握りしめた手(剣帝テュール夢)

突然「子守は好きかい」と呼びとめてきたのは剣帝テュールだった。わけがわからないまま連れていかれた部屋の中にいたのはやけに偉そうな黒髪の少年。どうやらザンザスというらしいこの少年、ボンゴレ九代目の子息のようなのだが……
※捏造剣帝テュール

+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+
       
「ハナコ、子守は好きかい?」
 夜中、後ろからいきなりそう呼びとめられてハナコはどきりとした。
 子守が好きもなにも、やったことすらないので好きかどうかなんて分からない。
 たまたま廊下に出ていただけなのに、いきなりなにを聞いてくるの……ハナコはふり返り、尋ねてきた男の顔をちらりと見て本心をさぐろうとした。しかし男は困ったように眉をよせ、しきりに頭をかきながら笑みをうかべているだけだった。
 だが男はいつもとすこし違っていた。
 金髪はひっかき回されたように乱れており、規定どおりにきっちり着こなしたヴァリアーの黒い隊服はところどころ糸をひいて破けそうになっている。その目鼻立ちの整った顔には、刀ではなく爪でひっかいたようなみみず腫れの傷跡がうかんでいた。左腕の義手には黒マジックでめちゃくちゃな落書きまでしてある。
 夜の薄明かりの中、屋敷の廊下の真ん中で、世で剣帝とうたわれる男テュールがそのような姿になっているのはなんだか滑稽ですこし笑えた。
「どうだい、ハナコ」
 テュールがぐんと迫った。
「ええと、その」
 ハナコは慌てて言った。しかし思考のほうがまだ追いついていないうえ、憧れの男の顔が目の前にあるので緊張してしまい、その先には続かなかった。やったこともないものを好きかと尋ねられてはハナコも答えようがない。
 わざわざ呼びとめて尋ねてくるくらいだ、もしここで嫌いだと言えば、たぶん彼の期待を裏切ることになるだろう。
 もしここで好きだと言ったら――なにが待ち受けているかは分からないが、すくなくとも彼に悪い印象を与えることはないだろう。
 ハナコが頭の中で瞬間的にいろんなものを天秤の秤にかけているとき、
「ああ、ハナコにオレの子を抱いてほしいとか、そういう意味で言ったんじゃないんだ」
 ハナコが変な意味に捉えて困惑しているとでも思ったのか、テュールが慌てた様子で言った。
 別に多くを期待していたつもりはなかったものの、そうはっきりと言われてハナコはすこし悲しくなった。いったいどうしてこんなことを聞いてくるの、この人は。
「ただ、ハナコは子守や子どもが好きなように思えたから」
「好きですよ。子どもは嫌いではないので、たぶん」
 ハナコが言ってすぐ、テュールはハナコの肩をがばりと抱きこんで早足に歩き出した。
 突然のことにハナコは驚いた。足がもつれそうになる。急かすように肩を押してくるテュールを見あげ、身体が近いことに多少恥ずかしさを覚えつつ、それでも一生懸命彼の足の速度にあわせる。しばらく歩いてからテュールはある部屋の前でぴたりと足をとめた。
 扉の取っ手には金糸の刺繍の布飾りがかけられていた。赤いひかえめな文様の布地に、黄金の宝冠と貝殻とがきらめいている。ボンゴレの紋章だった。だが部屋の中からは話し声も聞こえてこないし、誰か偉い人がいるような気配も感じられない。
「入って」
 テュールはそれだけ言うと、ハナコの背を押して促した。
 ハナコはテュールと扉とを交互に見つめ、やがておそるおそる取っ手にふれ、そっと扉を押しやった。
「テュール!」
 視界が開けてすぐ、幼い声が聞こえた。
 とたん、足元になにかが走りこんできて、どん、と衝撃が全身を伝った。視線を下にやると黒髪が見えた。黒い髪の子ども、おそらくは男の子が、ハナコの足にぎゅっと抱きつきながら、お腹のあたりに顔をうずめてきていた。太ももの裏側まで回りこんできた彼の手には、絶対に離すまいといったふうにかなりの力がこめられている。
 ハナコはじっと彼のつむじを見つめてから、部屋を見渡した。
 広い部屋の床には繊細な文様の絨毯がぴっちりとしきつめられ、曲線の足の机やら牛革のソファやら、自分の相部屋にあるものと比べてやけに豪勢なつくりの家具が並んでいた。ブロンズのウォールランプもあればフロアランプもあるし、奥に行けばもっといろいろ高価なものが出てきそうなこの部屋の中で、かけ毛布のぐちゃちゃになったベッドが不自然に見える。
 少年は腕にさらに力をこめ、ハナコのお腹に顔を押しつけたまま、
「さぁ、オレを連れていけ! オレは父さんのところに帰る!」
 くぐもった声で言った。
 わけが分からないというふうにハナコが呆然としていると、テュールがひょいとハナコの肩越しに覗きこんできて、ハナコにくっついている子どもの姿を認め、おかしそうに声をあげて笑った。
 少年は顔をあげ、ハナコを見るとぎょっとして後ずさった。子ども用の黒スーツを着ているのがなんだか窮屈そうに見えた。
「誰だ、おまえ」
 その台詞をそのままそっくり返したかった。
「私はハナコです」
「ハナコ?」
 少年はむすっとした表情でハナコを睨みつけ、その後ろに背高の金髪の男を見つけると「テュール!」とわめき、ハナコを押しのけて彼に飛びかかろうとした。剣帝を守る立場にあるハナコは反射的に少年の首ねっこをひっつかんだ。あと一歩テュールに届かないところで少年は唸り声をあげ、ふりむいてハナコをきつく睨んだ。
「邪魔をするな、馬鹿!」
 少年の目が見開かれ、赤い瞳がゆれた。
「オレはこんなとこへなんか来たくなかった! 父さんがいるからボンゴレに来たのに、話が違う!」
 首ねっこをひっつかまれたまま、少年は暴れた。
 テュールはしゃがみこんで少年に目線をあわせると、あやすように少年の小さな頭を撫でた。
「ザンザス、落ちつきなさい。お父さんも暇ができたらちゃんと来てくれるし、明日にはお母さんが……あ、いて、いてて」
 しかしザンザスと呼ばれた少年は、テュールの髪をひっつかんでひっぱったり、彼の端正な顔にひっかき傷をつくってなおも暴れるのだった。ハナコがザンザスをなんとかテュールから引き剥がし、部屋まで引っぱり入れると、テュールは新たにできた傷を手でさすりながら疲れた様子で立ちあがり、部屋に入って後ろ手に扉を閉めた。
「テュール様、この子はいったい誰なんです? テュール様にこんなことをするなんて」
「ああ――……彼はザンザス。九代目のお子さんだよ」
「きゅ、きゅうだいめの!?」
 ハナコは慌てて手を離そうとした。地に頭をこすりつけて非礼をわびたいところだったが、
「あ、いや、いいんだ、そのままつかんでいてくれ」
 テュールはそう言ってハナコをそのままにさせた。
「どうして、その九代目の御子息が、ザンザス様がここに?」
 ハナコは切れ切れに言った。ザンザスはテュールとハナコとを順々に睨みつけては唸り声をあげている。そのたびに首ねっこをつかむ手を離したい衝動にかられたが、テュールの視線がそれを強く押しとどめた。
「ちょっと、あってね。九代目とオレとで相談した結果、彼にはここで過ごしてもらうことになったんだ。オレが彼の先生というか、家庭教師みたいなものをするつもりなんだけど。なに、九代目は必ず暇をつくって来ると約束してくださったし、彼のお母様も明日にはここにいらっしゃる。お母様は病気を抱えているんだが……ここは自然も多いし、空気もきれいだし、療養するには適しているだろう。ヴァリアーの屋敷はおまえにもお母様にもなかなか居心地がいいところだと思うぞ、ザンザス」
 テュールはそう言ってザンザスを見つめたが、ザンザスは唸るばかりだった。
「ザンザスは今日ここに来たんだ。それで食事をしてもらったところまではよかったんだが――小旅行みたいなものと思っていたのかな。九代目のところへは帰れないと分かったとたん、それだ」
 テュールは困ったように空色の瞳を曇らせた。
 ザンザスは今にも噛みつかんばかりの勢いでテュールを睨みつけている。よっぽど父親のところへ帰りたいのだろう。
 ――そういえば……
 ボンゴレ十代目候補には九代目の三人の甥がいるけれど、息子であるザンザス様はどうして今まで名が挙がらなかったのだろうか。まだ十に満たないくらいだとはいえ、ボンゴレの血をひいているならば小さいときからもうすこしぐらい名前が聞かれていてもおかしくないはずなのに。
 ハナコは考えたが、手もとでそのザンザスがじたばたと暴れだしたので、考えを意識の端に押しやって、彼を食いとめることに専念した。
「さぁザンザス、疲れただろう。夜も遅いし今日はひとまずお休み。お父さんのところに帰りたいだろうけど、続きは明日にしよう」
「嫌だ! オレは帰るんだ!」
 おそらくテュールはもう何度も彼を寝かしつけようとしたのだろう。だからあのベッドの上で、かけ毛布があんなにめちゃくちゃになっているのだ。帰るか寝かしつけるか、彼らがもみくちゃになって必死に戦うさまを想像してみると、ハナコの顔に笑みがうかんできた。喉元がもぞもぞとくすぐったくなり、声をあげて笑う。ザンザスは暴れるのをやめ、ぽかんと口を開けてハナコを見た。
「おまえ、なに笑ってるんだ――ハナコ」
 ザンザスが訝しむように言った。ハナコはザンザスをひょいと胸に抱いた。
 赤い瞳がかっと見開かれた。ザンザスはハナコの頬を指でつまんで強く引っぱった。
「やめなさい、ザンザス」
 テュールが言ったが、ハナコは間抜けな顔をしたままザンザスをじっと見つめた。赤い瞳もハナコを見つめた。
 すると、ザンザスの指からすこしずつ力が抜けていき、張りつめたもののない赤い瞳がまばたいた。
 ハナコの胸の奥から、言いようのない気持ちがこみあげてきていた。
 理由は説明できないが、なぜだか、この子を守り、愛したいという思いが生まれてきていた。
 私の父と母も、私にこんな気持ちを抱いていたのだろうか――?
 ハナコは思いながら、腕に抱いた少年に笑いかけ、彼の小さな頭に自分の額をこつんとあてて、つつみこむように抱きしめた。ザンザスは驚いたようにびくりと動いて、手をふりあげようとした。しかしそれもほんの束の間だった。ザンザスはとけていくように目を細め、身を丸めると、ゆっくりとハナコに全てを預けた。赤子が母に求めるように、小さな頭がハナコの胸元に沈む。
 あ、とテュールがつぶやいた。
 ザンザスはもう深い夢の中に落ちていた。
「……驚いた」
 歩いてきて、テュールがザンザスの顔を覗きこんだ。胸元にうずくまった幼顔が小さな寝息をたてている。
「ハナコ、君はきっといい母親になれる」
「ありがとうございます」
 テュールに褒められて、ハナコは頬が熱くなるのを覚えた。
「たぶんザンザス様、疲れていたから眠っちゃったんだと思います」
 恥ずかしさをごまかすように言うと、テュールはそれになおも反論して、ハナコの母親としての才がどうとか、オレに子どもがいたらハナコに任せるとか、めちゃくちゃなことを言い始めた。褒めようとしてくれているのはハナコにもよく分かったが、なにか方向がずれてきている。
 ハナコが半ば呆然としてテュールの話を聞いていると、彼はようやく我に返ったようにはっとなって、
「そうだ、ザンザスをベッドに寝かせてあげよう」
 咳ばらいをひとつして言った。
 めちゃくちゃになっている毛布をどかし、ザンザスの身体をそっと横たえさせ、きつくならないようふわりと毛布をかけてやる。
 どんな夢をみているのか、時々口を動かしているその姿は、なんだか微笑ましく思えた。もっと彼を見守っていたいような気持ちになる。
 ちらりと隣に目をやると、テュールがおだやかな笑みをうかべてザンザスを見つめていた。
 一緒に子どもを寝かしつけたり、こんなふうにしていると、なんだかテュール様と夫婦になったみたいだ。
 ハナコはそう考えてすぐ、慌ててその思いをかき消そうとした。剣帝に対してなんて失礼なことを考えてしまったのか、と自分を責めたが、一度うかんだ考えはなかなか消えてくれそうになかった。
「ザンザスに悪いことをしたかな」
 テュールがふいにつぶやいた。
「九代目とオレのふたりで決めたこととはいえ、結果的にはザンザスの意志を無視し、彼を父親から引き離す結果になった」
 確かにザンザスは九代目のところへ帰りたがっている。
 だが九代目が決めたことなのだから、どのみち彼はもうここで暮らすほかないのだ。
「ザンザスは怒りっぽい子だけど、甘え下手で、さびしがりやなんだ」
 テュールは言いながらザンザスの黒髪をそっと撫でた。
 もし明日、さびしがっているザンザス様に出会ったらどうしようか、とハナコは考えた。そのときにはいったいどんなふうに彼をなぐさめようか。お父さんに会ったときに息子として立派な姿を見せてあげられるよう、一緒に頑張ろうと励ましてみようか。それとも彼のさびしさを和らげるために、一緒に外へ散歩にでも行こうか。
 ここで暮らすことになった以上、せめてここでしかできないことを、九代目の子息としてめいっぱい学んでもらわなくては。
 ――お母さんが来てくれれば彼もさびしさを和らげられるだろうけど……お母さんはいったいどんな人なんだろう?
 ハナコはザンザスのあどけない眠り顔をじっと見つめてから、テュールと一緒に静かに部屋を出た。
「明日にはお母さんが来るし、とりあえずはひと安心だな。明日の朝起きたときにどうなるかは分からないが」
 扉を閉めた後でテュールが言った。
「お疲れさま、ハナコ。本当にありがとう」
「いえ、私にできることならなんだってやらせていただきます」
 ハナコは照れ隠しに小さくうつむきながら答えた。テュールはぼさぼさのままの金髪を手で撫でつけながら、
「できれば明日の朝にも来てくれると嬉しいんだが……どうかな? オレひとりじゃ、なんとなく不安なんだ。きっとザンザスも『ハナコはどこだ』って言い出すと思うよ」
 思いがけない提案にハナコは顔をあげて飛びついた。
「よ、喜んで!」
「はは、もしかしてザンザスのことが気にいったかい?」
 ハナコは頷いた。舞いあがってうわついていたせいか、それに、と口をついて出ていた。
「それに?」
「ああやってると、まるでテュール様と夫婦になったみたい……で……」
 しまった、と気付いたときには、全部言い終わっていた。
 テュールが目を見開いてハナコを見ていた。ハナコは思わずすこしだけ後ずさって、大声で平謝りに謝った。
「ご、ごめんなさい! 申し訳ありません! こ、こんな、ひとりで勝手に考えて――」
 突然、ぐいと片腕を引かれた。
 目の前に剣帝の顔がある。空色の澄んだ瞳がある。それを意識したときにはもう、唇が重なっていた。
 ハナコは目を開けたまま、驚きのあまり閉じることすらできなかった。わけの分からないままそっと身体を押しやられて、口の中に入ってきていたあたたかい感触を呆然と思うハナコに、テュールは間近でそっと人差し指をたててみせた。
「あまりうるさくすると、ザンザスが起きてしまうからね」
 テュールはちらりと扉のほうを見て、またハナコに視線を戻した。
 そのころにはハナコは真っ赤になっていた。
「……オレにこういうことをされるのは、嫌か?」
 ハナコは恥ずかしさのあまり泣きそうになるのを我慢し、大きくかぶりをふった。
「じゃあ、騒ぐのはふたりきりのところでだ、ハナコ」
 テュールは微笑み、耳まで赤く染めて唇を震わせているハナコの額に口づけた。
 
   ◇
 
「ハナコ!  ハナコはどこだ!」
 朝はやく、ひとりで歩いていてはテュールに怒られると判断したのだろう、おろおろしている侍女を後ろに引っぱりまわしながらザンザスが廊下で叫んでいた。大声に起こされた隊員達が寝巻き姿のまま部屋から顔を出し、目を丸くして彼を見つめている。ザンザスはきょろきょろと見回して、気の弱そうな顔をしている男隊員にむかってばっと指を突き出した。
「そこのおまえ、ハナコを知らないか!?」
 え、と声をあげてから、男は首をかしげた。
「どいつもこいつも役立たずめ! ハナコはどこだと言っているんだ!」
 ザンザスはめちゃくちゃになってわめいた。ヴァリアーの屋敷は広すぎて、彼の小さな足ではここまで歩いてくるので精一杯のようだった。
 そのとき、ハナコは重い目をこすりながら、廊下を足早に歩いていた。隣に並んでいるテュールは隊服の襟をととのえながらハナコを急かすように声をかけている。ハナコはぼんやりと窓の外を見やった。空は青みをにじませて明るんできている。どこかからすべりこんできた冷えた風が足元を撫でていき、わずかに意識が冴えた。
 ザンザスの怒声に屋敷全体ががやがやし始めていた。
 隊員達の波のような声にまじって、幼い子どもの声が聞こえてくる。
「すまないな、ハナコ」
 テュールが言った。ハナコは横をむいて彼を見あげた。
「気持ちよさそうに寝ているところを起こしてしまって。ま、よく眠れたようでよかった――昨晩があれじゃあ当然かな。君も相当疲れただろうしね」
「……すみません」
 わざとなのか無意識なのか、なにを指し示しているのかもあやふやにさせたまま次々にそれらしいことを言ってくるテュールに、ハナコは赤面しながらそう答えるので手一杯だった。
「それで、疲れているだろうけど、ザンザスの世話を頼めるかい。彼は君の名前を呼んでいるみたいだから。まずは食事をさせるんだ。九代目の息子という理由で変なところで特別扱いをしたくないし、ここに慣れさせる意味でも、今日は隊員みんなのいるにぎやかな食堂でね」
 ハナコが頷いたとき、誰かがあっと声をあげた。
 前を向こうとしたとたん、あのときと同じように誰かが足元に走りこんできた。どん、と衝撃が全身を伝ったが、今度はテュールが後ろから支えてくれた。視線を下にやるとやはり黒髪とつむじが見えた。
「ザンザス様」
 黒い髪の少年はハナコの足にぎゅっと抱きついて、ハナコのお腹のあたりに顔をうずめている。
「……オレを散歩に連れていけ、ハナコ。屋敷をもっと見て回りたい」
 ザンザスはわずかに顔をあげて言ったが、ハナコと目があうと、またハナコのお腹に顔をうずめた。彼が顔をあげたとき、彼の頬のあたりが赤くなっているのをハナコは見た。
 もしかして甘えているのかな――頬が赤いのは照れているから? それともお父さんが恋しくて泣いてしまったから?
 屋敷を見て回りたいということは、すくなくともここにいる気にはなったのだろう。せめて彼がすこしでも楽しく過ごせるよう、支えてやるくらいならハナコにもできるかもしれない。
「ハナコ、聞いているのか」
 かたい口調でザンザスが急かした。
「はい、ちゃんと聞いていますよ。でも散歩の前にまず朝ごはんを食べましょう、ザンザス様」
 ハナコは答え、ザンザスの手をとってやさしく握った。ザンザスも同じくらいの力をこめて握りかえす。テュールはじろりとザンザスを見つめ、顔をあげたザンザスに「オレは?」と自分を指差してみせた。
「おまえはいらない、テュール。ついてくんな」
「いらないって……ザンザス、いくらなんでもそれはないだろう。オレはおまえの家庭教師になるんだぞ」
 テュールは必死に言ったが、ザンザスはハナコの手を引っぱってさっさと歩いていこうとする。テュールは慌てて早歩きしてふたりに追いつくと、ザンザスの空いているほうの手に義手の左手を差し出した。ザンザスはちらりとそちらを見て、義手に自分が書いた黒マジックの落書きがあるのを見つけると、こらえきれないといった様子で吹きだすように笑った。
「おまえ、まだその落書きを落としていないのか」
「落とす時間がなかったものですから」
 ザンザスは笑いながら、テュールの義手をつかんで握った。テュールは嬉しそうに顔をほころばせた。
「さあ、今日はザンザスのお母さまが来てくださる日だよ。夕方ごろにこちらへ到着するそうだから、そのときにはみんなで迎えにいこうか」
 テュールの言葉にザンザスは頷き、ハナコとテュールの手をぎゅっと握りしめて歩き出した。
 ザンザスに引っぱりまわされていたあのおろおろ顔の侍女は、安心したように瞳を輝かせ、テュールの言いつけどおり三人を食堂へと案内すべく率先して前を行った。
 ヴァリアーのボス・テュールと隊員のハナコ、そして少年ザンザスが手をつないで歩いていくのを、他の隊員達が呆然とした顔で眺めていたとき、誰かがふと「あの三人、親子みたい」とつぶやいた。
 
     おわり
 
 TITLE:vertigeより「握りしめた手」
 DATE:2007.8.24

No responses yet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PHP Code Snippets Powered By : XYZScripts.com