死んでも言わない(ボンゴレ一世/ジョット夢)

運命の為にシチリアを発とうとするジョットを追いかける女。残された彼の妻子、そして彼の弟の為、なんとか彼を引きとめようと試みるが……という捏造しまくりの話。
※ボンゴレ1世と2世は兄弟という設定
※妻→←ボンゴレ1世(兄)→←ヒロイン←ボンゴレ2世(弟)というドロドロ?した関係

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 森が開け、切り立った崖の遥か下方に光が見えた。
 船だ。
 激しい雨風のために、甲板に掲げられたカンテラが縦に横にひっきりなしに揺れている。急な岩場に無理やり接岸していることもあり、その中型船は今にも波にもまれて壊れてしまいそうに見えた。
 崖沿いの下り道を月毛馬に乗って駆け抜けながら、ハナコは手綱を握りしめる手に力をこめる。胸の中にあるのは怒り。それだけだ。
 <彼>が守護者のうち数人を引き連れて出ていったと聞かされたあの時から、彼に対する敬慕も愛情もすべて怒りに変わってしまった。許さない、許せないのは、あの男――ジョット。
(絶対に許さない)
 暗闇の中を、ハナコはまっしぐらに駆け下りていく。
 
    1
 
『僕はいつかここを出ていかねばならないから』
 いつか、ジョットがそんなことを言い出した時があった。
 確か、まだ六つか七つで、会うたびに親に内緒で裏手の森へこっそり忍びこんでいたあの頃だ。
 将来のためを思って家令はいっしょに遊ばないようこっぴどくいって聞かせたのだが、互いの両親も奔放でそういうことをあまり気にしなかったし、何より小さな子どもたちに貴族の企みやはかりごとのうんぬんが理解できるはずもない。子どもたちはしばしば森の茂みの下にもぐりこんで鼻先を突きあわせながら、子どもらしい夢や理想を延々と語りあった。
『だからその時には、あの城やこの小さな弟のことは君に任せるよ、ハナコ。君はしっかりしているからきっと任せて大丈夫だろうと思う。特に弟のことは』
 ジョットがちらりと視線を向けた先では、彼の弟が肘をつきながら目をぱちくりさせている。しっかり者で大人びている兄とくらべて弟は身体も小さく病気がちで、歳の割に子どもじみていつも兄の後ろをついて回っていた。おそらく兄が何を言ったのかもあまり理解できていないのだろう、碧の目を大きく見開かせたまま、兄とその友人の少女を交互に見つめている。
『まあ、どうしてあなたが出ていかなければならないの、ジョット』
 小さなハナコはわざとらしく頬をふくらませた。
『あなたはあのお城の当主様になるんでしょう。あなたのお父様だってそのことを望んでいるはずよ。歳の離れたわたしのお兄様だってもうじきお父様の跡を継ぐと言っていたもの。あなた、おじい様たちから受け継いだ家はどうするつもりなの?』
『それでも僕は出ていかなければならないんだよ、ハナコ。それは僕の意志であり、運命なんだ』
 ハナコはジョットが大好きだったが、彼のこういうところは大嫌いだった。
 ことあるごとに運命だなんだといって大事なことをはぐらかす。まるでなんでも知ってるみたいにふるまって、大切なことは何ひとつ教えてくれない。
『……どうしても出ていくというなら、わたしも連れていって、ジョット』
 それが、小さなハナコに出来たせいいっぱいの抵抗だった。
 ジョットはじっとハナコを見つめた。ハナコもジョットを見返した。
『――それはできないよ、ハナコ』
 しばらくして、ジョットは静かに言った。
『君には君のやるべきことがある。それはここで成されるべきことで、僕のそばにいて叶うものではないから』
『もういい。ジョットの分からず屋。ジョットなんて大っきらい! 行こう!』
 ハナコは叫び、彼の弟の手をひっつかんで茂みから抜け出した。靴やドレスが泥だらけになるのも構わずに全速力で森を駆け抜ける。
『ハナコ、どうしたの?』
 ひっぱられたままついてきている、ジョットの小さな弟が言った。
『どうしたの、ハナコ……泣いてるの?』
『泣いてない!』
 むきになってハナコは叫んだ。『泣いてなんかないわ。わたしは貴族の娘よ。あんなことで泣くわけないでしょう。あれだけのことで泣くなんて、そっちの方がどうかしてる』
『でも、泣いてる』
 後ろから気遣わしげな声がした。
『泣いてるよ、ハナコは』
 ゆっくりと、足が止まった。ハナコはぺたりと地面に座りこんだ。
 森の中をふり返る。自分たち以外に人影が動く気配はない。
 本当は、ジョットに追いかけてきてほしかったのに……。
 ――やっぱり、ジョットはわたしのことなんてどうでもいいんだ。
 一度浮かんだその考えは、驚くほど重く心にのしかかってきた。ハナコは熱くなってきた目元を慌ててこすった。涙がにじみ、泥だらけのドレスにぽつぽつと丸いしみをつくった。
 前に回りこんできた少年が『大丈夫?』と声をかける。
 ハナコは音をたてて息を吸い込み、目の前の小さな肩に額を押しつけた。
 
 結局、あれからハナコは修道院に預けられてしまったし、ふたたびこの地に帰ってきた時には、ジョットには別の貴族の娘が寄り添っていた。彼らは結婚し、やがて妻は子をみごもった。
 ハナコはやり場のない気持ちをぶつけるように毎日馬に乗り、男のような格好をして、たびたびやってくるなんとかとかいう貴族の男たちとの見合い話を断り続けた。そういう話は姉様たちに任せておけばいいのだ。わたしはわたしの道を行く。
 そうして、ハナコは家を飛び出してジョットの元へやってきた。
 貴族の圧政に苦しめられる小作人たちを救おうと、貴族でありながら家を捨てて小さな自警団を創ろうしていたジョットたち兄弟の夢を現実のものにするために。
 
 昔からずっとジョットは追いかけられる側だった。そしてハナコは追いかける側。
 ジョットが追いかけてきてくれたことは一度もない。
 そのことに思いあたって、ハナコは唇を噛んだ。結局、振り回されていたのはいつも自分だったのだ。あんな男のことを好きだった自分が愚かしい。小さな時から、彼が別の女性と結婚してもずっと――彼の突然の出立が判明するその瞬間まで、あの男のことを心から愛していた自分の存在を消してしまいたい。
 ――けれども、とハナコは思う。
 けれども、昔のジョットにはまだ誠実さというものがあった。少なくとも、自分の妻子を置いて家を出ていくような情けない男ではなかった。昔は、だ。
 まさか彼が小さかった頃の言葉どおりに島を出ていこうとするとは誰も思いもしなかっただろう。いまやジョットにひけをとらぬ立派な男に成長した弟も、怒りと困惑がごっちゃになった複雑な表情をしていた。
「あいつはいったいどういうつもりなんだ。自分の妻と子を置いていくなど理解できん!」
 途中まで共に馬を走らせていた彼は、激しい怒りを抑えつけることもしなかった。
「それも、子はまだ生まれたばかり。赤子も同然だ! 出産の疲れも癒えない奥方と、自らの子を置いて出ていくような情けない男だったとは、見損なったぞ、ジョット!」
 そう言って彼は港の方へ馬を走らせていった。そこにジョットがいないと分かればすぐにでもこちらへ向かってくるに違いない。
 自らが生み出したボンゴレという組織と妻子を置いて、シチリアを発とうとしている兄、ジョットへの怒りを憤怒の炎に変えて。
 彼もまた、見たのだろう。悲しみのあまり声もなく寝台に伏せるジョットの妻と、降りかかる運命の過酷さも知らぬげに、揺りかごの中ですやすやと寝息をたてる生まれたばかりのその赤子を。
 ハナコにとって彼女は守るべき人であり、親友であった。時々は嫉妬に駆られることもあったが、心優しく美しい彼女のそばにいると心が安らぐのを感じたし、あのジョットが選んだ女性だからこそ守りたかった。ジョットに対する自分の気持ちを一生隠し通すことになったとしても。
 それがまさか、ジョット自ら彼女を突き放すことになろうとは――。
 ジョットを慕って集まってきた者たちの心はいまや失望と嘆きに満ちている。敬愛するその人が自分たちを置いて出ていってしまったことを認められず、誰に向けていいかも分からない怒りと悲しみを自分の心に抱えたままでいる。
「……絶対に許さない、ジョット――!」
 ハナコは歯ぎしりした。馬の横腹を蹴り、ぐんと速度を上げる。
 雨がいっそう激しくなってきた。横殴りの風が吹きつけ、身にまとうローブが激しくたなびいた。泥土を跳ねあげながら馬は崖沿いの道を一気に駆け下りる。さっきよりも間近に迫ってきた揺れる船体を横目に眺め、ふたたび道沿いに森の中へ飛びこんだ。暗くなった視界にハナコが思わず手綱を握りしめたその時、ふと、自分のものとは別の馬の蹄の音が聞こえてきた。ひとつではない。二つ、三つ、四つ――激しく土を蹴りつけている。
 視界の先にちらりと動くものが見えた。
「止まれ!」
 ハナコは叫んだ。
「この声が聞こえているなら止まれ、ジョット! わたしはあなた方を呼び戻しに来た!」
 前を行く四頭の馬はゆっくりと速度をゆるめ、やがて足を止めた。乗り手たちは手綱を引いて後ろを向いた。
 ハナコも馬を止めて男たちを真正面から見据えた。
「おまえたちは先へ」上着のフードを目深に引き下ろした後ろの男が片手をあげて促した。彼の乗る純白の馬は、主人の言葉に忠実に一歩を踏み出した。
「彼女と話がしたい。皆は先に船へ向かっていてくれ」
「しかし、ジョット……!」
 栗毛の馬にまたがる、僧服をまとった男がためらいがちに声をあげた。「彼女は私たちを……いえ、あなたを引きとめにきたのに。どうなさるおつもりですか」
「心配してやる必要はないよ」
 青鹿毛の馬に乗る男が静かに口をはさんだ。
「どうせ誰にも止められやしないさ。彼は一度決めたことは絶対にくつがえさないからね」
「確かにそうだ」
 まだら馬の男が、場の緊張を突き崩すようなほがらかな笑い声をあげた。「行こう!」
 まだら馬を先頭に、栗毛、青鹿毛が続く。三馬とその乗り手たちは闇の中へ消え、やがてその足音も聞こえなくなった。
「……いいかげん、ちゃんと顔を見せなさい。ジョット」
 ハナコは言った。
「いつまで顔を背けているつもり。相手の目を見て話せとわたしに教えたのは、ジョット、あなただったはずよ」
「分かった」
 男はゆっくりとフードを持ちあげた。かすかに笑みを浮かべた唇と高い鼻が、そして、金色に輝く眼、癖のある髪があらわになった。雨風にさらされた顔はそれでも微笑を崩さず、むしろさっきよりもずっと笑みを深めてハナコを見つめた。
「これでいいか、ハナコ」
「ええ。まあいいわ」
 ハナコは満足げにジョットの顔を眺めた。
「わたしがここまで来た理由を知らないわけじゃないでしょうから言っておくけど、途中であなたの親友に会ったわ。それとランポウにも。追手を行かせないためにわざわざ彼らを用意しておいたのね。厄介なデイモンは予想通り来てなかったから、無理やり突破してやったけど。ランポウなんて、あなたの弟に自分の馬の横腹を蹴られて、馬といっしょに森の方へすっとんでいったわよ」
「そうか」
「ちょっと、何笑ってるのよ」
 目を細めてくすくす笑うジョットを、ハナコはきつく睨みつけた。
「私はあなたと笑い話をするためにここまで来たわけじゃないのよ。それで? 何かわたしに言いたいことはないの?」
「ハナコは私を引きとめに来てくれた」
 微笑を浮かべたまま、確かめるようにジョットは言った。
「そのことには感謝しているし、ハナコが私を慕ってくれていることも分かる。だが、私は行かねばならない。それが」
「それが、あなたの運命だから?」
 口をはさんで先手を打ったハナコにジョットはほんの一瞬だけ目を見開いた。それから静かにうなずいた。
「そう。それは運命であり、私の意志でもある。私はただ、いずれ訪れるであろう刻に備え、自分にできることをしようとしているだけのこと」
「……何を言っているのか分からない」
 ハナコは苛々と頭をふった。
 彼はまたいつものように大切なことをごまかそうとしているのだと思った。小さかったあの頃を思いだし、ハナコは唇を噛んだ。もう昔のようにはいかない。わたしは逃げない。彼を行かせもしない。絶対に。
 それが、彼の弟や妻子のためにもなるのだから。
「あなたが自分の運命について深く考えていることは知ってるわ、ジョット」
 ハナコは手綱を引き、慎重に馬を寄せた。
「昔からずっとそうだったものね。あなたはいつも自分の運命のことばかりを気にしてた。でも、それだけではあなたが妻や子どもを置いていく理由にはならない。自分の理想のためになら他人を犠牲にしてもいいというの?」
「そんなことはない」
 ジョットもゆっくりと近づいてきた。月毛馬と純白馬は身を寄せあい、雨でびしょびしょになった頭をさしのばして互いのにおいを嗅ぎあった。
「彼女を愛しているし、自分が彼女に愛されていることも知っている。腕に抱いた子の確かな重みが、なにより心を落ちつかせてくれることも。あれが家族というものなのだろう。結婚し、家庭を持って、名誉と富を築いて――……普通の夫婦であれば、そうだったのかもしれない。だが、私と彼女はそうではなかった。妻である以上に、彼女は戦友だった。これから訪れるであろう過酷な運命を戦い抜き、子へ、孫へ、過去と今と、そして未来をつなげていくための」
「でも彼女、泣いてたわ」
「泣くこともあるだろう。だが、きっと分かってくれる」
「子どもはどうするの? あの子だってあなたの帰りを待っているのよ」
「置いていかねばならぬことは本当に心苦しく思っている。だが、あの子もいつか分かってくれるだろう。なぜ父は自分を置いて出たのか。彼もまた、自らの運命に気づく日が来るだろうから」
「運命? またそれなの?」
 ハナコは愕然とした。
 失望に似た思いが胸を駆け抜け、それからわきあがってきたのは途方もない怒りだった。
「そうやってまた、はぐらかすのね! あなたは卑怯だわ!」
 興奮した月毛馬がブルルと鼻を鳴らし、純白馬が後ずさる。ハナコは身を乗りだしてジョットの服のはしをつかもうと躍起になった。
 だが、純白の馬は主の命令がなくてもひょいひょいと勝手に移動し、ハナコの手を寸のところでかわす。逃げているというより遊んでいるようであり、そして、遊ばれているのはハナコの方なのだった。
 馬の背でジョットも笑い声をあげている。ハナコは悔しさと恥ずかしさで顔が真っ赤にほてるのを感じた。
「待て、逃げるな! 逃げるなと言ったら……あ!」
 むきになって無理に方向転換しようとした時、ぐらりと身体がかしいだ。
 馬が甲高い声をあげて背を反らす。ハナコはとっさに頭をかばい、雨水のたまった泥の上に背中から落ちた。
 興奮しきった月毛馬が前足を高く振りあおぐ。痛みにあえぎながら顔をあげ、ハナコは自分の真上にかかる大きな太い前足を見た。
 思わず目を閉じようとした瞬間、馬からすべり降りたジョットが眼前に飛びこんできた。背中に腕が回り、身体がふっと宙に浮いたと感じた瞬間、直前までいた場所に凶器にも似た馬の蹄が音をたてて食い込んだ。大量の泥と土が跳ねあがり、視界を黒く塗りつぶした。
「危ない、ジョット!」
 ハナコが悲鳴をあげた瞬間、ジョットは自分の腕の中へぐっとハナコを抱きこんだ。
 そしてふたたび馬の足が持ちあがるよりも早く、まっすぐに伸ばした手で暴れる月毛馬に触れた。
 
     2
 
 一瞬の静寂があった。
 馬の身体がぴくりと止まり、その瞳がゆっくりとまばたいたかと思われた瞬間、馬は、持ちあげようとしていた足をそっと地面に下ろした。甘えるような鳴き声をたてながらジョットの肩に鼻先をこすりつける。
「どうなったの――ジョット――ジョット?」
 ジョットの腕の中でかたく目を閉ざしていたハナコはそろそろとまぶたを押しあげ、眼前に飛びこんできた馬の鼻面にぎょっとした。
 すっかりおとなしくなった自分の月毛馬が、鼻先をつっこんできてふんふんとにおいをかいでいた。後ろにはあの白馬もいる。
 目線をあげて、ジョットを見る。優しい顔をして馬の顔を撫でてやっている。
「ジョット」
 ハナコは呟いた。
「あなた……わたしを守ってくれたの?」
 ジョットはゆっくりとこちらに顔を向けた。笑っている。顔も、服も、跳ねた泥と雨水でいっぱいだ。
「その……ありがとう、ジョット……――ジョット?」
 自分を抱く腕にぐっと力がこもったのを感じてハナコは顔をあげた。雨風からかばってくれているのかとも思ったが、何か様子が違う。
「久しぶりだ。こんなふうに近くに寄ったのは。おまえが修道院に行くよりもずっと前、まだ森の中で弟と三人、転げまわっていた頃を思い出す」
 言われて初めて、ハナコは自分が男のそばにいるのに思いあたって顔を赤くした。思わず払いのけようとしたが、腕にこもる彼の力はますます強くなってハナコを押さえつけた。
「ちょっと」
 金色の頭が自分の肩にもたれるのを感じた。困惑してハナコはささやいた。
「何してるの? 助けてもらったことには感謝してる――でもわたし、あなたを引きとめにきたのよ――こんなことをしたいんじゃなくて、その、ジョット? わたし――」
「もうしばらくこうしていたい」
「ジョット?」
 彼が何をしたいのかちっとも分からない。しばらくこのままにさせておけばいつか満足して離れてくれるだろうか。
 その考えは、ジョットがハナコをいっそう近くに引き寄せようとしたことでもろくも吹き飛んだ。突然手足をふりまわして暴れはじめたハナコに月毛馬も白馬もよろよろと後退する。雨風にさらされながら、二人の身体は泥の上で激しくもつれあった。
「ジョット、やめて。何やってるの。離して!」
「ハナコ」
 ハナコははっとしてジョットを見つめた。
「昔のようにおまえと過ごせたらと思っていた。幼かったあの頃のように、おまえのそばで、こんなふうに」
「……やめて」
 怖くなって、ハナコは呟いた。その先を聞くことを心が拒否していた。
「やめてよ、ジョット。もう何も言わないで。お願いだから」
「本当はずっとこうしたかったのかもしれない。妻を愛してなかったわけではない。愛していたし、愛されていたことも知っている。それでも、心のどこかでずっと、ハナコのことを諦められないでいる自分がいるのにも気がついていた」
「やめてってば!」
 悲鳴のように叫んで、ハナコは必死になってジョットの胸を押し返した。
「私はおまえを愛している、ハナコ」
 ふっと風がやんだような気がした。
 ハナコはまっすぐに自分を見つめる金色の瞳を見た。
「もし、同じ想いを抱いているなら、私を受け入れてほしい。私と共に、日本へ」
 言い終わらないうちに、腕がきつくハナコを抱いた。
 ハナコはその腕を解こうとして、自分の手にこめられた力がさっきよりも弱まっているのに気がついた。
 いけない、こんなことがあってはならない、頭の中では誰かがずっとそう叫んでいる。昔ならまだしも、自分も彼ももう大人だ。ましてや、結婚して子どもまでいる彼にこんなふうに近づくなんて、彼の妻に対する裏切りにほかならない。
 だがそう思う反面、心のどこかでどうしようもなく喜びを感じている自分がいるのもまた確かだった。
 修道院に行ったからといって、彼が別の女性と結婚したからといって、あの森で過ごした数年間が消えたわけではない。それはむしろ当時よりもずっと輝きを増して、ハナコの胸の中に大切に大切にしまわれていたのだ。
 彼の自警団の夢を叶えるために仲間へ加わってからは意識的に忘れようとしていたが、彼のそばへ近づけば近づくほど、彼に愛されている女性の姿を見れば見るほど、嫉妬に似た思いに駆られて自分の胸を引き裂きたくなった。昔のように触れたいと思い、思い続けて、そして今日、ジョットは突然屋敷を飛び出した。守護者のうち数名を共に連れて。
 許さない。
 脳裏にあるのはその言葉だけだった。そのはずだった。
 なのに、どうしてこんなにも彼のことを愛しく感じてしまうのだろう。
 怒りに変わったとばかり思っていた彼への想いがまた熱を持ってよみがえるのを感じ、ハナコは震えた。もしかするとあの怒りは、彼の妻や弟のためのものではなく、自分を置いて行ってしまうことへの憤りだったのかもしれない。罪悪感が募ったが、目の前にある甘美なまでの夢の前ではそれすら欠片も気にならなかった。
 愛してると言ったら、ジョットはここを発つのを思い直してくれるだろうか。たとえそれが叶わなくても、わたしを日本へ連れていってくれるに違いない。きっとまた昔のように、彼と夢を語りあえる。誰にも邪魔されることなく。
 あの頃と同じように……。
 誘惑に駆られて、ハナコはよろよろと手を伸ばした。
 ためらいながらも、震える手のひらがもう少しで彼の背中に回りそうになった時、脳裏に、我が子を抱いて微笑む若い女性の姿がふっと浮かんだ。
 寝台に身を伏せて声もなく泣いていた彼女。揺りかごの中ですやすやと寝息をたてていた赤ん坊。
(……違う)
 欲にまみれそうになる頭をふりはらって、ハナコはぎりぎりで自分を制した。
 こんなのは違う。こんなのは正しい道なんかじゃない。
 もう昔に帰ることなどできない。それは過去の思い出でしかない。どんなに願ったとしても、過去は過去であって、それ以上のものにはならないのだ。
 絶対に。
「……ジョット」
 ハナコはささやいた。
 異変を感じとったジョットが顔をあげる。彼の金色の目を見据えながら、ハナコは静かに口を開いた。
「わたしもあなたと同じ気持ちよ。でも、だからこそ、あなたと一緒に行くわけにはいかないの」
 小さかったが、迷いのない、しっかりとした声だった。
 ハナコは自分の胸に手をあて、そこに息づく記憶の温かさを思った。彼の小さな赤ん坊が産声をあげた時の言いようのない嬉しさと、こみあげてきた悲しさをハナコは思い返した。
「引き止めてもあなたはきっと行くでしょう。でも、あなたの妻である女性は今もあなたの帰りを待ち続けている。わたしだって彼女のことが大好きだし、彼女を裏切りたくない。あなたの愛した人をこれ以上苦しめたくないの。もしあなたと共に行くことを選んだら、わたし、一生彼女に顔向けできない」
 ジョットは金色の目を見開かせたまま、じっと聞き入っている。
「彼女だって、もしかするとこうなることを覚悟していたかもしれない。あなたのような人と結婚するということは、それだけ勇気と覚悟のいることだもの。でも、彼女だって人間よ。聖女なんかじゃないの。辛い時には泣くし、悲しいことばかりに耐えられるようには出来ていない。だからわたし、彼女の力になりたい。あなたの弟と、あなたの息子といっしょに。それに――」
 ハナコは静かに言葉を続けた。
「それに、あなたは自分がこの島を出るのは運命なのだと言った。そしてわたしにもこう言ったわ、わたしの運命はここで成されるべきもので、あなたと共にいて叶うものではないと。昔はそれが悔しくて、悲しくて、あなたといっしょに行けないことをずっと嘆いてた。でも今は違う。わたしはこの島が好き。この島に生きる人たちが好き。だからあの時のあなたの言葉どおり、わたしはここで生きると決めた。あなたはわけもなく嘘をつく人ではないから、きっとこの島にこそわたしの運命があるのだと思う」
「ハナコ――」
「自分の言葉を忘れたわけではないでしょう。あなたはいずれ訪れる刻のために、自分にできることをしようとしているのだと言った。子へ、孫へ、過去と未来を、今をつなげていくための戦いを乗り越えていくのだと。自分の妻や息子たちと共に。だから」
 きっぱりと、ハナコは言った。
「だから、わたしはわたしにできることをする。わたしはここで運命を導いてみせるわ」
 ジョットはしばらく何か言いたげに唇を震わせていた。
 だが、やがてうつむき、腕を下ろして「分かった」と低い声で呟いた。
「すまなかった。無理を言って」
 ふたたび顔をあげた時、彼の顔にはいつもどおりの微笑が戻っていた。
「道を見誤るところだった。過ちに気付いて、よかった」
 金色の瞳にはかすかに苦痛が陰っていたが、まばたきのうちにそれも消えた。いつもの見慣れた王の姿に戻っていた。
「そう……ハナコにはハナコの成すべき運命が、私には私の成すべき運命がある。だがどうか、覚えていてほしい。私は確かにおまえを愛していた。自らの運命さえ捨ててしまいそうになるほど、強く」
「ええ、ジョット」
 ――愛してる。
 こみあげてきたその言葉を無理やり喉の奥に押しこめて、ハナコは笑った。今の自分にできる、最高の笑顔を彼に贈った。
「忘れないわ。ずっと」

     3
 
 出立の時が迫っていた。
 雨風は弱まっていたが、海の荒れは激しい。ジョットは純白馬にまたがり、泥と雨がしみこんで使い物にならなくなった上着を脱ぎ捨てた。鞍にくくりつけられた袋の中から代わりの外套を取り出して羽織り、せめてもの雨除けとする。
 それは黒い外套だった。肩に縫いつけられた朱い紐飾りが風に揺れる。夜闇に溶けこまんばかりの黒に包まれ、黄金の目はますます燃えるような輝きを帯びた。
「これを妻に渡してほしい」
 ジョットは外套の胸元の飾りをひきちぎり、ハナコに手渡した。
 円形の黄金の連なる鎖。両端に、自警団の印をかたどった金の留め金がぶら下がっている。
「いいの? これ、あなたの大切なものじゃ」
「いい。私にはもはや意味を成さないものだ。それよりも、妻に――触れられる形を失っても、共に在るということを伝えたい」
「……わかった。絶対に彼女に届けるわ」
 ハナコは金の鎖を汚してしまわぬよう、慎重にふところにおさめた。
 白馬は忠実に主人を待っている。ジョットはちらりとハナコを見て、それから手綱を握った。息を吐き、まさに馬の横腹を蹴ろうとした瞬間、後方から、激しい馬の足音が一目散に駆けこんできた。
「――待て! そこの男、待て!」
 青毛の馬にまたがった男が腕をふりあげて叫んでいる。束ねた髪が後ろで鞭のようになびいた。
 ジョットは笑った。
「来たか、弟よ」
「来たか、ではない! 何を呑気なことを言っている! なんだ、その泥だらけの格好は! いいから屋敷へ戻れ、早く!」
 厚手の毛皮の外套を羽織っていたが、この雨にはさすがに苛立ちを隠せないようだった。ひっきりなしに落ちてくる滴を鬱陶しそうに払いのけながら叫び、ふと、ジョットのそばにたたずんでいるハナコに目が行った。
「ハナコ!」
 叫んで、馬から飛び降りた。ジョットと同じように全身泥だらけになっていることに違和感を感じたようだった。
「いったいどうしたんだ、こんな泥だらけで――まさか、落馬したのか? 馬術の得意なおまえが、こんな嵐の中とはいえ――」
「わが弟よ。兄の最後の頼みを聞いてくれるか」
 黙って二人の様子を眺めていたジョットがふいに口をはさんだ。
 兄のただならぬ様子に、弟も思わず顔をあげる。ジョットはふっと息をつき、言った。
「私の妻と子を頼む。子が成長するまで、おまえが二代目として組織を守れ」
 きらりと光るものを投げつけられ、弟は手をあげてそれを受け取った。
 困惑に満ちた顔で、握りこんだこぶしを開いていく。みるみるうちに怒り顔になった。
「貴様、なんのつもりだ! これはボンゴレリングだろう! しかもオレが二代目だと!? 貴様、まさか本当に――!」
「これもおまえに預ける。守護者たちの指輪だ」
 五つ、六つとまた光るものが飛んだ。慌ててすべて受けとめた弟に、満足げに笑みをこぼす。
「それから、ハナコを守ってやってほしい。彼女を守れるのはおまえだけなのだから」
 意味ありげな視線をちらりと向けて、
「これが私の最後の頼みだ。またいずれ会うこともあるだろう。過去と未来が結びつく場所で。いつか――きっと」
「待て!」
 いななきをあげて矢のようにその場を飛び出した白馬を、弟は慌てて追いかけようとした。
 だが、自分の馬に手をかけた時、ぴくりとも動かないでいるハナコに気がついて足を止めた。
 月毛馬がなぐさめるように背中をつついている。馬の蹄の音が完全に聞こえなくなっても、ハナコはジョットの消えた方角から目を離そうとしなかった。
「ハナコ?」
「……彼は行ってしまった」
 確かめるように、ハナコは呟いた。
「追いかけても無駄よ。彼は決意を固めた。一度決めたことは絶対にくつがえさない。……そういう人だった」
「ハナコ、おまえ」
 隣に立って、彼は言った。
「泣いているのか」
「泣いてないわ」
 ハナコはうつむいた。目が刺すように痛み、視界がぼやけた。
「……ただ、少し悲しくなっただけ。それだけよ」
 自然と持ちあがった手が、服の上からあの金の鎖に触れていた。円い形の黄金と、自警団の印の留め金を指でなぞる。
 その様子をじっと見ていたジョットの弟は、自分の毛皮の外套の中にすっぽりとハナコを隠した。ハナコは涙をぬぐい、目の前の大きな肩に額を押しつけた。
「ここで、何かあったのか?」
 彼が、そっとささやいた。
「――兄に、ジョットに何を言われた……?」
「何も」
 きっぱりと答えて、ハナコはもう一度あの金の鎖に触れた。
「ただ、妻に伝えてほしいことがあると伝言をたくされたわ。最後の最後まで、誇り高い人だった」
 またこみあげてきた涙を押し隠し、やわらかく包みこんでくれる外套に身をうずめた。
 大きな腕が外側からしっかりと抱いてくれているのを感じる。
「……帰りましょう」
 ハナコは言った。
「皆が待ってる。ジョットは行ってしまったけれど、わたしたちにはあなたがいるわ。わたしたちを導いてくれる、新しい当主が」
 月毛馬と青毛馬がいっしょになって草をはんでいる。
 雨がやみ、山の端の雲の向こうにかすかに日が差してきた。海の荒々しい風のうなりにまじって、船乗りたちの掛け声と共に、船首が力強く波を切る音が聞こえた。
 
     おわり
 
 TITLE:vertigeより「死んでも言わない」
 DATE:2009.12.22

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