」
エリオが、こわばったザンザスの肩をそっと叩いた。
「がんばって。応援してる。君がどうしてぼくを助けるようなことをしてくれるかはわからないけれど、ぼくたち、いい友だちになれそうだ」
「……エリオ」
「ぼくはしばらくのあいだここに隠れているよ。きっと、母さんがすぐそこで待ち構えているだろうから」
エリオの言ったとおりだった。エリオの母はトイレを出てすぐのところで腕を組んで仁王立ちになっていた。
「遅いよ!」
そう怒鳴りつけると、エリオのふりをしたザンザスにしっかりとエペを握らせ、息子の拳に手を置いた。
「これに勝てば三回戦に上がれるんだからね。初めての大会でたいしたもんだよ、さあ、これをちゃんと持って」
ザンザスは黙ってされるがままになった。マスクのおかげでまだばれていない。このままうまくいくといいんだが。
「それにしたって、お母さんはまだ信じられないよ。あんたがまさかこんな大会に出られるなんてねぇ。馬鹿高い金を払ってフェンシングを習わせた甲斐があるってもんだ……ほら、もっとしゃきっと立って」
ザンザスの背中をばしっと叩き、エリオの母親はふーっと息を吐いた。
「お母さんは仕事にかまけてあんたの練習に付きあうこともできなかったけど、その代わり、今日はきちんと最後まで見ていてあげるからね。お家までいっしょに帰れるんだよ」
ザンザスは顔をあげた。マスクの向こうがわで、何も知らない女性が嬉しそうに頷いていた。
くすんだ色の髪がもつれ、頬に張りついている。ザンザスは母の疲れきった顔を思いだした。自然に手が伸び、女性の頬に触れた。髪を払いのけてやると、女性は意外そうに目を細めた。「エリオ」
母さん、とザンザスは思わず呟いた。
それからはっとして口ごもった。声が小さかったのが幸いし、女性の耳には届いていなかったようだ。
女性はにこっとした。
「エリオ、あんたはちょっと身体がちっちゃいけど、度胸だけは誰にも負けないはずなんだからね。なんたって、あたしとあの人の子だ。さあ、行くよ!」
太い手に肩を掴まれ、試合会場まで押し戻される。
観客たちがわあわあと歓声をあげるのを聞いてエリオの母は満足げに頷き、ザンザスの肩を叩いた。「お母さんはほかのお客さんたちといっしょに見てるからね。行ってきな!」
ザンザスはふり返り、無言で女性の顔を見つめた。——母さんの顔……息子に期待する母親の顔だ。
大丈夫。オレは負けない。
ボンゴレファミリーの後継者として、父さんと母さんの息子として、あの白い髪の子どもを倒す。そしてテュールに、あいつなんかよりオレの方がずっと優れているということを証明するんだ。あの金色の獅子の剣の持ち主にふさわしいのは、あいつじゃなくオレなんだって。
ザンザスはエペを握りしめ、ゆっくりとした足取りでピストまで歩いていった。
第二幕 白い剣士
1
ピストで待ち構えていたのは、険しい顔つきをした審判と、子どもにしてはかなり恰幅のいい選手だった。
「こいつ、相手の反則負けで勝ちあがってきたやつだ」
遅れてやってきたザンザスの姿を見るなり、相手の選手はにやにやと嫌な感じのする笑みを浮かべた。
「静かに。……君、マスクをとりなさい」
審判が厳しい顔つきをした。言われたとおり、ザンザスはマスクをとった。
審判はちょっと眉を寄せ、ザンザスの顔をじろりと眺めた。怪しんでいるようではあったが、それ以上の追求はなかった。ザンザスはほっとした。あまり長いあいだ素顔を晒していると、いくら距離があるとはいえ、テュールやブラバンダーに気づかれる可能性があるし、不用意にあの母親のほうに素顔を向けたりしたらあっというまにばれるに決まってる。髪型までエリオに似せて大胆に変えてやったんだから、ぱっと見ではオレとは思わないはずだが……。
とはいえ、テュールとブラバンダーはあまりこちらには注目していないはずだ。なにせエリオはこの相手選手の言うとおり、実力ではなく相手の反則負けで勝ちあがってきただけだからな。
なんにしたって、目立つことはできない。なるべく少ない動きで、相手の隙をついて……。
ザンザスが考えごとをしているあいだにも検査は進み、服装とエペのチェックが終わると審判は急に厳かな表情になった。
「気をつけ、礼。……構え!」
ザンザスは素早くマスクをつけ、エペの切っ先を相手に差し向けた。向かいあう相手選手も同じようにエペの先端でザンザスに狙いを定めた。
審判が選手たちに目配せをした。
「準備は?」
「ああ」
「よし」
審判は頷き、叫んだ。「始め!」
ザンザスはエペを構えたまま、まずは様子見と決めこんだ。相手は牽制するように身体を軽く上下させながらじりじりとこちらへにじり寄ってくる。痩せているザンザスと体格のいい相手がこうして向かいあっていると、まるで逃げる子どもとその子を食わんとする怪獣のようだ。
見た目にはやや押され気味になるザンザスに、群衆の中から甲高い声が飛んだ。
「負けるんじゃないよ、エリオ! そんなやつ、ぶっ飛ばしてしまえ!」
エリオの母親だった。会場の一端から笑いが起こった。不用意に目立つ真似はしてほしくないのに、あの女。前を向きながら、ザンザスはひやひやする思いを味わった。
その時だった。
相手選手が動いた。前に大きく踏みこみ、素早い動きで腕を突きだしてくる。そのエペの先端が自分の右腕に触れる直前、ザンザスは相手の剣を弾き、その体勢から、相手のがら空きになっていた肩をひと突きした。
会場が一瞬静まりかえり、どっと沸きあがった。
「ああ、神さま!」
エリオの母親が指を組みあわせて叫んだ。
「あの子ったら、いつのまにかあんなに強くなって! 見て、あの子、あたしの子よ! エリオよ!」
ザンザスはにやりとした。フェンシングは嫌いじゃない。気分が高揚するし、ちょうどいい退屈しのぎにもなりそうだ。
ほかのピストで試合をしていた子どもたちが好奇心に負けてちらちらとこちらの様子を伺っている。ぽかんとしていた審判が気を取り直して叫んだ。「構え!」
ザンザスは再びエペを構えた。相手選手が動揺しているのが手にとるように分かる。マスクの向こう側にあるその顔が悔しさにゆがみ、赤らむところを想像して、ザンザスはますます笑みを深くした。
「そういえばおまえ、九代目たちと日本に行くという話はどうなったんだ」
テュールは階下の選手たちを眺めている弟子に声をかけた。
「ここへ来る途中に九代目の許可をいただきました」ブラバンダーは静かに答えた。「もう日本へ行く必要はありません」
「なんだって?」
「九代目は快諾してくださいました。おまえがそんなにも楽しそうにしているのは珍しいから、と。面白いものが見られる、天才がいるぞ、そう言ってオレをここに呼びつけたのはあなたでしょう、テュール」
「それはそうだが」
テュールは指先で頬をかいた。
「ということは、日本へは九代目とコヨーテ、ビスコンティの三人で行ったんだな。残りは留守番というわけか。ザンザスは親父殿についていきたがっただろう?」
「ええ。きっと追いかけていきたかっただろうと思います」
ブラバンダーが穏やかな顔つきになった。「ですが、いくら旧知の間柄といえ家光はあくまで門外顧問。緊急時でもないかぎりその訪問はあくまで極秘裏でなければなりません。ザンザス様にはこれから一週間ほどオッタビオといっしょに勉強部屋にこもりきりになってもらう予定です。守護者以外には九代目の外出先はごまかしています。間違ってもザンザス様が九代目を追いかけて日本へ行くなんてことがないように」
「ま、それが正解だろう。九代目が門外顧問を訪ねるなんて知ったら、古株の爺様方も黙っちゃいない。しかも、その目的が門外顧問の子息の様子を見にいくことで、後々には彼を後継者候補に加えるつもりなのだと知ったら……爺様方はもちろん、ザンザスもきっと怒るだろうからな」
テュールは深いため息をついた。
「組織をよりよいものにしていきたいという九代目のお考えはわかるが、今回の日本行きには賛成できない。ザンザスが後継者候補に加わったことによって、今まで爺様方に推されていたエンリコやマッシーモ、フェデリコがただえでさえ浮き足立っているというのに、そこに更に別の後継者候補という爆弾を投げこむなんて。九代目はいったいどうなさるおつもりなんだ?」
「九代目にもお考えがあるはずです」
ブラバンダーがしっかりした声で答えた。「あの人は、やみくもにことを荒らげるような方じゃない」
「そうだといいんだがね」
テュールは腰に下げていた金色の剣の鞘に触れた。——まるで、そこにいる何かを落ち着かせるかのような手つきで、翼ある獅子の文様をそっと撫でる。
「……九代目の意志がどうあろうと、オレはあの子を、ザンザスを次のボスに推すつもりだ」
「テュール?」
唐突な発言に、ブラバンダーは困惑して師の顔を見つめた。
「おまえや九代目がどう思うかはわからないけれど、オレはそうすることが正しいと信じているし、そのためにできることをする。それが今のオレにできる、あの子への最高の贈り物だと思う。それに——もしかするとザンザスは——」
わっと歓声があがった。
さっきまでとは比べものにならない大きさだ。テュールとブラバンダーは顔を見あわせ、揃って階下を覗きこんだ。
一番向こうがわのピストで想像だにしなかった光景が広がっていた。
小柄な選手が、自分の倍はありそうな太っちょの選手に向かって次々と激しい攻め技を繰り出している。
確か——エリオとかいう名の……。
さっきまではエペを持つ手がぶるぶると震え、今にも転倒しそうな足取りでおそるおそる相手に向かっていっていたのが、どういうわけか、そんなそぶりは今は微塵もない。
「どういうことだ?」
わけが分からず、テュールは呟いた。
「先ほどまでの戦い方は、相手を油断させるための演技だったとでもいうのか?」
第一戦目の動きはまさに子どもの、素人のそれだった。さっきまでと今とではまるで別人だ。
「そうでもなければ、別人が乗り移ったとしか思えない。それどころか——あの技——あの動き——まるで——」
「すごい」
感心しきった様子でブラバンダーが言った。「あのエリオという子も鮫に負けていない」
「そうだな……」
弟子の顔にめずらしく笑みが浮かんでいるのを見てとって、テュールは一瞬思い浮かんだ考えを打ち消した。
まさかな。あるわけがない。
きっと気のせいだ、あのエリオとかいう子どもの太刀筋が——ザンザスにそっくりだなんてな。
「くそっ!」
試合が終わるなり、相手の少年は礼もそこそこにマスクを脱ぎ捨てて床に叩きつけた。
「ちくしょう! 負けた! オレが……! こんなはずじゃなかったのに!」
思わぬ番狂わせの登場に会場は沸いていた。こんなに騒がせるつもりはなかったのに、エリオはどうやら謙遜でもなんでもなく本当に弱いプレーヤーだったらしい。
(弱かった選手がいきなり強くなったら、驚くのは当たり前か……)
ザンザスはマスクを被ったままそそくさと休憩用のスペースに戻ろうとして、エリオの母が男たちと押しあいへしあいしながら必死に手をふっている姿を見つけてぎょっとした。
「エリオ! お母さん、ここよ!」
ザンザスは軽く手をあげるだけに留めた。
それからちらりとテュールとブラバンダーの方に視線を向け、ふたりがこちらを注視しているのに気がついて慌てて首をひっこめた。まずいな。あの白い少年剣士に勝つという当初の目的を果たす前に退散する羽目にならなければいいが……。
「ゔお゛ぉい!」
ザンザスはふり返った。
鮫、とテュールに呼ばれていた子どもがすぐそこに立っていた。
「無様だなぁ、鯱! おまえの負けっぷり、この目でじっくり見せてもらったぜぇ」
ザンザスに負けて悔しがっていた恰幅のいい少年が顔をあげた。「スクアーロ……」
「知ってるか? こいつ、大会に出場するのは今日が初めてなんだとよぉ」
顎をしゃくってザンザスを指す。
「初心者に負けるなんざ、とんだ恥知らずだぜぇ。勝つはずだった試合に負けて『親父殿』にどう言い訳をするつもりだ? ない頭を使って、せいぜいよく考えておくんだなぁ」
「くそったれ」
オルカは唇をゆがめて吐き捨て、ザンザスを睨みつけた。
だが、ザンザスは鮫と呼ばれた少年を見ていた。
少年は、頭のてっぺんからつま先に至るまで、ほとんどすべてが白かった。そのせいで、冬の曇り空のような色をした瞳がやけに目立ち、そこだけぽっかりと穴が開いたようだ。唇も、形こそよいものの青白くて生気がなく、痩せた体型と相まって、子供服のブランドのマネキンが突っ立っているように見える。
シチリア訛りではない、方言のような言葉をべらべらとしゃべっていたが、どこの地方かまでは断定できなかった。オルカと呼ばれていた、ザンザスが負かした少年とは顔見知りのようだが、彼にはまったく訛りがない。ふたりとも、こんなへんぴな大会にわざわざほかの州からやってきたのだろうか? それとも別の国から?
「ゔお゛ぉい」
見られていることに気づいた鮫が口の端を持ちあげた。「何を見ている?」
ザンザスは答えず、口をつぐんだまま休憩用エリアまで歩いていった。
「エリオ、とかいったなぁ」
後ろから、あざ笑うような声がかかった。
「このまま順調に勝ち進んだら、いずれオレと戦うことになる。その時まで、絶対に負けるんじゃねぇ。いいな」
2
ザンザスが休憩用のスペースにひっこむと、大声で騒ぎ立てていた男たちも少しずつ大人しくなっていった。
興味津々にエリオ選手とスクアーロのやりとりを見ていた子どもたちもようやく試合を再開したが、彼らにとっては必死の攻防も、先ほどの戦いの前では児戯に等しかった。大人たちの興味は完全にエリオ選手に移ってしまい、ほかの子どもたちの試合など眼中にないとでもいうように、おのおの煙草をふかしたり周囲の人間とぺちゃくちゃおしゃべりをしたりしている。
「おまえに少し話しておきたいことがあってね」
頃合いを見計らって、テュールはブラバンダーを壁ぎわまで呼びよせた。
「話?」
「そうだ。先ほどまで話していた、継承権の問題とはまったく別のことだ」
表情こそ穏やかだが、剣帝と呼ばれる男の眼は鋭く宙を見据えている。
「まあ聞いてくれ。実はこの大会、胴元のファミリーが裏で賭けごとを取り仕切って儲けているんだが……」
「賭け!?」
「こら、大声を出すんじゃない」
テュールは叱りつけるような声で弟子を諭した。
「ここにいる観客も、半分くらいは賭けを目当てに来ているはずだ。表向きは子どものための真っ当なスポーツ大会だが、裏では金銭のやりとりが行われているんだ。ま、よくあることだろう」
「しかし、テュール……マフィアにとって賭けは不名誉なことだと」
「世の中、名誉を重んじるような人間ばかりではないということさ。おまえにはショックなことかもしれないが」
傷ついたような顔をしている弟子を、剣帝は優しくなだめた。
「ほら、自分の目で見てみるといい」
と、ピストを挟んで反対側の吹き抜け廊下一帯を陣取っている連中をあごで差す。
「カラブリアのンドランゲタだ」
「ンドランゲタ……」
ブラバンダーはおそるおそるというふうにその名を口にした。「なぜシチリアに?」
「おまえも知ってのとおり、カラブリアのンドランゲタやカンパニアのカモッラの一部のファミリーでは、賭博や売春は金稼ぎの常套手段として主要なビジネスになりつつある。とはいえ、奴らも分をわきまえてシチリアには手出しをしてこなかったはずなんだが……最近の若い勢力はそういう古い習わしをあまり気にしないらしい」
テュールはため息をついた。
「問題はそれだけじゃない。どうやらただの一般人が知ってか知らずかこのンドランゲタの縄張りで勝手に賭博を開催しているようなんだ。しかも自分の手駒を選手として大会に参加させて、勝敗を操ることで勝負の流れを思うままにしているらしい。時には金で相手選手を買収することもあるようだが……いずれにせよ八百長であることに代わりはない。さすがにンドランゲタも黙っていられず、とうとうここへ揃って乗りこんできたみたいだな」
「この会場で戦っている子どもたちの中に、その手駒とやらがいるのですか?」
「おそらくは。そして、その賭けを開催しているほうの人間も。——ま、だいたいの目星はついてはいるんだがね。それはンドランゲタも同じだろう。今は奴らもじっとしてくれているが、何かあればきっと動きだす。自分たちのビジネスに横槍を入れる不届きものに制裁を加えるためにな」
「見過ごすおつもりですか?」
ブラバンダーが真面目な表情で問いかけた。
「オレが? まさか」
テュールはにやりと目を細めた。
「偉大なるボンゴレファミリーの一員として、この事態をこのまま放っておくつもりなどないよ。このシチリアでンドランゲタがのさばるのには我慢がならない。既に九代目の了承はとりつけてある。もしも何かあればおまえの好きにしていい、とね。なにより純粋にフェンシングに取りくんでいる子どもたちが可哀想だ。大人の金や娯楽のために将来有望な剣士たちが利用されているなんて。どうにかしてンドランゲタとその賭博に手出ししている一般人とやらをあわせて豚箱送りにしたいところだが——」
そこで言葉を切って、テュールがばっとふり向いた。
歩みよってきた男に警戒心たっぷりの目を向けていたが、ふとその視線がやわらぐ。「ロマーリオ!」
「おや」
男は眼鏡の奥で眩しそうに目を細めた。「こんなところであんたに会えるとは。なんでこんな田舎にあんたがいるんだ?」
「久しぶりだな!」
テュールの表情がぱっと明るくなった。
「キャバッローネ九代目は元気にやっているかい。その小さい子はもしかして……」
「ああ。ボスのひとり息子、キャバッローネファミリーの十代目だ。今年で七歳になる。ほら」
ロマーリオにそっと背中を押され、彼の足元に隠れていた金髪の男子がそろそろと前に踏みだしてきた。
「ディーノと申します。父がお世話になっております」
「はは、そんな堅苦しい挨拶はいいんだよ。まだ七歳だってのにしっかり者だな」
テュールはしゃがみこんで目線を合わせると、ディーノの髪をくしゃくしゃになるまで撫で回した。
「オレはテュール。君のお父様とは知りあいでね。目元がお父様そっくりだ」
笑いかけ、後ろにたたずんでいるブラバンダーを指さす。
「紹介がまだだったな。こいつはオレの弟子で、ブラバンダーという。ボンゴレ九代目の雨の守護者だ」
「ブラバンダー・シュニッテンと申します」
「へえ、今度の守護者はえらく若いな」
ロマーリオは感慨深そうにブラバンダーを見つめた。
「九代目ももう長いからな。守護者も半分は代替わりしたよ」
少し寂しそうに言って、テュールは気をまぎらわすようにディーノの頭をぽんぽんと叩いた。
「ところで、今日はなんでまたここへ? お宅の坊ちゃんもフェンシングに興味があるのかい?」
「まあね。見にいきたいって騒ぐんで仕方なく。こんな遠くまで来る羽目になるとは思わなかったからかなり疲れたよ。電車と飛行機に乗れて、坊ちゃんはたいそうご満悦だったけど」
ロマーリオはため息をつき、好奇心いっぱいにピストを覗きこんでいるディーノの背に目をやった。
「本人は見るだけじゃなく、自分もやってみたいようなんだけど、今のところ向いているとは思えないな。やる気だけは充分にあるんだが、身体能力がついてこなさそうだ」
「やりたいんだったら、やらせてみたらどうだい。フルーレ、エペ、サーブル、道具一式なら無料で譲ろう」
「本当か? そりゃありがたい」
「なに、構わないさ。その代わり今度のキャバッローネとボンゴレの会合でちょっとばかしボンゴレに儲けを持たせてくれればいいんだ」
テュールは指を丸めてにやりとした。
「オレを買収しようってか? 相変わらず油断も隙もない野郎だな」
ロマーリオも笑みを深めた。目をきらきらさせてピストを覗きこむディーノの視線の先で、ふたりの子どもが向かいあっている。白い髪の子どもと、うつむいた黒髪の子ども。マスクを被り、互いのエペを軽く弾いて、礼の姿勢をとった。
「かっこいい!」
手をぎゅっと握ってディーノが叫んだ。
「オレもあんなふうにやってみたい。どうしたらうまくなるのかな。真似して棒切れを持ってみるんだけど、身体がふらふらしちゃうんだ。お兄さんは? フェンシングは好き?」
「ああ、好きだとも」
隣にいたブラバンダーは頷き、ディーノの頭に手を置いた。「君はどの種目が好きなんだ?」
「オレはサーブルが好きかな。だけど、エペも好きだよ! フルーレも!」
にっこりするディーノに、子どもがあまり得意でないブラバンダーもつられるように笑った。「そうか」
「おっと、そうこうしているうちに決勝戦が始まっているじゃないか」
ディーノの横からテュールが慌ててピストを覗きこんだ。「選手は……やはり、あのふたりか。エリオとスクアーロ」
「鮫?」
ディーノが不思議そうに尋ねた。
「鮫がここにいるの? 図鑑で見たよ、すごく怖い生き物なんでしょ? どうして誰も逃げださないの?」
「鮫は鮫でも、二本足で歩く鮫らしい。ほうら、あそこにいるぞ」
ロマーリオの指差す先で、観衆がどっと沸いた。エリオ選手の先制だった。手をあげて囃したてる大人たちを気にした様子もなく、ふたりの子どもは向かいあわせのまま互いの様子を見つめている。
「気を抜くなよ、ブラバンダー」
テュールは弟子にそっと囁きかけた。「ンドランゲタが動きだすのはまだ先だろうが、油断はするな」
「……——ブラバンダー様。ブラバンダー・シュニッテン様」
ふいに、老人のしわがれ声がした。
ブラバンダーとテュールは同時にふり向き、ぜいぜいと肩で息をしながら周囲を見回している老人を見つけた。
「なんだい、じいさん。ブラバンダーならこの人だよ」
ロマーリオの言葉に、老人はぱっと目を見開き、助かったといわんばかりの笑みを浮かべた。
「おお、よかった。おまえさんがブラバンダーか。変な名前のやつだから、きっとすぐに見つかるとかなんとか言っていたのに、まさかこんなところにいるとは。放送機器がないのをいいことに老人を走らせおって、まったく骨が折れるわい」
とんとんと腰と背を叩き、疲れきった様子で言った。「事務室に電話がかかってきていてねえ。ええと、なんだったかな……お菓子みたいな名前の……そう、ガナッシュと名乗る方からあなたに電話ですよ」
「ガナッシュから?」
ブラバンダーはぎょっと目を見開き、テュールとロマーリオ、ディーノと老人の視線に晒されて居心地悪そうに身じろぎした。
3
「ガナッシュ? どうしたんだ?」
『——ザンザス様が! ザンザス様がいなくなっちまったんだよぅ!』
ガナッシュの悲痛な叫び声が受話器の向こうで爆発した。
ブラバンダーはさあっと顔を青くし、それからあたりを見回して、近くにいた事務員がパニーニを食べる手を止めて目を丸くして見ているのに気がついてこそこそ隠れるように背中を丸めた。
事務室といっても、大人が三人腕を広げて並べば壁から壁まで手が届きそうなくらいの小部屋である。あまり声を大きくすると部外者にまで通話内容が聞き取れてしまう。
『ブラバンダー! 聞いてるのかよ! 坊ちゃんが……!』
「落ちつけ、ガナッシュ。ちゃんと聞いている。手当たり次第に探していたら日が暮れてしまうぞ。なにか手がかりはないのか。おまえ、今朝はいっしょに朝食をとったんだろう。何か変わった様子はなかったのか」
『ないよ。いつもどおりの坊ちゃんだったよ』
ガナッシュは今にも泣きだしそうだった。
『朝食にブリオッシュを召しあがって、勉強の前にちょっと散歩をするってんでロッコを連れて庭へ降りていかれたよ。そっからは一度もお見かけしていない』
「ロッコ? ……あのグレート・ピレニーズの?」
『そうだ!』
ガナッシュはわめいた。
『坊ちゃんと散歩にいったはずなのに、ロッコのやつ、ひとりで犬舎に戻ってのんきに昼寝なんてしてやがるんだよ! こんなことになるんだったらあのときオレが散歩についていけばよかったんだ……流行りの携帯電話だって我慢させずに持たせていれば……うう……』
ブラバンダーは今朝、グレート・ピレニーズのロッコに背中から激突されたことを思いだした。
朝食後にロッコの散歩にいっていたのなら、まさか、あのときザンザス様はオレの近くにいらっしゃったのだろうか? ……ロッコを使ってオレに何かしようとしていたのか?
「とにかく、コヨーテたちに連絡を入れろ」
ブラバンダーは受話器にそっとささやきかけた。
「オレたちだけでどうにかなる問題じゃない。もしかしたら九代目の後を追いかけていって、今ごろ日本行きのチャーター機の中に隠れているのかもしれないだろう。可能性は低いが、ザンザス様ならやりかねない」
『そんなこと言ったって、坊ちゃんは九代目が日本へ行くなんて知らないはずなんだぞ。行くんならスイスかドイツだ!』
「だったら、スイスだろうがドイツだろうが、手の空いているやつを片っぱしから送りこめ。国外へ出ていったのなら入国手続きが残っているはずだ。それでもだめなら近辺で交流のある人間がいないかどうか調べて、信用できる人に手伝ってもらえ。土地勘のある人物を味方につけろ」
『そんなのとっくにやってるよ、ちくしょうめ』
ぐすっと鼻をすする音がした。
『もしもこのまま坊ちゃんが見つからなかったら、九代目に合わせる顔がないよ。オレたち全員コヨーテに殺されちまうんだ。どうにかして坊ちゃんを見つけださないと』
「ガナッシュ、落ちつけ」
『早く帰ってきてくれよ、ブラバンダー。オレたちだけじゃ心細いよ』
『もういい、代われ!』
突然別の声が割りこんできて、ガナッシュの声が遠ざかった。
「ニーか?」
『ブラバンダー!』
晴の守護者ニーは、ほっとしたように息をついた。
『こちらは総力を挙げてザンザス様を探している。テュール殿はそこにおられるのか?』
「いや、今は離れた場所に」
『そうか。ならば彼に伝えてほしい。もしもザンザス様が我々の言葉を信用してくださったのであれば……おそらくスイスのティチーノ州都、ベッリンツォーナにいらっしゃるはずだ』
「ベッリンツォーナ……」
『そうだ。カラブリアのンドランゲタの一味がイタリア語圏であるベッリンツォーナを足がかりにスイスへの進出を図ろうとしていたので、それを利用して九代目の視察をでっちあげた。しかし、それが裏目に出てしまったのだ。ザンザス様がそこへ向かった可能性がある以上、このままここでじっとしているわけにはいかない。実際のところ現地にンドランゲタの影響力はほとんどないし、心配するほどの治安の悪化も聞こえてこない。だが、ザンザス様がそこへ向かわれたとなると油断はできない。奴らがドン・ボンゴレの子息の顔を知らないとは限らないからな』
ニーの声に不安がこもった。
『万が一、ということもある。ザンザス様の身に危険が及んだときのことを考えて、テュール殿にも現地へ向かっていただきたいのだ。何もなければそれでいいが、もしもの時には、彼にもヴァリアーとしてひと仕事していただかねばなるまい』
「……そうだな」
ブラバンダーは言った。「わかった。テュールを連れてすぐにベッリンツォーナへ向かおう」
「ガナッシュくん、なんだって?」
受話器を置いたブラバンダーに、後ろから声がかかった。
「テュール……」
「遅いから気になって来てしまったよ。……なんだ、怖い顔をして。何かあったのか?」
いぶかしげな表情をしている事務員に頭を下げつつ部屋の中を物珍しそうに見回しているテュールに、ブラバンダーは声を落として言った。
「坊ちゃんが行方不明だそうです」
「ザンザスが?」
「詳しい説明は後でします。オレと共にベッリンツォーナへ来てください」
「——待て、ブラバンダー」
さっそく部屋を飛びだそうとしたブラバンダーを、テュールがそっと押しとどめた。苛立ち気味に師を見返したブラバンダーに、ささやくようにテュールは告げた。
「おまえたちが探している迷子の坊ちゃんは、思いのほかオレたちの近くにいるかもしれないぞ」
「……え?」
第三幕 獅子の咆哮
1
「——てめぇ、素人じゃねぇな」
相手の白いマスクの向こう側から声が聞こえた。
「その動きは、そんじょそこらの人間に学んで身につけられるもんじゃねぇ。誰か特別な人間に剣技を教わったな?」
ザンザスは答えなかった。スクアーロは機嫌よさそうに喉を鳴らし、構えなおすと、審判の合図と同時にザンザスの間合いに飛びこんできた。
一瞬だった。
観客たちのあいだから歓声があがった。自分の胸元に突きこまれたエペを、ザンザスは目を見開いて見おろした。
「退屈するばかりだと思っていたが、予想外に楽しめそうだなぁ」
スクアーロはゆっくりと後退し、ふたたびエペを構えた。
「……お互いにな」
ザンザスはぼそりと呟いた。悔しさが、唇の上に血のように滲むのを感じた。
「始め!」
審判が叫んだ。
スクアーロは軽く足を上下させたまま、距離を保つようにしてこちらの様子を伺っている。攻撃してくる気配はなく、むしろ、攻撃を待ち構えるこの時間、この瞬間を楽しんでいるかのようだ。
鮫——なるほど、名前の通りだ、とザンザスは思った。食らいついてくるのはほんの一瞬。獲物を逃さず、一撃で確実に仕留めてくる。
もしも、こいつの手にしているのがエペでなく刀剣だったなら、少しでも気を抜けばオレの首はあっというまに飛んでいってしまうだろう。
「……何してる! さっさとやれ!」
群衆の真ん中で、白いひげの酔っぱらいが片手に握りしめた酒瓶を振り回してわめいた。最初の方はもごもごしていて聞き取れなかったが、誰かの名前のようだった。
周囲の人びとが迷惑そうに離れていくと、酔っぱらいは鋭い目つきで周りをねめつけ、ふんと鼻を鳴らして豪快に酒を煽った。
「くそったれ」
スクアーロがマスクの向こうがわで舌打ちした。彼の意識がこちらから逸れたのを察し、ザンザスは大きく足を踏みこんだ。
またわっと歓声が響いた。肩先を突かれたスクアーロが感嘆したように息をつき、マスクをとって汗をぬぐった。
「オレの『親父殿』だぁ」
酔っぱらいを見ているザンザスに、スクアーロは静かに言った。
「ろくでもねえ、最低のくそ親父だ。拾ったり買ったりして集めてきたガキに芸を仕込んで、自分の金もうけに使ってる。あれで孤児院の経営者のひとりだってんだから、まったくとんでもねえ野郎だぜぇ」
「……おまえはずいぶんと大人びているんだな」
ザンザスは呟いた。
「よく動き、よくしゃべる。頭もよさそうだ」
「嫌でもそうなるんだよ」
吐き捨てるようにスクアーロは言った。
「どうすればあいつの機嫌を損ねずに無事に一日を終えられるか? どうすれば殴られずに済むのか? ああいうやつの下にいると、いつのまにかそうやって考えるくせが身についちまうんだ。オレも、オルカも、ほかのやつらだって、ずっとそうだ——おまえのような幸せな人間には分からないことだろうがなぁ、エリオ」
「オレだって……辛いことぐらいある」
思わず言葉を返したのは、馬鹿にされていることがなんとなく分かったからかもしれない。
けれども、どんなふうに言い返せば相手を言い負かすことができるかまでは思いつかなかった。そういえば、同じ年頃の子どもと話すのは久しぶりだ。エリオの時には思いもつかなかったことに思いあたり、ザンザスは一瞬どきりとした。エリオは従順で、話すというより、言い聞かせるか、言い分を聞いてやっているような感覚だった。けれども彼は違う。このスクアーロという白い髪の子どもは。
ザンザスはスラムでも母親といっしょにいるか、ひとりでいることがほとんどで、同世代の子どもたちとはあまり仲良くすることもなかったし、ボンゴレの屋敷に来てからは九代目の守護者やオッタビオ、メイドを始めとした大人たちばかりに囲まれていた。
その意味では、スクアーロはほとんど初めて接する同じ年頃の子どもといってよかった。しかも、エリオのように素直ではなく、人を小馬鹿にし、平気で睨みつけてくる。ボンゴレ九代目の息子にそんなことをするやつは初めてだ! 怒りが沸いたが、どこか新鮮な気分でもあった。
「……そうかもしれねえなぁ」
無駄口を叩くな、早く位置につけ、と合図する審判を無視し、スクアーロは大きく頷いて、マスクの向こうがわにあるザンザスの顔を目を細めて見つめた。
「てめえには何か特別なもんを感じる。ピスト上でオレを前にしてそんなに堂々としていられるやつは初めてだぁ。たいていのやつは腰を抜かすか漏らして泣きわめく。それにくらべりゃてめえは感情もなく、動揺する仕草すらもない。まるで人形のようだぁ」
また馬鹿にされていると思い、ザンザスは強くスクアーロを睨みつけた。スクアーロはにやりと笑ってマスクを被り、険しい顔をしている審判を邪見に扱いながら元の位置に戻っていった。
「始め!」
審判が叫んだ。直後、スクアーロが勝負を仕掛けてきた。素早く防御したザンザスの更に上を行くスピードで、ザンザスのわき腹をひと突きした。周囲から悲喜こもごもの悲鳴があがった。
「くそっ!」
思わず声が出た。ザンザスはエペをへし折る勢いで振り回し、マスクの内側で唇を噛んだ。オレよりこいつの方が上手だと? ありえない!
こいつにだけは負けたくないと思い、自分が負けるという不安にも似た予感にザンザスは震えた。九代目実子である自分が誰かに負けるなど決してあってはならない。敗北は父の顔に泥を塗るのと同じ。父が、そしてボンゴレファミリーが敗けるのと同じことなのだ。
金色の獅子の剣のことなど、もはや頭になかった。欲しいのは勝利、ただひとつのみ。
審判の声を合図に、次はザンザスが先手を打った。目にもとまらぬ早さで相手の脇へ滑りこむ。だが、スクアーロも一瞬のうちに反応した。ザンザスのエペを払いのけ、ほとんどがら空きのザンザスの横腹へ自分のエペを繰り出した。
ザンザスはとっさに身体をひねり——おおよそフェンシングにはありえないような姿勢で、次の攻撃を放った。審判が何事か言ったような気がしたが、耳に入らなかった。動揺した様子のスクアーロが慌ててザンザスのエペを受け流す。
「戦え!」
ザンザスは叫んだ。「『決闘』だ!」
スクアーロがぴくりと反応した。なんだ、どうしたと騒ぐ大人たちを無視して、ザンザスはふたたびエペを突き出した。するとスクアーロが前へ踏み出し、斬りつけるように腕を動かした。弾き返されたエペが手を離れて飛んでいきそうになるのを、ザンザスはなんとか堪えた。
「ゔお゛ぉい!」
スクアーロがにやりと口の端を吊りあげた。「やはり只者じゃねぇ。このオレに決闘を挑むとは!」
わめく審判を無視し、距離をとって向かいあう。
「決闘のルールは?」
「ない」
じりじりと距離をつめながら、ザンザスは言った。「突きでも斬りつけでもなんでもいい。攻撃権もない。とにかく相手を攻撃して、最後まで立っていられた方の勝ちだ」
「……わかったぜぇ」
スクアーロがマスクをかなぐり捨てた。汗で額に貼りついた白い髪をばっと払う。
最初は何が起きたのか理解できずに呆然としていた観衆たちも、次第にふたりのやりとりを理解し始めた。子どもたちのフェンシングを見にきたはずの人びとはいまだに頭が追いつかずにおろおろしていたが、賭け目的でやってきた人びとはそれ来たと言わんばかりに盛りあがり、声をあげ、手を振りあげておのおの応援する選手のためにぎゃあぎゃあと騒ぎだした。エリオ、と不思議そうに名前を呼び続ける母親の声もあっというまにかき消され、建物内は一気に火のついたようになった。
負けじと叫んでいた審判がとうとう諦めたように手を下ろした。ザンザスとスクアーロは同時に床を蹴り、互いの攻撃をエペで受けとめた。
「邪魔だ!」
エペを握っていない方の手でスクアーロを弾きとばす。スクアーロが舌打ちして歯を食いしばるのが分かった。
「スクアーロ!」
オルカ、とザンザスに呼ばれていた少年がやってきて怒鳴りつけた。
「おまえ、いったいどういうつもりだ! さっさと勝たないと『親父殿』が怒って……!」
「うるせぇ!」
エペを振り回しながら、スクアーロが怒鳴り返した。「オレに指図するんじゃねえ、このシャチ野郎! こいつは、このオレに決闘を挑んだんだ。決着をつけなきゃ気が済まねぇんだよ!」
テュールとブラバンダーが会場内に戻ってきたのは、ちょうどそのときだった。
「おお、おふたりさん。こりゃすごいぜ。何が起きてるんだかよく分からないが、プロ並みの試合が始まったかと思いきや、いきなり決闘だとかなんとか言って二人とも暴れだしたんだ」
興奮気味に話すロマーリオに、ふたりは慌てて階下を覗きこんだ。エリオ選手とスクアーロ選手の試合は、とっくに自分たちのピストをはみだして隣で三位決定戦をしていた子どもたちを押しのけて繰り広げられていた。なんとかふたりの戦いを止めさせようとする審判たちを観衆の一部が押さえつけ、あちこちで乱痴気騒ぎも起きている。
「まずいな」
テュールの第一声はそれだった。
「しばらく席を外していただけなのに、どうしてこんなことになるんだ? 自分たちの管轄内でこんな騒ぎを起こされたとなると、ンドランゲタも黙っていないだろうに」
「ねえ、よく見えないよ、ロマーリオ。何がどうなってるの?」
頭を抱えているテュールの横で、何も知らないディーノが不満そうな声をあげる。
ピストからはみだした子どもたちの戦いは、階下で騒ぎ立てる野次馬たちのせいで小柄なディーノからは確認しづらくなっていた。
「やれやれ、仕方ないな」
ロマーリオはディーノを抱えあげると、手すりの上に慎重に座らせて、落ちないように後ろから腕を回した。
「頼むからしっかり掴まっててくれよ。ほら、これでよく見えるだろう」
「うわあ! すごいや!」
座ったまま興奮気味に足をばたばたさせるディーノの眼下で、ふたりの子どもが激しく争っている。
両者ともエペを握り締めてはいるが、試合というより子どもの喧嘩だ。ザンザスに突き飛ばされたスクアーロが審判たちの集まる席に派手に突っこみ、ひっくりかえりながらも素早く起きあがった。
「この野郎……! やりやがったな!」
悲鳴をあげて後ずさる審判たちには目もくれず、床に転がったペンやらハサミやらをひっつかんでザンザスに手当たり次第に投げつける。
ザンザスは落ちていたバインダーを掴んで振り回し、飛んできたペンを思いきり弾き返した。……そのうちの何本かが凄まじい勢いで上に飛び、数本は観客たちの頭上に落ち、そして数本は談笑しながら観戦していたロマーリオとディーノにばらばらと当たった。
「うわぁっ!?」
ディーノがわけも分からずパニックを起こし、暴れた。振り回された手にあちこち叩かれながらもロマーリオが押さえつけるが、遅かった。暴れ馬のようにじたばたしていたディーノの身体がぐらりと傾いだ。
「ディ、ディーノ!?」
あっというまに少年の身体は前へ倒れ、手すりの向こうがわへ重心が傾いた。
「うわあああっ!」
ディーノは悲鳴をあげて落ちた。とっさに腕を伸ばしたロマーリオの手をすり抜け、階下で酒瓶を煽りつつスクアーロに怒鳴り声を浴びせていた白い髭の『親父殿』の、半分口の開きかかった袋状の荷物の真上に——落ちた。
衝撃で、袋の中に詰めこまれていた紙片がぶわっと宙に舞いあがった。そのうちの何枚かが、ブラバンダーの足元にひらりと落ちた。
「これは……」
拾いあげようとしたブラバンダーの手が止まった。
あっちへこっちへ漂いながら落ちてきた紙切れに向かって手を掲げて、テュールがあっと声をあげた。慌てて階下へ駆け下りていくロマーリオの足が、舞いおりてきた紙幣を踏んづけた。
「いたた……」
目を回しながら起きあがり、荷物の上から這い降りようとして、ディーノは顔をあげた。途端、白いひげ面の『親父殿』の驚愕した顔と目があった。ディーノはひっとうわずった声をあげてその場から逃げだそうとし、尻からべしゃりと床に落ちた。また何枚か紙幣が宙を舞い、傾いた袋の口からディーノの肩へ大量の硬貨がなだれ落ちてきた。
「うわあっ。なに、これ?」
落ちていた硬貨と、それから紙幣をディーノが不思議そうに拾いあげる。
「あ、五百リラ硬貨だ。こっちは、ええと、千リラ。こっちもだ。こんなにたくさんのお金、どうしたの?」
ほんの一瞬、会場はしんと静まり返った。
2
直後、爆発したような騒ぎになった。客席から飛びだしてきた観客たちがピストにまでなだれこみ、風をはらんであっちへこっちへ舞いあがる紙幣に我先にと手を伸ばしている。押しあいへしあいしながら金を掴もうとする大人たちに押しのけられ、子どもたちは唖然として立ちつくすしかない。
「な、なんなんだよう、いったい」
急に自分のほうへ集まってきた大人たちにもみくちゃにされていたディーノは、なんとか大人たちの足元をかき分けてその場から這い出した。床にばらばらと散らばった小銭やしわくちゃになった紙幣をめぐって、大人たちが激しく争っている。
「おい、そいつはオレのだ!」
「何を! オレが先に掴んだんだ、文句あるのか! この野郎!」
誰かが誰かを殴ったのを皮ぎりに乱闘が始まった。悲鳴と怒鳴り声が交錯し、おびえた子どもたちがわっと声をあげて泣きだした。
「おい、それをこっちに寄越せ!」
誰かが袋を引っぱり、中身をぶちまけた。
「やめろ! オレの! オレの金が!」
袋の中の金目当てに突っこんできた男たちに髪やら髭やらを引っぱられ、ついには弾きとばされた白いひげ面の『親父殿』が、中身の残った酒瓶を放りだして、舞いあがる札の群れに突っこんだ。紙幣を掴もうとよろよろと手を掲げていた老婆を突き飛ばし、床に落ちていた小銭や紙幣を手当たり次第に腕の中にかきこむ。
血走ったその眼が、わけも分からず座りこんでいたディーノを捉えた。痩せた喉から猛獣のような唸り声がほとばしった。「このガキ、殺してやる!」
「てめぇ!」
後ろからロマーリオが銃を構えた。
振りあげた指先を銃弾に吹き飛ばされ、『親父殿』が悲鳴をあげた。血を撒き散らしてその場に倒れこむ。わっと泣きだしたディーノを抱えて、ロマーリオは周囲を見回した。金を追いかける人と逃げだす人、銃声に混乱する人が入り乱れて、会場内はとうとう手の施しようがないくらいの騒ぎになった。
「エリオ!」
逃げだす人びとの流れに巻きこまれて、エリオの母親が叫んでいた。危ない、逃げるんだ、という声に追い立てられ、息子の名前を呼ぶ必死な声も次第に出口へと遠ざかっていく。
「テュール! やつらが!」
ブラバンダーが叫んだ。
ンドランゲタの一味が、痺れをきらした様子で銃や武器を構えて階下へ降りていく。テュールは舌打ちした。「さすがにこの状況で黙ってじっとしていてはくれないか。ブラバンダー、おまえも行って暴れてこい!」
ブラバンダーは頷き、素早く階下へ飛び降りた。
ザンザスとスクアーロの戦いはまだ続いていた。これだけの騒ぎも、彼らの前では静寂に等しかった。互いの呼吸音と声だけが耳に届き、それ以外の全ては隔たれて遠くあった。逃げだす人びとの声も、迫りくるンドランゲタの足音さえも。
だが、さしものスクアーロにも次第に疲れが見え始めた。
「くそっ!」
エペの先端を強く弾かれ、悔しさに歯を食いしばるスクアーロ。試合が始まった頃に比べるとずいぶん空振りが多くなってきた。戦いが長引くほど精細さを欠いていくスクアーロの攻撃とは反対に、ザンザスは戦いにのめりこみ、身のこなしも鮮やかになっていく。
いくら才能があったところで、この少年剣士は素人なのだ。体力・技術ともに剣帝じきじきに鍛えられあげたザンザスには、少年を遥かに凌ぐ力と集中力があった。剣帝と共に過ごしたあの日々は決して無駄ではなかったのだ。
とうとうスクアーロが床に片膝をつくと、ザンザスは笑って彼を見下ろした。
「もう降参か?」
「いいや——」
スクアーロはゆっくりと顔をあげた。
「まだだ——まだやれるぞぉ」
その時だった。
二、三回ほど爆発音がして、灰色の煙がさっと視界になだれこんできた。ぎょっとしたスクアーロの青白い顔が煙の向こうに見えなくなる。
「ザンザス様!」
聞き覚えのある声にザンザスは意識を引き戻し、ふり返った。
鬼の形相をしたンドランゲタの男の手がすぐ後ろに迫っていた。
名を呼びながら、ブラバンダー・シュニッテンが滑るようにしてこちらへ走りこんでくる。ザンザスは襲いかかってきた男に咄嗟にエペを差し向けると、ぎくりとして動きを止めた男の足の間を思いきり蹴りつけた。男は悲鳴をあげてその場にうずくまった。
「なんだ、こいつは? 何が起きている?」
ブラバンダーと背中あわせになって、ザンザスが囁いた。
「彼らはカラブリアのンドランゲタの一味です。この大会において行われていた賭博を取り仕切る胴元と聞いています」
ブラバンダーは素早く言った。
「詳しいことは分かりませんが、あなたが戦っているその少年の父親らしき人物がンドランゲタに目をつけられているようです。おそらくは、この混乱に乗じて、彼らに制裁を加えるつもりかと」
「制裁?」
ザンザスはちらりとスクアーロのいるはずの方向を見た。
「まったく話が見えないぞ。ンドランゲタがここにいるのか? その制裁というのには、あいつも含まれているのか?」
「ええ。おそらくは。もしかすると、ザンザス様、あなたもその対象かもしれません。奴らからしてみれば、あなたもこの状況を引き起こした張本人には違いありませんから」
頷き返したブラバンダーを、ザンザスは目を見開いて見つめた。
「強い相手を前に、はやるお気持ちはよく分かります」
ブラバンダーはかすかに微笑んでみせた。
「ですが、今は、ここから無事に逃げきることが先です。ドン・ボンゴレの御子息を、ンドランゲタの手に渡すわけにはいきませんから」
「……分かった」
ザンザスは頷いた。
「だが、ただ尻尾を巻いて逃げ帰るなど、ドン・ボンゴレの息子のすることではない。おまえは会場内に残っている選手たちや観客たちをンドランゲタから守ってやれ、ブラバンダー。奴らが無関係の人間を傷つけようとしたなら斬りつけても構わない。いざとなったら、オレは自分の身は自分で守れる——」
そこまで言って、ザンザスははっとしてブラバンダーを見上げた。
「いつからオレだと気づいていた?」
ザンザスは小声になった。「オレはマスクをとっていないのに、なぜオレだと分かったんだ」
「先に気がついたのはテュールです」
ブラバンダーの声はかすかに笑いを含んでいた。
「エリオ選手の太刀筋があなたに似ている、と。先ほどのスクアーロとの試合中に何度か大声を出されたので、オレも確信が持てました。エリオ選手とあなたが入れ替わっていることに」
ブラバンダーはゆっくりと剣を抜き、煙の向こう側をきつく睨みつけた。
「逃げ遅れた人たちの護衛はお任せください。また後でお会いしましょう」
「ああ」
短く答えて、ザンザスはその場を飛び出したブラバンダーから目を逸らした。
次第に薄れつつある煙の中で、身を丸めて小さく伏せっていたスクアーロが、目をぱちくりさせながら起きあがるのが見えた。
その後ろから、ンドランゲタの連中が騒然と走りこんでくる。ザンザスは彼らの手に刀剣が握られているのを認めた。エペのような試合用の剣ではない、まぎれもなく本物の剣だ。
(稽古のあいだはきちんとルールを定めますが、実際に命のやりとりを行う場ではルールなど何の意味もございません——)
テュールの声がふっと頭をよぎった。
(戦場では常に生き残った者が勝者となります。殺すための——生きるための剣を身につけねばなりません……)
「ザンザス!」
凛とした声が響いた。
ザンザスは顔をあげた。吹き抜け廊下から身を乗りだして、テュールが叫んでいた。手には剣を持っている。——金色の鞘に収められた、あの有翼の獅子の剣を。
テュールが腕を振りあげた。ザンザスは真上に向かって手を掲げ、投げつけられた鞘を掴んだ。
その瞬間、熱が全身の皮膚を駆けめぐった。身を焼き切られそうな感覚。手の中に燃える炎を掴んでいるようだ。だが、不思議なことにこの熱はザンザスを傷つけない。むしろ、陽光に温められた石のぬくもりのようにやわらかく心を和ませてくれる。
状況を飲みこめていないままのスクアーロが、エペを手に唸り声をあげて突進してくる。ザンザスは鞘ごと剣を振るい、エペを受けとめた。剣と剣がぶつかりあった瞬間、金色の鞘はこの世のものならぬ凄まじい輝きを放った。
「ゔお゛っ……」
眩しさにこらえきれず、スクアーロが後ずさった。
「剣……? なんだぁ、その剣は……?」
「どけ!」
スクアーロを突き飛ばし、後ろから彼に掴みかかろうとしていたンドランゲタの男の腹に鞘を突きこむ。男はうっとくぐもった声をあげ、膝をついて苦しそうに身悶えした。
続いて飛びこんできた男の手をかいくぐり、男の顔に向かって鞘を一振りする。男はぎゃっと悲鳴をあげ、火に灼かれたように赤くなった顔面を押さえてのたうった。
ザンザスは無心に鞘を振るい、襲いくる男たちを次々になぎ払っていった。ザンザスに突き飛ばされて尻もちをついていたスクアーロは、文句を言おうと口を開きかけ、眼前で繰り広げられる光景にぎょっと目を見開いた。
自分とさほど年齢の変わらないはずの少年が、何人もの大人の男相手に互角に渡りあっている。いや、もしかすると少年の方がいくらか優位かもしれない。少年は自分の背丈ほどもありそうな金色の鞘を軽々と振り回し、大人たち顔負けの剣技で彼らを圧倒している。
ザンザスもまた感じていた。あの時、テュールに手渡してもらって初めて触れた時にはあんなにも重かった剣が、今はまるで羽根のように軽い。柄は熱く、刀身はそれ以上の熱を持っているが、それは決してザンザスを傷つけず、触れうる敵のみをその熱で焼き尽くす。
この剣を手にしていることに、激しいまでの歓喜を感じた。一瞬たりとも離れていたくないと思い、柄から指をほどくことを考えただけで恐れが沸き起こった。燃えあがるような高揚感に身を委ねると、身体を包みこむ熱い奔流に意識が溶けていきそうな気さえする。
「このくそがき、やりやがったな!」
目を血走らせた若い男が、血にまみれた剣を手にこちらへ向かってくる。
呆然とザンザスを眺めていたスクアーロは自分がエペを握りしめていることに気づき、男に立ち向かおうとして、はっと息をのんだ。
彼を背にかばうようにして立ちはだかったザンザスの手の中で、炎が球状に膨れあがったのだ。
初めはほんの小さく——そして、またたくまに大きく燃えあがったその炎は、黄金色の光であたりを照らしだす。呼応するように、金色の鞘もまたまばゆいばかりの煌めきを帯びた。
「剣が……」
ブラバンダーが呟いた。
おびえきって泣いていたディーノがぽかんと顔をあげ、ロマーリオといっしょになって金色の光に見入った。一箇所に集まって泣いていた子どもたち、逃げきれずに頭を抱えて伏せっていた大人たちがおそるおそる顔をあげた。
光に彩られた有翼の獅子の文様が金色の光にまたたく。ザンザスはまっすぐに前を見据え、金色の鞘からゆっくりと剣を抜き放った。
3
『……もういい。もう、いいんだ』
星のない夜だった。
黒い空に、燃えあがる炎が煌々と輝いている。
白い獅子は頭をあげ、返り血で真っ赤に染まったたてがみをぶるりと震わせると、主の命令どおり、ゆっくりとその場を離れた。
折り重なった死骸の向こうに、少年が倒れ伏していた。手には剣を握っている。砕かれ、もはや使いものにならなくなった剣を。
男が歩みよると、少年はうっすらと目を開けた。冬の曇り空の色に似た瞳がしばらく宙をさまよった。
『よく見えねぇ……そこにいるのか、ボンゴレ二世?』
『ああ』
『あいつらは、逃げられたのか? 無事に?』
『……ああ』
『よかった』
少年が笑った。息を吸うたびにひゅうひゅうと音がして、泡のような血が口の端からこぼれ落ちる。
白い髪は血と泥にまみれ、裂けた衣服の隙間からいくつも痛々しい痣が覗いている。骨も折れているようだったが、一時的に痛覚が麻痺しているのか、痛みを堪えるような様子はなかった。
『悪い……もう、あんたの背中、守ってやれねぇ』
『死ぬつもりか』
立ち尽くしたまま、男が言った。
『オレから剣を奪うのだと、獅子王の剣を奪ってやるのだと豪語していたおまえが。……こんなところで、他人ごときのために死ぬというのか』
弱々しく頷いて、少年はばっと血を吐いた。全身のあちこちから血が流れだし、白い顔は生気を失って青ざめていた。死に触れられた者の、もはや生きるすべはないと理解した者の表情を浮かべて、少年はそっと囁いた。
『誓ってやる、セコーンド。オレは……必ず帰ってくる。おまえの剣になるために。おまえのいる、ここに』
少年の手から力が抜け、剣の柄から指が離れた。
少年の呼吸は止まっていた。
そばにうずくまっていた白い獅子が首をそらし、高く、長く咆哮した。
男は動かなくなった少年の前に静かにひざまずいた。燃える残骸を背景に、黒いその背中が、慟哭のためにかすかに震えたかに見えた——
やがて、目の前の情景は溶けるように宙へ滲みだす。気がついたときには、全く別の場面へと移り変わっていた。
暗闇の下、男が剣を振るう。剣を握った盗賊の手が断ち切られて宙を飛び、血の尾を引きながら石畳の上を二転三転していく。
苦悶の叫びをあげたのは盗賊、まぎれもない、年端もいかぬ子どもの声だ。
金色の鞘に剣をおさめた男が、うずくまって脂汗を流している盗賊の顔の覆いに手をかけて引き剥がすと、白い髪の、十二、三歳くらいの少年の顔があらわになった。
『……なぜ逃げなかった』
しばらく黙りこんだのち、少年は男の問いに眼を見つめて答えた。『……あんたの、剣』
シチリア訛りではない、異国風の響きだ。
『あんたの、その剣が輝くのを、もう一度見たいと思った』
『剣?』
『その金色の鞘の剣だぁ』
血を失っていっそう青白くなった少年の顔に、つかのま、はにかむような笑みが浮かんだ。
『刃がきらきらして、雨の後の虹みたいにきれいだった。なあ、その剣、オレにくれよ。気にいったんだぁ』
『——ほらよぉ』
闇が流れ去り、また別の風景が浮かびあがってくる。白い肌の少年が、包帯の巻きつけられた左手を見せつけるように掲げてみせている。
『千切れた左手はさすがにくっつかなかった。まだ痛むが、どうってことはない。それより、あんたがあの医者に治療費を払ってくれたんだろ? 金代わりに何個も宝石を握らせていたよな? だから……』
『礼は要らん』
左手を断ち切った張本人が、迷惑そうな顔をしている。
『なんでだよ』
少年は不満げに眉を下げ、
『恩を仇で返そうなんてつもりはこれっぽっちもねぇ。オレはただ救ってくれたあんたに恩を返したい。それだけだぁ』
『うまいことを言ってボンゴレに取り入るつもりだろうが、オレはおまえをファミリーの一員とは認めん。どうせ隙を見てオレの剣を奪おうとしているだけだろう』
『ま、そういう目的もないことはないけどよ——あ、ちょっと待てよ! 置いていくな!』
また別の場面では、男と少年は並んで座って、サーカスの旅芸人たちの繰りだす技の数々をものめずらしげに見つめていた。異国風の衣装を身に纏った女が命じると、純白の獅子は円形のステージの中央まで歩いてきて、観客たちを見回すようにぐるりと首をめぐらし、咆哮する。
『すげえ! かっこいいなぁ!』
『そこまで喜ぶようなことか』
手を叩いてはしゃぐ少年を、男が呆れ半分に眺めている。
『ずっと本物を見てみたかったんだぁ! あれこそまさしく獣の王様だぁ!』
そう言って、隣にいる男児の肩を抱く。『なあ、ボンゴレ三世』
『テルツォ? 違うよ』
男児がきょとんとして見返す。少年は目を丸くした。
『ゔお゛ぉい、こいつが二世だったら、おまえは三世だろ。親子なんだろ?』
『あなたは勘違いをしている。ぼくはまだ何も継承してはいない。それに、彼はぼくの父ではない。兄でもないよ。叔父なんだ』
『叔父ぃ?』
……彼らの姿は風に吹き散らされる砂のように流れ去り、ふたたび白い少年があらわれたとき、彼は右手に剣を握って立っていた。前にいるのは憲兵たちだ。
『盗賊業から足を洗ったと聞いていたが、まさかまだシチリアにいたとはな。てっきり島の外に逃げたもんだと思っていたが』
『さっさと故国へ帰ったらどうだ、その白い肌が日に焼けちまう前に。このシチリアにはおまえのようなこそ泥を受け入れてくれるところなんざ、あるわけがないんだから——』
『あったぜぇ』
少年は呟き、顔を見合わせる憲兵たちのことなど気にも留めない様子で続けた。
『いいもんだよな。家族だとか、仲間だとか。そういうもんとは程遠いところで生きてきたオレだけど、つかのま夢のような気分を味わせてもらったさ』
ほんの一瞬、目を閉じて泣きだしそうに顔をゆがませる。
『——分かるか、このオレの気持ちが。あいつらのためになら、どうなったっていいんだ。傷ついても、死んでも構わねぇ。そいつらがそこにいてくれることが重要で、ほかのやつらなんてどうでもいいんだ』
『何言ってるんだ、こいつ? ついに頭までおかしくなったんじゃないだろうな』
『さっさと片付けちまおうぜ。こんなろくでもない奴に時間をとられている場合じゃないんだ……命令どおり、早く奴らを……』
場面はそこで暗転し——
少年の手を斬り落としたあの男が、無言で前を見つめている。
『やあやあ、これは、ボンゴレファミリーのドンではありませんか』
憲兵のひとりが手を揉みながら彼にすり寄り、猫撫で声で囁いた。
『ちょうどいま、以前に街を騒がせていた泥棒を捕まえたところでしてねえ。こいつがまたなかなかのくせものでして、子どものくせしてやることが狡いんです。暴れるもんだから、ちょっとばかし手荒な扱いをすることになりましたが、ええ、きちんと捕まえてみせましたとも』
武器を手にした憲兵たちの向こうに、踏みにじられ、血と泥にまみれた白い顔を見た瞬間、男の碧色の眼がかっと見開かれた。
『……そいつは』
『え?』
『そいつは、オレの守護者だ』
男の腕がゆらりと持ちあがり、剣の柄を掴んだ。
『……おい、やめろ。やめてくれ』
何かを察した憲兵が、そろそろと後ずさりながら懇願した。
『死なせるつもりはなかったんだ。ただ、生意気な口をきくから、少し遊んでやろうと思っただけで……本当にそれだけで——』
暗い顔をした人びとが列をなしている。
大人たちに囲まれて、まだ十にも満たないであろう少年が、涙を流しながら、歯を食いしばって別れの寂寥に耐えている。
『さようなら、セコーンド』
そっと、少年が囁いた。
『私の義兄、そして義父であってくれた人。——偉大なる獅子王よ』
だが、いざ棺が土中に埋められようとしたまさにそのとき、ひとりの若者があらわれて乞い願った。
『この剣を——獅子王の剣を、彼と共に眠らせてやってはくださいませんか』
その腕に抱えられた白い包みに、群衆はどよめき、何人かはたじろいでひそひそと話しあった。
獅子王の剣を埋めるだと? 冗談ではない、あれは二世が遺したもののうち最も誉れ高い宝なのだ。他の一族に渡すはもちろんのこと、土中に眠らせるなんぞもってのほか。
誰か、あの男から剣を取り返せ。いやいや、それよりも、なぜあの剣がここに? 確かに地下室に隠しておいたはず……
『剣を埋める?』
泣いていた少年が涙をぬぐい、きっぱりとした声で尋ねた。『なぜだ』
『あらゆる財産、そして名誉は、すべて組織と正統後継者にのみ受け継がれることになっております』
若者は地に膝をつき、剣の包みを押し戴いた。
『しかし、この剣は、この剣だけは、いつまでも彼と共にいさせてやってほしいのです。常に混乱と戦の中に身を置き続けたボンゴレ二世にとって、この剣こそ、真の友であり、なぐさめであり、唯一無二の戦友でした。この剣を、せめてもの彼への手向けとして、どうか棺にお納めください』
『……この剣が、彼の友だというのは、まことなのだな?』
少年が若者に問いかけた。若者は頷いた。
『はい。いかにも』
『では、おまえは、この剣は彼と共にあるのが正しいと思うのだな?』
『はい』
『……おまえの言い分は分かった』
少年は頷き、命じた。『棺を開けよ!』
言葉のとおり、棺が開けられると、少年はこの若者に支えられながら、死者の胸にゆっくりと剣の包みをもたせかけた。
『——涙をお収めください、若君』
若者がそっと囁いた。
『この剣こそ、獅子王の《剣》。彼のまことの友にございます』
そう言って、若者は剣の包みに置かれた少年の手に自分の手を重ねた。少年はゆっくりと手に視線をおろし……その布に包まれたものが何であるかを理解した。
『確かに、そのようだ』
少年は笑った。
『ありがとう——……ぼくはもう泣かない。子どものようにぴいぴいわめいたりもしない。二世が、そうするなと言ったから。ぼくが彼の言いつけを守らなければ、彼も安心して眠っていられないだろうから』
……そして、ふたたび少年が面をあげて立ちあがったとき、参列者たちはぎょっとした。ついさっきまで泣きわめいていたはずの少年が、子どもらしからぬ決然とした表情を浮かべて、ぴんと立っていたからである。
『これより継承の儀を執り行う!』
少年は、高らかに宣言した。あわよくばと当主の座を狙っていた者たちは慌てふためいた。
『当主の座を空席にしてはならない』
少年はきっぱりと言いきった。
『世の指導者たちは、常に我々の組織の解体を狙っている。二世が亡くなった今、早急に次の指導者を用意する必要がある。正統なるブラッド・オブ・ボンゴレを有するは、ボンゴレ一世、ジョットの息子である私ただひとりのみ。よって、私がおまえたちの次のボスとなる。皆、異論はないな』
周囲の人びとの顔を見回し、頷くと、手を掲げて命じた。
『守護者の指輪を用意せよ! それから、ボスの証たる《罪》もだ!』
ふたたび場面が移り変わったとき、少年の姿は消えうせていた。
ひとけのない夕刻の街道に、長く伸びる二つの影。一つはあの若者、そしてもう一つは年嵩の、ほっそりとした背格好の男の影だった。
『しばらくシチリアを離れる必要があります』と、若者は言った。『欲深い者たちが剣の存在を忘れ、獅子王の剣が、子どもたちのおとぎ話の中だけに語られる一時の幻想になるまで』
布包みの上からそっと剣の柄を撫でる。
『どこへ行くべきかは、剣が語ってくれるでしょう。《闇》との契約によってもたらされた《指輪》に魂が宿るように、優れた剣にも魂が宿るもの。幸い、私にはその魂の声を聞くことができる……鞘から抜けずとも、必要なことはすべて剣が教えてくれます』
向かいあう男はしばらく眉をひそめていたが、やがて、分かった、と淡々とした調子で言った。
『それで? いつ戻るつもり?』
『分かりません。しかし、いずれは必ず。何十年後、何百年後か、私の名を継いだ者がふたたびこの地へ戻ってくるでしょう。剣を、本来あるべきところへ返すために。その時には、私も、あなたも、もはや生きてはいないでしょうが』
『だろうね』
男は少し笑ったようだった。
『——まことの獅子王の《剣》は、今も、彼と共に眠っております……』
若者はどこかに寂しげに、しかし、はっきりとした声で言った。
『その意味では、これはもはや《獅子王の剣》と呼ばれるものではないのかもしれません。しかし、剣をどのように扱うかは、その使い手が決めること。ひとまず今は、七色に煌めくこの大剣を——虹の欠片、とでも名づけておきましょう』
「……悪い」
「謝らなければならないようなことをしたのかい、コヨーテ」
コヨーテ・ヌガーはゆっくりと身体を起こした。眉間を押さえ、今しがた見たばかりの夢の情景を頭から追い払う。
「眠っていた。この緊急時に。ザンザスが行方不明だったってのに」
「無事に見つかったらしいし、もういいじゃないか。どのみち私たちは空の上にいるんだから、できることも限られている。フライトはまだまだ続くんだし、こういうときはのんびり気楽に構えているがいいさ。なんたって、地上には私の守護者がまだ四人もいるんだから」
ゆったりした口調で言って、九代目はほっほっと笑った。
「……おまえ、覚えているか」
コヨーテは静かに問いかけた。「獅子王の剣」
「ああ、あのボンゴレ二世のお話だね。ガナッシュのひいお祖父様が教えてくれた……」
九代目の目が懐かしさにゆっくりと細められる。
「もう五十年近く前になるのか。小さい頃はあれが子守唄代わりで、いつも最後まで聞けずじまいだったねえ。おまえと私、お話を聞いているうちにうとうとしていつのまにか眠ってしまっていたから」
「何の話だ?」
ビスコンティが不思議そうな顔でふり返った。
「ああ、ビスコンティ。おまえは知らなかったね。獅子王の剣——獅子王、つまり、ボンゴレ二世が持っていた剣についてのお話だよ。私がまだほんの小さかった頃、ガナッシュのひいお祖父様が子守歌代わりに毎晩聞かせてくれたんだ」
「剣? 二世は素手で戦ったんじゃないのか。ザンザス様と同じ『憤怒の炎』で」
「それがね、はっきりとは記録に残っていないんだけれど、剣をふるっていたこともあるそうなんだよ。滅多にないことだったらしいけど、剣士も恐れおののくほどの腕前だったそうでねぇ。『その剣、一振りであらゆるものをなぎ倒し、あまたの戦場を血に染める。雨の後の虹を切りだして造られたゆえに、刃は光の加減で虹色に煌き……』」
そこまで言って、急に悲しそうな顔になった。
「そういえば、その剣は今はどこにあるんだろうねぇ」
「そんなに重要なものなら、屋敷の宝物庫かどこかに仕舞われているんじゃないのか」
「どこを探しても見つからないんだよ。小さかった頃に私とコヨーテで屋敷のあちこちを探して回ったんだけどね」
九代目は小さくため息をついた。
「虹色に煌く剣、というのをどうしてもこの目で見てみたくて、お土産屋さんで買ってきたおもちゃの剣を絵の具でべたべた塗ったりしたもんだよ。ガナッシュのひいお祖父様に剣の在り処を教えてってせがんでも、それはお話を最後まで聞けば分かることです、としか言ってくれないものだからさ。結局、それからしばらくして彼が亡くなってしまったから、私は物語の結末を知らないんだよ。コヨーテも……」
「いや」
コヨーテは前を向いたまま、申し訳なさそうにそう口にした。「……知っている。オレは」
「なんだって!」
九代目が子どものようにわめいた。
「どうして教えてくれなかったんだい、コヨーテ。私が毎晩どれだけあのお話を楽しみにしていたか、知らなかったわけじゃないだろう。どうして黙っておくような真似をしたんだ」
「嬉しかったんだよ。初めて話の最後まで起きていられて、すっかり眠っているおまえの横でじいさんの話を聞いていられたことが」
コヨーテはぶつぶつと言った。
「ガキのしょぼい優越感に浸ってたんだ。もちろん、いつかは教えてやろうと思っていたさ。だが、それからすぐにじいさんが死んで、わんわん泣きわめくおまえを見ているうち、だんだん言いそびれて……忘れちまった。さっきの夢で思いだしたんだ」
「なんだい、それ」
ぷっと吹きだして、九代目は待ちきれない様子でコヨーテの顔を覗きこんだ。
「それで、どこにあるんだい? 獅子王の剣は?」
「じいさんもはっきりしたことは言ってなかったがな。二世の葬式のときに、彼の亡きがらと共に埋めたらしい。だが……」
「だが?」
「……『近しい者が布にくるんだ獅子王の剣を持ってきて、そしてこう言った。あらゆる財産や名誉はすべて組織と正統後継者にのみ受け継がれることになっています、けれどこの剣は、この剣だけは、どうかいつまでも彼と共にいさせてやってください。常に混乱と戦の中にあった彼にとって、この剣こそ、真の友であり、なぐさめであり、唯一無二の戦友なのです。
その場にいた大半がその言葉に納得し、残りは顔をしかめた。なぜなら獅子王の剣こそ、二世が遺したものの内、もっとも誉れ高いとされる彼の至宝だったからである。どうにか獅子王の剣を我がものにしようとたくらんでいた者たちは、墓を掘り起こすことさえ考えたが、その場は親族たちの手前、異論を唱えることができなかった。こうして剣は彼と共に埋められることとなった。
しかし実のところ、その布の中身は獅子王の剣とはまったくの別の剣だったのである。参列者たちは最後までこれに気づかず、真実を知る一族が、本物の獅子王の剣をいずこかに隠した——』」
かすかな余韻を残して、コヨーテは言葉を止めた。
「……どういうことだ?」
ビスコンティが尋ねた。
「近しい者が、二世のそばに獅子王の剣を置くふりをして、布地にくるんだ別の剣を埋めた。獅子王の剣は外部へ持ち出され、人びとの前から姿を消した。剣を、本来あるべきところへ——いずれ現れるであろう真の持ち主へと返すために」
コヨーテは言った。
「剣を持ちだした一族というのが、何者だったのかは知らん。記録にも残ってねぇ。獅子王の剣そのものが、ただのうわさ話に過ぎない可能性もある。だが、もし真実だったならば——そいつは、真にその剣を受け継ぐべき者が現れるその日のために、獅子王の剣を持ちだしたんだ」
「つまり、その一族というのは今もどこかで待ち続けているのかい?」
黙って聞いていた九代目が、コヨーテを見つめて囁いた。
「……獅子王の剣の、真の持ち主が現れるのを?」
(右手に燃えるは炎の黄金、左手に掴むは輝く宝剣——)
(弱きものをかばい、愚かなる者に憤怒の一撃を与える)
(その御姿はさながら獅子の如し。われら、炎を《憤怒》、その剣を《獅子王の剣》と呼んだ——)
ザンザスの手のひらに憤怒の炎が輝いた。
その手によって、今まさに抜き放たれた金色の剣、有翼の獅子の剣は、光の加減で幾色にも煌き、憤怒の炎に晒されてなお風化せず、いっそう輝きをましていく。
どんな宝石や金銀財宝にも劣らぬその輝きに、泣きじゃくっていた子どもたち、逃げまどう大人たち——ディーノも、スクアーロも、こちらへ襲いかかろうとしていたンドランゲタの一味でさえも、目を見開いて見入っている。
「剣よ」
無意識のうちに、ザンザスは呟いた。「獅子王の剣よ」
立ちすくんでいたンドランゲタの男が、ようやく我にかえり、剣を手にザンザスに向き直った。少年の持つ、異様な剣の輝きに臆さないではなかったが、自分たちのビジネスに横槍を入れる不届きものたちの抹殺という使命を思うと、この若者の恐怖心はひとまずどこかへひそんだ。彼は剣を振りかぶり、唸り声をあげてザンザスに襲いかかった。
マスクの向こうで、ザンザスの目がばっと見開かれた。闇の奥でさえ輝く真紅の瞳に、見えていないにも関わらず若者は総毛立った。汗が背中を流れ落ち、手が震え、剣先の軌道が逸れた。
ザンザスは叫んだ。
獅子が咆えるように、腹の底からこみあげてきた叫びを放った。
手の中で虹色にきらめく剣を振るう。若者の剣は軽々と吹き飛び、音をたててまっすぐに床に突き刺さった。若者の喉からひっと声が漏れた。
「こ、こいつ——」
武器を失った手があちこちさまよい、ようやく銃を掴み取る。勝利の予感に酔いしれた表情で一気に撃ちこみ、そしてその場に凍りついた。銃弾はザンザスに届く前に、彼の周りをとりまく炎でできた薄い膜に突き刺さり、飴のようにとろけたかと思うとぼろぼろと崩れて消えたのだ。
若者は今度こそ悲鳴をあげ、這いつくばるようにしてザンザスの前から逃げだした。
「逃げろ!」
戦意を失った何人かがぱらぱらと会場から走り去った。「こいつ、化け物だ!」
ザンザスは黙って彼らが去るのを待った。ブラバンダーが驚いた表情でこちらへ戻ってきた。
「行きましょう、坊ちゃん。会場前まで警察が来ているようです。ンドランゲタの始末は彼らに任せて、すぐにでもここから立ち去りましょう」
頷き、足を動かした瞬間、
「待てぇ!」
スクアーロが鋭く叫んだ。
4
「スクアーロ……」
ブラバンダーが呟いた。
スクアーロは、さっきの若者が置き残していった真剣を床から引き抜いて握りしめ、ザンザスの背中を鋭い眼光で睨みつけていた。
「まだオレとの勝負は終わっちゃいねぇ。てめぇ、逃げる気か?」
「逃げる?」
ザンザスはゆっくりとふり返った。
「オレが、逃げるだと? ……おまえから?」
制止しようとするブラバンダーを押しのけ、スクアーロと向かいあう。
「てめぇはエリオじゃねえ」
スクアーロは吐き捨てるようにそう口にした。
「オレが気づいていないとでも思ったかぁ。初戦に出場していたエリオとてめぇとじゃ、まるきり動きが違う。中身が入れ替わったか、悪魔が乗り移ったとしか思えねぇ。それに今の剣技。やはりてめぇは只者じゃねぇ。いったい何者だぁ? 名はなんという? マスクをとって、おまえの本当の名を名乗れ!」
ザンザスは答えなかった。スクアーロは苛立ったように剣を振り回した。
「答えろぉ! 答えないつもりなら……」
スクアーロが大きく剣を振りかぶり、突進してくる。
ザンザスは剣を構えた。手の中で、獅子の剣が虹色の煌きを放つ。ザンザスは唸り声と共に腕を掲げ、一息に振りおろした。
「そこまでだ」
鈍い感触がした。ザンザスははっと目を見開き、獅子の剣の刃を片手でしっかりと掴む男の姿を見た。
「テュール!」
「剣を収めなさい、ふたりとも。これ以上の諍いはこの場に混乱をもたらすだけだ」
「邪魔をするな!」
わめき、無理やり剣を引き抜こうとして、ザンザスは師の手から鮮血が滴り落ちるのに気がついた。
テュールは微笑んでいた。
「……テュール」
刃を掴んでいた手からゆっくりと力が抜けるのを感じた。ザンザスは見開いた目で師の顔を見つめたまま、そろそろと剣を下ろした。
「いい子だ。……さあ、君も」
テュールはそう言って、反対側にいる少年を見つめた。スクアーロは、鋼鉄の義手にくわえこまれた剣をどうにか取り戻そうと必死になっていた。腕を振り上げる真似をしたり、そのまま剣を振りおろそうと試みたりしているが、どんなに力を加えても、剣は手といっしょに凍りついてしまったようにぴくりともしない。
唸り声とともに腕を振りかぶろうとしたが、無駄だった。スクアーロはとうとう諦めたように息をつき、苛立ちと怯えの混じった目でテュールを見あげた。
「いい子だ」
テュールはふたたび言った。わが子を見つめるようなその眼差しを、スクアーロはぼうぜんと見つめ返した。
「もしも君が望むなら」
テュールがそっと囁いた。
「オレは、君にオレの知る全てを教えるだろう。地位、名誉、そして剣技、オレに与え得る全てのものを。今日、剣を交えた彼ともいずれまた巡りあうだろう。その時に、今日のこと、お互いのことを覚えているかは分からないけれど」
顔を寄せ、ほとんど聞こえない小さな声で言った。
「《獅子王の剣》はいずれあるべきところへ帰る。そう定められているのだから」
がやがやと騒がしい声がした。警察だ、と誰かが叫んだ。テュールはスクアーロの首すじを素早くひと打ちした。剣がからんと床に落ちた。か細い声とともに膝をついてぐったりした少年から目を背け、獅子の剣と金色の鞘を握りしめたザンザスを抱えあげて出口へ向かう。
「警察が来たぞ!」
「逃げろ、逃げろ!」
倒れていたンドランゲタの一味が慌てて起きあがろうとして、警察が投げこんできた煙幕に視界を奪われて右往左往した。そのあいだをテュールは迷うことなくすいすいと突き進んでいく。
ザンザスはテュールの肩ごしに、白煙の向こうに次第に見えなくなっていく人びとを見つめていた。
トイレから出てきて何事かと目を丸くしているエリオに、警官を押しのけて会場内に飛びこんできた母親が髪をふり乱して駆けていく。自分と同じように肩に担がれた金髪の少年が、わめきながら保護者らしき男に泣きついている。男はぽんぽんと少年の背を叩き、ほんの一瞬こちらに目をやって、小さく一礼してからどこかへ走り去っていく。
ンドランゲタたちが町の警察にしょっぴかれ、引っぱられていくのが見えた。酒瓶を振り回してわめき、警察官を手こずらせている白いひげの『親父殿』もいた。……そのそばで、剣を抱えてうなだれている白い少年の姿も。
「目を閉じていろ、ザンザス」
テュールはそう言ってザンザスを抱えこむと、軽く床を蹴った。
不思議な浮遊感に包まれ、ザンザスが思わずぎゅっと目をつむった瞬間、ガラスの砕けるような衝撃と共に、深い闇が全身を覆った。
エピローグ
「ゔお゛ぉい! 目が覚めたかぁ!」
ザンザスはゆっくりと目を開いた。
いつのまにかうとうとしていたらしい。窓辺から橙色の陽光が足もとに降りそそいでいる。途切れることなくえんえんと続くさざなみの音にまじって、何度も呼びかけていたらしい連れが不満げな声をあげた。
「驚いたぜぇ。じっとしているのに飽きて、ふいに横を見てみたら、あんた、寝入っちまってるもんだからさ。そりゃまあこう何十分も待たされるとふて寝したくなるのも分かるけどなぁ。いったいいつになったらやってくるんだ、この屋敷の主様は?」
ザンザスは隣でぶつくさ言っているスクアーロに目を向けた。
……あの日から十五年。
「あの子たちの父親は逮捕されてしまうでしょうね」
フェンシング大会の帰り道、車を運転しながらブラバンダーが心配そうに言った。
「ンドランゲタとは無関係とはいえ、賭博に関与していたのは事実。あの子どもたちも、これまでのようには暮らせないでしょう。ほかに身寄りがあるといいのですが」
「なあに、あの子たちが全寮制の学校に入学できるように手配しておくさ」
隣の席で外を眺めていたテュールがのんびりとした口調で答えた。
「お偉いさんにちょっと金を握らせておけばいいのさ。奨学金の推薦もするし、衣食住も保証する。金の心配をする暇なんか与えさせない。教養と剣術、それから不屈の心。それさえ身につけてくれれば、表に出ても恥ずかしくない剣士のできあがりというわけだ」
「ずいぶんと彼らを贔屓なさるんですね」
ブラバンダーが微笑んだ。「とりわけ、あの子がお気にいりなんでしょう?」
「オレは気にいったやつにはとことん贔屓をする性質なのさ。おまえたちにそうしたのと同じようにね」
テュールはにやりとした。ブラバンダーがくすくす笑った。
「あの子どもを、自分の跡継ぎにでもするおつもりですか?」
「そうだな。それもいいかもしれない。あの子には、そうするだけの力と才能を感じる。どうだ、ザンザス。あの子がおまえの部下になったら……ザンザス?」
その頃、ザンザスは後ろの座席で、金色の鞘と格闘していた。
何気なく剣を鞘にしまいこんだのが悪かった。引っぱってみても、押してみても、剣は鞘から抜ける気配がない。ついさっきまで、願えば応えてくれたのに、どういうわけか剣は沈黙を保ち続けている。こうなればただの剣と同じ、いや、抜けないぶん他の剣以下ではないか。
「この剣、壊れてる」
むっすりした顔で言ったザンザスに、テュールは豪快な笑いを爆発させた。
「さっきはちゃんと抜けた!」
「まあまあ。自分がどんなふうに剣を抜いたか覚えていないのか、ザンザス?」
むきになって剣をへし折ろうとするザンザスに、テュールは笑いをこらえながら言い聞かせた。
「よほど戦いに夢中だったんだろうな。まあ、おまえにもいずれ分かる時が来るだろう。その剣が何のために存在してきたのか、誰のために受け継がれてきたのか……必要な時にね」
「やあ、お待たせして申し訳ありません」
唐突に扉が開いた。
顔をあげたザンザスとスクアーロは、立ちあがるのも忘れて目を丸くした。
「お客様がいらっしゃるなんてあんまりないものだから、緊張してしまいまして。ようこそお越しくださいました、ええと……ザンザス様、そしてスクアーロ様。僕がこの家の主人である——」
テュールに似ている。
奇妙な懐かしさにとらわれて、ザンザスとスクアーロはしばらく男の顔を見つめていた。視線に気がついた男が不思議そうに尋ねた。
「僕の顔に何か?」
「いや……」
スクアーロは首をふった。
「なんでもない。ただ……少し、驚いただけだぁ」
「そうですか」
主人は頷き、それ以上続けるような話題でもないと判断したか、気を取り直した様子ではきはきと言った。
「さっそくですが、ご案内いたします。例のもののところへ」
階段を降りて、薄暗い廊下を歩いた。
厳重に封をなされた扉を何度もくぐり抜け、ようやく辿りついた小部屋に、それはあった。丁寧に巻きつけられた布を主人がめくっていくと、包みの中から虹色の煌きが溢れてきた。完全に布がとれると輝きはいっそう強くなった。主人は剣に向かって一礼するように頭を低くした。
「ボンゴレ二世の遺した至宝、『虹の欠片』でございます」
「剣だぁ」
スクアーロの顔に子どもっぽい笑みが浮かんだ。
土台から引き抜き、鞘から抜こうとして、手が止まった。引っぱっても押してもだめだとわかると、スクアーロはつまらなさそうに唇をひんまげた。
「抜けねぇ。壊れてるんじゃねえかぁ?」
「馬鹿め」
ザンザスは鼻で笑い、剣を見おろして、ふとなんともいえない感情に包まれた。
あれから、あの日から十五年。こうしてまたこの剣を眼前に見ることができるとは。
テュールが死んでから、剣はヴァリアーの保管庫におさめられていたが、クーデターのいざこざで所在がうやむやになったらしく、ザンザスが八年の眠りから目覚めたときにはすでに姿を消していた。
部下に尋ねても行方は分からなかった。持ち主以外に触れられることを嫌う、というテュールの言い分を思い出し、まさか剣は自ずから姿を消したのではないか、と訝しんだりもした。
そして——ファミリーの後継者の座をめぐる戦いに敗れ、日々を過ごしていたある日、ザンザスは夢をみた。いや、実際には夢ではなく、唐突に未来から記憶が降ってきたというべきか。
その夢の中でザンザスは亡き父・九代目の直属を謳い、ボンゴレの生死をかけてミルフィオーレファミリーとの攻防戦にのぞんでいた。
その指には《指輪》——ボンゴレ二世が遺した至宝「虹の欠片」から造られたとされる指輪があった。
その記憶を与えられてからだ。まるであの剣が己を呼んでいるように感じられるようになったのは。
剣がザンザスを真の使い手と認めたのか、それとも単なる偶然なのか——今となっては、真実は誰にも分からない。だが、ザンザスは確かに聞いたのだ。己を呼ぶ何者かの声なき声を。
声は、今こそその時だといわんばかりに、ザンザスを呼び、誘い——
そして、少年時代に追い求めた剣は、今ここにある。
ザンザスのすぐそばに。
「これを……」
抜けない剣と必死に格闘しているスクアーロはそのままに、主人がそっとザンザスに手紙を差しだした。茶色く変色してぼろぼろになった古い封筒に紙切れ一枚だけが入っている。
「テュールから受け取っていたものです」
「テュールから?」
「あなた様が剣を追い求めてきたその時にお渡しするようにと。誰がなんのために書いたかは彼も知らなかったようでしたが、きっとあなたに渡すのが正しいのだろう、と」
「手紙」
スクアーロがぽつりと言った。「なんて書かれてたんだぁ?」
「……くだらねぇ。教えるほどのことでもねぇ」
ザンザスはぶっきらぼうに言った。スクアーロは不満そうに主を睨みつけ、ふとそばに置いておいた金色の獅子の剣に触れた。鞘から抜くことはいまだできずにいたが、とにもかくにも気にいったらしい。
「なあ、この剣、オレにくれよ」
「なぜ」
「気にいったんだぁ。ここの文様、べスターにそっくりだろぉ」
スクアーロが笑った。「虹の欠片《かけら》か。こんなに綺麗なのに、溶かして指輪にしちまうなんてもったいねぇ。剣の形のままで置いておけばいいじゃねえかぁ」
ザンザスはまた鼻で笑った。もしも八年前、テュールがスクアーロに殺されていなかったら、今ごろそばで大笑いしてスクアーロに賛成していたに違いない。
(——この剣は使い手を選ぶ。真の持ち主以外に触れられることをひどく嫌う。魂をこめられた、気位の高い剣なんだよ)
(——魂? 使い手を選ぶ? それじゃあまるでその剣が生きているみたいじゃないか……)
魂とは、誰の魂なのだろうか。この剣のかつての持ち主だったという、ボンゴレ二世のものなのだろうか。それとも……。
おそらく、テュールは全てを知っていた。そんな気がした。魂とは誰のことなのか、オレがなぜ二世と同じ憤怒の炎を手にしているのか。ガナッシュが言っていた、二世のそばにいたという少年剣士はいったいどんな人物だったのか。この手紙を書き残したのが何者なのか。
手の中に握りこまれた手紙に目を落とす。
手紙には、たった一文だけが記されていた。
——いつかここへ来るであろう子どもたちと、その友へ捧ぐ。
fine.
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