「もしかして、口説いてるの?」(山本武夢)

ヴァリアーの屋敷を訪れた山本(イタリア語話せない)とスクアーロの部下(日本語話せない)の話です。
※現代編で原作終了から数ヶ月〜数年後の想定です。
※ハッピーエンドですが途中で山本がヒロインにビンタされます。

天球映写機さまの「意味深な台詞で10のお題」からタイトルをお借りしました!


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 ハナコがはじめて「サムライ」を見たのは映画の中だった。
 必要以上にものを言わず、表情を変えることもほとんどない。静かにひっそりとしているのに、刀を振るうほんの一瞬だけ俊敏になる。
 ためらいのない、堂々とした佇まいから滲みでる力強さに憧れた。

 だから――その「サムライ」が目の前に現れたとき、ハナコはただ驚くしかなかった。

 はるか遠く日本から刀をたずさえてやってきたというその少年は、人懐っこそうな笑みをうかべてヴァリアーの屋敷の庭にたったひとりで立っていた。
 気がつけば、周りにいたはずの人たちは皆こつぜんと姿を消している。皆どこに行ってしまったのかときょろきょろしているハナコを少年はしばらく黙って眺めていたが、やがておずおずと近づいてきて口を開いた。
『――!』
 何を言われたのかとっさに聞き取れなくて、ハナコは首をふった。
「ごめんなさい。……日本語、あまりよく分からないの」
 できるだけ丁寧に伝えたつもりだったが、少年もハナコのイタリア語を理解できないようで目をぱちくりさせている。ハナコはめげずに続けた。
「その……ヴァリアーは日本語も話せないといけないけど、わたしは話せないの。難しくて、どうしても覚えられなくて。わたしは生まれた時からずっとここにいるから、わたしが日本語を話せなくてもいまさら追い立ててくるような人もいないもの。だからついそのままにしちゃって……」
 そこまで喋ったところで、普段どおりのイタリア語で会話しようとしている自分に気がついて、ハナコはしゅんとした。
「ごめんなさい。何を言っているのか分からないの。わたしではどうすることもできない。代わりに誰か日本語を話せる人を連れてきたほうがいい? でも、全然知らない人よりはスクアーロ隊長がいいよね。あなたは隊長の客人なんだもの」
 無言になるのもなんだか心苦しくて独り言が多くなるハナコ。
 少年が「日本語」や「スクアーロ」という言葉に反応しているところから見るに、単語だけなら聞き取れるイタリア語もあるにはあるらしい。
 しかし、気まずさを感じているのはハナコだけなのか、少年は大きな目を輝かせてハナコの次の言葉をじっと待っている。ヴァリアーではあまり見かけることのない、少年時代特有の無垢な瞳。見つめられると妙に居心地が悪い。
「あの……あまりじろじろ見られても、困る」
 ハナコはたじろぎ、目を伏せた。
「ちょっと待ってて。思いだすから。スクアーロ隊長、この時間はどこにいるんだったか――」
 ハナコが何か考えようとしているのが分かったのか、少年はおとなしくじっと待っている。その様子が黙って主人を待ちつづける犬のようで、少し微笑ましく思えてしまう。
(――だめ、気を許しちゃ)
 ふいに緩みそうになった頬を、ハナコはきびしく引き締めた。スクアーロに連れられる形でここを訪れた彼が、ボンゴレファミリーの後継者・沢田綱吉の仲間だということはハナコも知っている。ザンザスを敗北へ追いやった沢田綱吉の仲間とあらばヴァリアーにとっては受け入れ難き存在だ。
(スクアーロ隊長が何を思ってこの少年を招いたかは知らないけれど、彼はわたしたちにとっての敵。たとえ子どもであろうとも)
 ハナコはちらりと少年を見た。
 表情はまだまだ子どもっぽいが、身長は高めで、バランスのいい体つきをしている。いかにも純粋そうな澄んだ瞳に、まじりけのない黒髪。ヴァリアーのボス・ザンザスをはじめ黒髪の男ならイタリアにもごまんといるはずなのに、この少年の黒髪には妙に神秘的な雰囲気があるように見える。
 もしかするとそれは自分がまだ彼についてほとんど何も知らないからかもしれない。数日前、スペルビ・スクアーロに連れられてここへやってきた彼が皆に紹介されたとき、ハナコは仕事でその場に居合わせていなかった。だから、詳しいことをハナコは何も知らないのだ。
 分かるのは、沢田綱吉の仲間、すなわち敵であるということ。
 ……ただ、サムライボーイ、と誰かが言っているのを聞いて、こっそり期待に胸を膨らませていただけで。
 もっとも、ハナコのその期待ははかなく打ち砕かれたわけだが。少し茶色がかった大きな目をきらきらさせて、人懐っこそうな笑みを浮かべて何も知らぬげにしているサムライボーイ。刀を持ってはいても、ハナコの知るサムライとはずいぶんと印象が異なっている。
 東洋人の子どもひとりにいったい何を期待していたのか自分でもよく分からないが、ハナコは半分裏切られたような気持ちで少年を見た。
「――とにかく」
 ふっと息をついて、あらためて少年に訴えかける。
「あなたはもう少しのあいだだけここにいて。分かる? ここで待っていてね、わたしがスペルビ・スクアーロを呼んでくるから」
 そう言い残してハナコはその場を離れようとした。
『――!』
 だが、少年の手が急に伸びてきてハナコの腕を掴んだ。ハナコはぎょっとして少年を見た。
 少年は首を振るような仕草をした。
「なに? ……行くなってこと?」
 言っていることの意味が分かったのか、雰囲気で理解したのかは定かではないが、ハナコの問いかけに少年はこくこくと頷いた。
「でも」
 ハナコは迷った。
「わたしではあなたの言葉を理解することもできない――かといって、あなたをほうっておくわけにもいかないし――」
 ハナコが困惑しているのに気づいたのか、少年ははっとしたように手の力をゆるめた。
 どうすればいいだろう、というようなもどかしそうな表情のままあちこちに視線を動かし、それからふいに意を決したような顔になると、ぎこくちなくハナコを抱き寄せ、唇に触れるだけのキスをした。
 何をされたのか一瞬理解できなかったハナコは、照れくさそうな笑みをうかべている少年の顔をまじまじと見て、
「最低!」
 乾いた音をたてて、平手が少年の頬を打った。じんじん痺れる手を握りしめて、ハナコは足早にその場を立ち去った。
 驚きと怒りがないまぜになって胸の内で荒れ狂った。
 なんて無礼な。
 あんなの、サムライでもなんでもない!

          ◇

「ああ、山本なあ。おまえに惚れたみたいだぜぇ」
 スペルビ・スクアーロは愛用の剣を脇に置いて、手入れをしていた手を止めてハナコを見た。
「一目惚れってやつだな。おまえの姿を見かけるなり、あれは誰だとオレに聞いてきやがったから、部下のハナコだと教えてやった。そういえばおまえにはまだちゃんと紹介していなかったが……それがどうかしたか?」
「いきなり話しかけられました!」
 にやにやしているスクアーロに詰め寄って、ハナコは早口にまくしたてた。
「気がついたらその場で二人きりになっていて、こちらの理解できない言葉であれこれ喋られて! どうしていいかも分からないのに、あっちはずっと笑顔で……スクアーロ隊長が事前にちゃんと紹介してくだされば、どう接するのがいいか、わたしも前もって決められたのに!」
 夜、静まりかえった邸内にその声は大きく響いた。ぜいぜいと肩で息をするハナコを一瞥して、スクアーロは眉を寄せて椅子にふんぞりかえった。
「今更ごちゃごちゃ言うな。オレが山本を隊の全員に紹介してやったとき、てめえはその場に居なかっただろうが」
「それは仕事で――」
「知りたければおまえから聞いてこい。なんで隊長格のオレがぺーぺーのおまえのためだけに時間をとってやらなきゃなんねえんだぁ」
 もっともなことを言われてハナコは黙りこんだ。
(でも、だからって、いきなりキスしてくるなんて。日本人はもっと控えめな性格だと思っていたのに!)
 さっきの出来事を思い返してみるみるうちに顔を赤くさせるハナコに気づいて、スクアーロはちょっと興味深げに身を乗りだした。
「う゛お゛ぉい、その様子だと何かあったみたいだなぁ?」
「何もありません!」
「そんな焦っておいて、何もないわけないだろうが。あのガキがおまえに何かしたのか? したんだろう?」
 ハナコは首を振った。言えるわけがなかった。キスをされたことも、その後で思いきりひっぱたいてしまったことも。
 どうせこのろくでもない上司は、子どものキスひとつでいちいち目くじら立てるなんて、ガキくせぇ女だな、などと馬鹿にしてくるに決まっているのだ。
「そうか、そりゃ残念だぁ。あの根性なしめ」
 スクアーロはちっと舌打ちした。
「根性なし?」
「オレがあいつに言ってやったんだぁ!」
 思わず聞き返したハナコに、スクアーロは怒鳴った。
「イタリアでは、キスのひとつやふたつは挨拶みたいなもんで日常茶飯事だってな。口じゃなくて頬とかにするってのは教えてやらなかったが――あの野郎、惚れた相手を前に何もできなかったのかよ」
「……スクアーロ隊長のせいだったんですね。何も知らない純粋そうな子どもに、そんな誤った知識を教えるなんて」
 ハナコはじっとりとスクアーロを睨みつけた。
「う゛お゛ぉい、やっぱり何かあったみたいだなぁ」
 スクアーロは意地悪そうににんまりした。
「あのガキならやってくれると思ったぜぇ! なんだぁ? キスされたのか? ガキ相手に赤くなって、おまえも相当ガキくせえなぁ!」
「とにかく!」
 赤くなった頬をめちゃくちゃにこすり、ハナコはぴんと姿勢を正した。「隊長の客人であるのなら、隊長がきちんとおもてなしをしてあげてください。ひとりで不用意に邸内を歩きまわられては何が起きるか分かりません。彼はあの沢田綱吉の仲間なのでしょう? 隊員たちがどう思うか――わたしも、その、少し失礼な態度をとってしまいましたし」
「分かった、分かった」
 面倒くさい、と言いたげにスクアーロは小さく両手をあげた。ハナコはため息をついた。
「それで、そのヤマモト様はいつまでここに滞在されるのですか?」
「明日だぁ。明日の午後には本部のほうへ向かう。あらためて九代目に挨拶をするそうだ。あいつが行っちまうまでに、おまえもせいぜい仲良くなっておけよ。惚れた惚れてないの話は抜きにしてもだぁ」
「どういう意味ですか?」
「おまえが言ったとおり、あいつは沢田綱吉の仲間だ。だが、ただの仲間じゃねえ。ボンゴレファミリーの将来を担う守護者様のひとり、沢田からボンゴレリングを与えられている雨の守護者だ」
 いくぶん皮肉ったような声で言った。
「それは――つまり……」
 ハナコは口ごもった。
 あのサムライボーイ――ヤマモトが、指輪争奪戦でスペルビ・スクアーロを打ち負かした張本人?
「う゛お゛ぉい、急に情けない顔になってんじゃねえ。さっきまでの勢いはどうしたぁ」
 ハナコが自分を心配そうに見ているのに気がついたのか、スクアーロは少しだけ穏やかな声になった。
「オレに気をつかってるつもりなのか知らねえが、おまえたちはまだ山本をこころよく受け入れられていないようだなぁ。ヴァリアーの人間に話しかけようとしたらどういうわけか皆逃げるんだ、って不思議そうに言ってたぜぇ。オレはいまさら気にしちゃいねえってのに」
 ハナコは、山本に話しかけられたとき、近くにいたはずの人たちがごっそりいなくなってしまっていたことを思い返した。もしかすると皆、彼を訝しんで離れていったのかもしれない。
「わたしたちには……まだまだ沢田綱吉様率いるファミリーを受け入れられるだけの気持ちの余裕はありません。話すなんてとても」
 おずおずとハナコは言った。
「それはスクアーロ隊長だって同じだったはずです。それなのに……日本から沢田綱吉の仲間を招いたというだけでもわたしたちにはかなりの衝撃だったのに、それがあの指輪争奪戦で戦った雨の守護者本人だなんて。わたしでもショックを受けているのですから、他の皆も相当驚いたと思います」
 ボスへの忠誠心が強いヴァリアーでは、ザンザスを負かした沢田綱吉率いるファミリーのことは口にするのもはばかられるようになっていた。
 たとえスクアーロ本人がどんな心持ちでいようとも、スクアーロを敗北させた山本を好ましく受け入れられる人間はそう多くない。今はまだ。
「そうだなあ。オレが山本を紹介するのを、信じられないような目で見てる奴もいた」
 スクアーロは静かに言った。
「だが、名目はどうあれ一度は開かれた沢田の継承式に臨み、復讐者たちとの戦いでは一応の共闘もした。オレとて指輪争奪戦での勝ち負けにいつまでもこだわってるわけにはいかねえ」
 スクアーロはハナコの頭にぽんと手を置いた。
「オレがもういいと言っているんだから、おまえたちぺーぺーは何も気にしなくていい。オレのためを思ってるってんなら、その気持ちだけありがたく貰っておくぜぇ」
「スクアーロ隊長……」
 ハナコはスクアーロを見つめた。
 ――彼は変わった。
 ちょっと前までは、部下に対してこんなことを口にする人ではなかった。もっと怒りっぽくギスギスしていて、口を開けばいかにもプライドが高そうな自信たっぷりの発言ばかりだった。
 だが、指輪争奪戦での敗北を気にしてザンザスと一緒にくすぶっているふうだったはずのスクアーロは、ある日「未来の記憶」が降りてきたとかなんとか言って、急にものわかりのいい大人になってしまった。まるで内面だけ五年も十年も歳を取ったみたいに。
 いや、もしかすると彼が変わったのはその「未来の記憶」とやらのせいだけではないかもしれない。戦いを経るたびにスクアーロは変わっていった。継承式から戻ってきたときも、アルコバレーノをめぐる代理戦争から心臓を失うという衝撃の姿で帰還したときにも、以前の彼とは何かが違っていた。
 指輪争奪戦で自分を負かした相手を客人として招くという行動自体、彼が変わった証拠だ。あのプライドの高いスペルビ・スクアーロがそんなことをするだなんていったい誰が想像しただろう?
 根っこの部分は今でもハナコの知っているスクアーロと同じだし、まだまだ若くて年齢相応の行動をすることが大半だが、こんなふうにふいに大人びた余裕を見せる。そんなスクアーロを前にすると、自分だけ取り残されているような気がしてハナコは妙に不安になる。
 ――スクアーロ隊長は変わってしまった。
 でも、それも悪いことばかりではない。彼はきっとそうすることで前へ進もうとしているのだ。
「まあ、ここの連中にこころよく受け入れてもらえないからって、あのガキはそれでいじけるようなタマじゃねえ。そのうちあいつが自分自身の力でどうにかするだろうさ。そういう力のある奴だ、あいつは」
 ぐしゃぐしゃとハナコの頭を撫でて、スクアーロは笑った。
「ハナコ、おまえも気をつけろよ。山本はおまえに惚れてるんだぁ、何をしでかすか分からねえぞぉ? おまえの憧れの『サムライ』のように、すぱっと斬りこんでくるかもしれねえからな!」
「……はい」
 ハナコは微笑んだ。「わたしも変わらなくては。彼に、ヤマモト様にちゃんと謝らないと」
「謝る?」
「こっちの話です!」
 わざとつんとしてみせ、ハナコはスクアーロの手の下から抜け出した。
「ちょっとヤマモト様のところへ行ってきます」
「う゛お゛ぉい、あいつなら部屋には戻ってないみたいだぞぉ。そのへんをうろついているんじゃねえか。もしかするとおまえを探してるのかもなぁ」

          ◇

 スクアーロの部屋を出たハナコは、扉を閉めてふっと息をついた。
(……驚いた。あの少年が沢田綱吉の雨の守護者だったなんて)
 守護者といえばボンゴレファミリーでもボスや門外顧問に次ぐ権力の持ち主だ。九代目の雨の守護者ブラバンダー・シュニッテンの後任にあたることになる。
 それほどの人物を平手で打ったという事実に今更のように思いあたり、ハナコは心臓を絞りあげられるような心地を味わった。思わず自分の手を見下ろす。どれほど強烈な力をこめたか思いだせない。
(彼に謝らないと。嫌な気持ちにさせてしまったかもしれない。頬が腫れて、痛い思いをさせているかも)
 雨の守護者というからには相当強いのだろう。
 だけど、雨の守護者である前に、彼はまだ子どもなのだ。
 サムライがあれほど強くてかっこよく堂々として見えるのは、きっとそれが本や映画の中でそういうふうに描かれているからだ。本物のサムライは、痛がりもすれば、傷つけられれば辛い思いもする、ひとりの人間なのだ。
 あの少年だって――叩かれたら痛いにきまってる。
 確かに彼は礼を欠いた行為をしたかもしれない。だが、だからといって怒りにまかせて手を出すべきではなかった。イタリア語も満足に話せないのに必死に声をかけようとしてくれた年下の少年に対して、もっとしてあげられることがあったのではないか?
(それが何だったのかは――今の自分には分からないけれど……)
 そのときだった。
 廊下の奥できらっと青白い何かが光ったように見えた。ハナコははっとして顔をあげ、ものすごい勢いでこちらの方向へ走りこんでくる毛むくじゃらの動物らしき姿を認めた。
「わっ!」
 ぎょっとして飛びのきそうになったが、それは速度をゆるめてハナコの足元でぴたりと止まった。見れば、ぴんと耳を立たせた中型犬が、はふはふ息をしながら青い目でじっとこちらを見あげている。
 額に妙な三角形の宝石のようなものがはめこまれており、耳からは青っぽい光のようなものが放出されている。どうやらこれがさっき何かが光ったように見えた原因らしい。首の周りに金属の飾りがついていたり、胴体に何か引っかけられそうな太いベルトのようなものを巻いていたりと不思議な装いをしているが、姿かたちは犬そのものだ。
「あなた……どこから来たの? ここの飼い犬ではないよね?」
 イタリアではあまり見ることのない犬種だったが、テレビや映画で何度か見かけたような気がする。ハナコがしゃがんで目をあわせ、そっと手の甲を差し出すと、くんくんにおいをかいで、ふさふさした尻尾を元気よく振りはじめた。ハナコはにっこりして、犬の胸あたりに手を差し伸ばして優しく撫でてやった。
『ジロウ!』
 ハナコはぎくりとしてその場に固まった。
 廊下の向こうから、あの少年――山本がこちらに気がついて駆け寄ってくるところだった。
『ジロウ! ――!』
 どうやらジロウというのがこの犬の名前らしい。
 そばへ来てしゃがみこみ、ハナコのほうへ寄っていこうとするジロウを抱えるようにして引き留めながら、山本はまたハナコには分からない言葉で何かを喋りはじめた。
「この子、あなたの犬……なの? ジロウ?」
 おずおずと尋ねたハナコに少年は一瞬驚いたように動きを止めた。それから嬉しそうに頷き、『ジロウ』と何度も繰り返しながら犬の肩をぽんぽん叩いた。
 その頬は少し腫れて赤っぽくなっている。ハナコがどうすることもできずにじっと見つめていると、山本は気がついたように口を閉じ、ハナコの視線を目で追いかけて自分の腫れた頬に手をあてた。
「……大丈夫……慣れてる」
 ハナコは目をぱちくりさせて山本を見た。彼の口から飛びだしてきたのは、つたないながらも、ハナコのよく知るイタリア語だった。
「大丈夫」
 安心させるようにもう一度言って、山本はハナコを見つめ返した。
「……それより……悪かった――ごめん。ごめんな」
「そ、そんな……わたしこそとんだご無礼を! 申し訳ございません!」
 頭を下げてうなだれている山本に、ハナコは慌ててすがりついた。
「悪いのはわたしのほうです。何も知らないあなたをいきなり攻撃してしまった。あなたはスクアーロ隊長に騙されてしまっていただけなのに……ええと、こんな時、日本語だったらなんて言ったらよかったのかな……その……『ごめんなさい』」
 山本がぱっと顔をあげてハナコを見た。ハナコはどぎまぎしながら同じ言葉を繰り返した。
「『ごめんなさい』……痛かったですよね。医者に診てもらいましょう。きちんと冷やさないと」
『――!』
 山本は日本語でなにごとか叫んで、ぶんぶんと首を振った。
 大丈夫、とでもいうのだろうか?
 戸惑うハナコに、ちょっと待って、なのか、そこにいて、なのか、そういうようなことを身振り手振りで伝えると、後ろに手をやって、隠していたものをさっとハナコに差しだした。
「……花?」
 ハナコは呟いた。
 どこからか摘んできたのか、それともどこかで買ってきたのか、一輪のオレンジ色の花が少年の手の中でつつましげに揺れていた。
「これを……わたしに?」
 イタリア語だったが、意図は伝わったらしい。山本はこくりとうなずくと、ハナコの髪に手を伸ばした。反射的に少し身をすくませたハナコに、安心させるように微笑んでみせてから、髪のあいだにそっと花を差しこむ。
 ハナコは手をあげて髪に触れた。夏の花のいい香りがする。
「……似合ってる。きれいだ。すごく」
 山本は単語だけで切れ切れにそう話すと、目を見開いているハナコに笑いかけた。
「オレは、イタリア語、まだ分かってない。だけど……あんたがここにいるなら勉強する。もっと」
 ここでは見るのもめずらしい、まばゆいばかりの笑顔。ハナコは誘われるように手を伸ばし、少年の日に焼けた頬に触れた。とたんに緊張して固く引き結ばれた唇の端に、そっと自分の唇をあてる。
「『ありがとうございます』……ヤマモト様」
 みるみるうちに少年の頬が赤くなった。
『――』
 小さな声で何事か呟き、それきり照れくさそうに目を伏せて黙りこむ。
 ハナコは少年をじっと見つめた。もっと何か言ってあげたいのに、何も言葉が出てこない。言いたいことを伝えられないのがこんなにももどかしいなんて。
 ――この少年も、こんな気分だったのかな。初めて声をかけてくれたとき、何か言いたげにもどかしそうにしていた。
 それでも彼は自分の好意を伝えようとしてくれた。
 イタリア語は話せないから、思う気持ちを自分の行動につめて。
 彼が示してくれたとおり、言葉がなくても思いを伝えることはできる。だけど言葉があれば、また別の形で思いを伝えられるような気がする……
「わたし――日本語を勉強しますね」
 ハナコは言った。
 日本語、という単語に山本がぴくりと反応する。
「あなたのことをどう思っているかは自分でもまだ分からないけれど……あなたのことをもっと知りたい。理解したい。そうしようとすることが、きっとあなたのために今のわたしができることなのだと思う。ちゃんと勉強して、あなたの国の言葉で、わたし自身の思いをあなたに伝える」
 ハナコは山本の手をぎゅっと握った。
「何年かかるか分からないけれど、かならずやり遂げてみせます。だからあなたも、この国の言葉でわたしに語ってください。何を好きで、何を感じているのか。家族のこと、友達のこと――夢のこと。あなたの大切なファミリーのことも」
 おそらく、話しかけた内容はひとつも伝わっていないのだろう。
 それでも山本は黙って最後まで聞き、頷いて、嬉しそうに手を握り返してくれた。ハナコは急に胸の奥が熱くなるのを感じ、こみあげてきた思いをこらえるように顔を伏せた。繋いだ手にぎゅっと力がこもる。
「『ありがとうございます』」
「……ハナコ」
 山本がふいにあらたまったような表情になった。
 ハナコは顔をあげた。
「オレは……その」
 イタリア語でどう言えばいいかを考えているのか、しきりに口をもごもごさせている。ハナコは笑った。
「日本語でも大丈夫ですよ、ヤマモト様」
 日本語、という単語にほっとしたような笑みをうかべて、あらためて何か言いかけた山本に、二人の間で尻尾を振ってなりゆきを見守っていた次郎が急に勢いよく飛びついた。山本が悲鳴のような笑い声をあげて床に寝っ転がる。
「う゛お゛ぉい、うるさいぞぉ!」
 部屋の前で騒がしくしているのが気に障ったらしいスクアーロが、剣を片手に勢いよく扉を開けて出てきた。次郎とたわむれている山本と、そのそばにしゃがみこんでいるハナコを見て、はりきって出てきた自分が馬鹿らしくなったように一気に気の抜けた表情になる。
「おまえたちかぁ。オレの部屋の前で何してんだぁ」
「スクアーロ隊長」
「ハナコ、おまえ――」
 スクアーロは立ちあがったハナコの髪に飾られたオレンジ色の花の存在に気がついて、にやりとした。
「山本ぉ、オレの部下に手を出すとはいい度胸じゃねえか。さしずめ『サムライ』のように、すぱっと斬りこんでやったのかあ? どんな手を使ったか知らねえが、おとなしいように見えてこいつはとんだじゃじゃ馬だぞぉ!」
「スクアーロ隊長!」
 ハナコは思わずスクアーロにつっかかりそうになったが、当の山本はイタリア語が理解できずに何を言われたのかさっぱり分かっていないようだ。仕方なくスクアーロは日本語に切り替えてべらべらと喋りはじめた。
『う゛お゛ぉい、――おまえ――あれは――! こいつは――だぁ!』
『スクアーロ、それって――なのか?』
「ス、スクアーロ隊長……? いったい何を説明なさっているんです!?」
 今度はハナコが置いてけぼりを喰らう形になった。スクアーロが何か言うたび、山本は真面目な顔になったり急に赤くなったりとめまぐるしく表情を変える。目の前で繰り広げられる問答に口をはさむこともできず立ち尽くすしかないハナコの足元に、次郎がふんふん鼻を鳴らしながらぴたりと寄り添った。
「う゛お゛ぉい、もしかして口説いてんのかぁ? その台詞で? 日本語でか? だめだぁ、こいつには絶対理解できねえ! ――う゛お゛ぉい、オルタ! いまオレたちが何を話していたか分かったか?」
 興奮して途中からイタリア語に戻っていたスクアーロがハナコに尋ねた。ハナコは呟いた。
「分かりません……」
「残念だなぁ、う゛お゛ぉい! 意味分かんねえってよ!」
 またもイタリア語で叫んでばしっと山本の肩を叩くスクアーロ。
「おまえもイタリア語でこいつを口説けりゃ、こんなまどろっこしい思いをせずに済んだだろうに。野球にばっか熱を上げてないで、イタリア語の勉強もしておくべきだったなぁ! 次に来るときまでにはイタリア語のひとつやふたつ覚えておけえ!」
 どこか面白がっているふうなスクアーロと、座りこんだまま照れたような表情をしている山本を見て、ハナコは自分が今まで日本語の勉強をさぼってきたことを心底後悔した。
(でも……)
 今は分からなくても、きっと分かるようになる。 
 決めたのだ。わたしは彼の国の言葉を学ぶ。
 次にこの少年がイタリアを訪れる時には、わたしはたどたどしいながらも日本語を少し理解して話せるようになっているだろう。
 そして、きっとこの少年も慣れないイタリア語で自分のことをひとつひとつ語ってくれるはずだ。
 ……もしかしたら、愛の言葉も。
「う゛お゛ぉい、ハナコ」
 気がついたスクアーロがハナコを見てにやっと笑った。
「イイ顔するようになったじゃねえか。急にどうした?」
「次の目標を見つけました」
 ハナコは髪に飾られたオレンジ色の花にそっと触れた。
「今ならわたしも変われるような気がします。今すぐにではないけれど、スクアーロ隊長が変わったように――きっと、わたしも」
 じっとこちらを見ている山本と目があって、どちらからともなく微笑み合う。スクアーロは部下とはるか日本からやってきた小さな剣士を見くらべて、満足そうな笑い声をあげた。

     おわり

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