剣帝テュールとの戦いの前、路上でアクセサリーを売る日本人の少女と出会ったスクアーロ。彼女が作ったブレスレットを腕にはめて剣帝との戦いに挑むが……
スクアーロの左手を「テュールが斬り飛ばした」という設定で書いています。
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1
「あぁっ!」
女性の甲高い、耳にひっかかるような声に意識を引き戻されたとき、スクアーロの右足は既になにかを蹴り飛ばしてしまっていた。
足にぶつかったのはほんの軽い感覚だったが、その後に聞こえてきた音は金属がぶつかり合うような鋭いもの。はっとして自分の足元を見ると、女性が地面にかがみこんでなにかをかき集めている。考え事をしていたせいで目の前にあるものにも気付かなかった。
「わ、悪い」
やっちまった――スクアーロは小さくため息をつきたくなるのを堪えてかがみこみ、女性と同じように地面を漁った。
金属音の正体は、小さなペンダントやイヤリング、指輪などが散らばったことによるものだった。足が蹴り飛ばしたのはそれらを乗せていた軽い木箱。アクセサリ類を路上で売っていたのだろうか。スクアーロは転がっていた指輪をひとつ拾い、またひとつと拾った。雨が降った後のじっとりとした地面の土と泥が手にまとわりつく。制服のズボンのすそもわずかに湿り、雨粒が飛び跳ねていた。もっとも、マフィアの学校に通う彼の制服は血で濡れていることが多いので、雨に濡れようとあまり気にはならないが。もし彼が相棒である剣を肩にかけた大きなカバンの中に忍ばせず、学校にいる時のように持ち歩いていたら、この女性も商品を蹴り飛ばされたことなど気にも留めず逃げ出していたかもしれない。
ふと見ると、同じように拾い上げている女性の手にも、黒い小さな木屑や泥がはりついている。スクアーロはそれにつられるように視線を上に進め、女性の顔をじっと見つめた。うつむいているためにはっきりとは見えないが、黒い睫毛がそえられたどこか東洋的な顔立ちであった。
オレと同い歳くらいか――いや、東洋人は年齢よりもだいぶ幼く見えることもある。もしかするとずっと年上かもしれねぇな。待てよ、東洋人となるとイタリア語が通じない可能性もあんのかぁ? 東洋の言語なんて勉強したこともねぇのにこれ以上どう謝れってんだぁ!
「あの――ありがとう」
「は?」
ふいに女性の目に見つめられ、スクアーロはうわずった声を出してしまった。
自分の灰色がかったものとは違う真っ黒な瞳が神秘的に思えて、不覚にも一瞬心を奪われてしまったが、女性の口からイタリア語が飛び出してきたことにも驚いた。普段からそこそこ聞いている『ありがとう』の一言でも、自分とは異なる雰囲気を持つ、イタリア語なんてあまり縁のなさそうな人間が話せば、なぜだかとてもあたたかみのあるものに聞こえる。
「あ、あぁ、悪かった。考え事して前を見てなかった」
「ううん、私もこんな目立たないところでお店開いてたから――それに今日は雨も降ってたし、考え事しながら歩きたくなる気持ち、分かるよ」
そう言って女性は目を細めた。
女性の口からなめらかに紡ぎ出されたイタリア語に、スクアーロは少しだけ嬉しくなった。
コイツ、イタリア語喋れるんじゃねぇか――考えながら、アクセサリを拾う手は止めなかった。なにせ自分が蹴り飛ばしたのだ。しかしちらちらと女性の顔を見るのも止めなかった。この辺りで東洋人を見かけるのは珍しい。それも自分と同い年ぐらいで、イタリア語が喋れる東洋人は。
スクアーロに見られていることにも気付かず、女性は拾い上げた指輪を落とし、更にそれをつま先で蹴り飛ばしてしまって慌てて向こうまで取りに行く。スクアーロは笑いたくなる気持ちを堪えて手を動かした。戻ってきた彼女がまるで何事もなかったようにアクセサリを木箱の上に置き始めるので、スクアーロは彼女に見えないように背を向けて、口の端をつりあげて笑った。
不思議な気分だ。なにをしでかすのか、ずっと見ていたくなる。
自分の中で渦巻いているものがなんなのか分からなかったが、きっと珍しいもの見たさから来る好奇心だろうと決め付けて、スクアーロは集めたアクセサリを彼女に手渡した。嬉しそうに笑ってもう一度『ありがとう』と言う彼女に、スクアーロは自然と微笑んでいた。
2
「う゛お゛ぉい……花子、オレより年上だったのかよ」
彼女はスクアーロに花子と名乗った。
日本人であること、日本にいる間にイタリア語を勉強したこと、今はイタリアに滞在していて、自分で作ったアクセサリをこうやって路上で売っていることなど、花子は自分のことを惜しげもなくぺらぺらと喋っていたが、年齢のことになった途端スクアーロが顔をしかめたのを見て不満げに口をとがらせた。
「年上じゃなにか不都合なの? 私、そんなに顔と年齢があってないかなぁ」
別に童顔じゃないと思うんだけど……そう不機嫌そうに呟きながら、花子は木箱の上のアクセサリを丁寧に並べなおした。しかしスクアーロが近くに転がっていた別の木箱を運んできて、椅子としてその前に置いているので、並べなおしたところで新たに客が来るわけでもない。向かい合う形で喋り続ける二人の間に割って入ろうとするものは誰もいなかった。野良猫が二匹ほど通りかかったが、一瞥しただけで近付いてこようともしなかった。
まさかオレがマフィアの学校に通ってるなんて口が裂けても言えねぇよなぁ……ぼんやりと考えるスクアーロの顔を見つめながら、花子は微笑んでいた。
どこからどう見ても花子はただの一般人であるし、マフィアなんて存在とは少しも縁のなさそうな顔をしている。緊張感もないし武術に優れているようにも見えない。女性らしい丸みを帯びた身体つきは筋肉も脂肪すらも必要最低限のようだし、ほっそりとした腕は剣や銃火器などとても持てそうにない。自分の腕や身体つきと見比べてみると、その差は一目瞭然だった。
自分とは違う――性別も違うが、そもそも生きている場所自体が違うのだ。
スクアーロは制服の袖からのぞく自分の傷だらけの腕と、花子の白い腕を見比べて、彼女との違いをまじまじと見せ付けられたような気分だった。
……話し込む二人の頬にオレンジ色の光がじわじわと差しこんできていた。日が暮れようとしている。
眩しさに目を細めるスクアーロをじっと見つめ、花子はなにか思いついたように笑みをうかべる。ごそごそとカバンの中を探ったかと思うと、もうそろそろ閉店時間であるはずなのにアクセサリの数を増やし始めた。
「花子、なにやってんだぁ? もう閉めなきゃならねぇ時間だろうがぁ」
「あのさ、ここで出会ったのもなにかの縁だよね。アクセサリ、スクアーロにひとつあげる」
「う゛お゛ぉい、いいのかぁ? オレはお前の店の売り上げを妨害しようとしてここに座り込んでる、ライバル店の手先なのかもしれないぜぇ」
「別にたくさん売ろうとしてるわけじゃないから、ライバル店主でもなんでもいいよ。ほらほら、なにがいい? それとも新しく作ろうか?」
これがいいかな、あれがいいかな……楽しそうにアクセサリを並べる花子を見て、スクアーロは目を細めた。
ここに売られている装飾品は、豪華な宝石がついているわけでもなければ、磨かれた真新しい金属がついているわけでもない。透明のガラス玉、にぶい色の細い鎖、鮮やかな色の編み紐……安っぽいと言ってしまえばそれまでのものばかりだ。スクアーロの好みにあうアクセサリなど実のところひとつもない。それでも花子の行為を無駄にしたくなくて、なによりこうして花子と出会えたことをなにか形にしておきたくて、スクアーロは身を乗り出して花子の手元を覗き込んだ。
「う゛お゛ぉい、花子、お前のおすすめはどれなんだぁ?」
「おすすめぇ? うおぉい、そんなもん決めれるわけないぜぇ、全部おすすめだぜぇ」
「似てねぇぞぉ」
ふざけるように笑いあいながら、スクアーロはじっとアクセサリを見つめた。
素材が安っぽく見えてしまうのは仕方のないことであろうし、それはそれでなかなか味がある。それに花子の手でひとつひとつ丁寧に作りこまれているようだ……そう考えるとついつい目線が花子の指先にいってしまうが、これ以上待たせて暗い中を帰らせるのも悪いので、なるべくアクセサリを見ることに集中する。木箱の上の装飾品たちを見つめながら真剣に考え込むスクアーロを、花子もじっと見ていた。
そのアクセサリの中にひとつ、夕日を浴びてひときわ輝いているものがあった。スクアーロがそれを手にとって空にかざしてみると、透きとおった小さなガラス玉が、どんな高価な宝石にも負けないくらいの美しい輝きを放った。青のガラス玉とビーズがアジャスターのついたテグスに通された、シンプルな作りのブレスレット。力をこめればすぐに壊れてしまいそうな繊細なデザインは、スクアーロがつけるには少し華奢すぎるものであったが、なぜか心を捉えて離さなかった。
「う゛お゛ぉい、オレはこれにするぜぇ」
「お客さん、お目が高い!
……でもそれを選ぶのはちょっと意外。スクアーロには可愛すぎるかもよ」
花子はそう言いながらブレスレットを受け取り、それをスクアーロの手首につけようと腕を伸ばしてきた。一瞬驚いて手を引きそうになってしまったものの、おとなしく自分の利き手である左手を彼女に明け渡す。遠慮なしに触れてくる指先は小さく、細く、やわらかかった。骨ばった傷だらけの手を包み込むような優しい指だった。その温かさを惜しむように、離れていく指をスクアーロの視線が追いかけていた。
「スクアーロの手って傷だらけなんだね。なにかスポーツでもやってるの?」
「ん――まぁそんなとこだ。オレはそれに命をかけてるからなぁ、これをお守りがわりにつけておくぜぇ」
花子の問いかけにかなり驚いてしまったがなるべく冷静に、肝心のところは伝わらないように答えた。花子はそれほど気にした様子もなく『お守りにしてくれるなんて嬉しいなぁ』と嬉しそうに微笑みながらアクセサリを片付け始める。
袋につめ、木箱に入れて……さすがに片付け方までは分からないので手伝うことはできない。
(なんでこんなデザインのを選んだんだか。オレらしくねぇなぁ、これ)
スクアーロは目を細めて左手首を見つめた。
傷だらけの骨ばった腕には繊細なデザインのブレスレットなどあまり似合わない。それでもなぜかぴったりと寄り添い、この腕を守ってくれているように思えた。オレの腕を守ってくれよ。スクアーロはこれからの闘いに思いを馳せてそっと手首をさすった。
今まで手を合わせてきた誰よりも強い、大きな大きな敵が彼を待ち構えている。
剣帝テュール――それが、彼が闘うこととなった相手の名前。イタリア最大手マフィア・ボンゴレに所属する暗殺部隊ヴァリアーのボスである。学校でも異色の才能を放っていたスクアーロは当然の如くボンゴレに目をつけられ、ヴァリアーにスカウトされたが、スクアーロは剣技を極めるためにテュールとの闘いを入隊の条件として突きつけた。
誰もオレが勝てるなんざ思っちゃいねぇ……なにせ相手はあのテュール、剣の帝王なんだ。
どんなに激しい闘いになるのかスクアーロにもまだ予想がつかない。だが相棒の剣と共に命尽きるまで闘うつもりでいる。必ず勝つ。オレになめてかかる大人たちをあっと驚かせてやる。テュールを殺すつもりでいく。
ひとり考え込むスクアーロの肩に、片付けを終えた花子の手がそっと触れた。
「ねぇスクアーロ、私しばらくの間はここにいるから、よかったらまた遊びにきてね。あんまりお客さんいないからちょっと寂しいんだ。スクアーロがやってるっていうそのスポーツにも興味あるし、今度教えて」
真剣な表情で考え込んでいるスクアーロを花子は心配しているようだった。
スクアーロは花子の顔を見つめ、安心させるように微笑んでみせた。
「今度なぁ、花子。きっとだ」
3
夜が近付いている――ひんやりとした風が街を駆け抜けていった。
スクアーロはゆっくりとした足取りであの通りまで、花子がいるはずの場所まで歩いていた。道行く人は全て、抱きしめあっていた恋人たちさえも、スクアーロのただならぬ様子にそそくさと道を明け渡す。自嘲気味に笑っているスクアーロを皆恐ろしい奇妙なものを前にしたような表情で見ている。彼の羽織る黒いコートの裾からは、ぽたりぽたりと少しずつ血が滴っていた。少し大きすぎるそのコートは、彼がさきほどまで対峙していた人間からその場でそのまま受け継いだものであり、剣帝テュールと謳われた男の生き様をよく表したものであった。
二日間の死闘の末、スクアーロはテュールを殺して勝利した。
「あ……スクアーロ!」
彼の来訪に気付いた花子は、ぱぁっと顔を輝かせて手をふった。
しかしその様子がおかしいことに花子はすぐに気付いたようだった。おぼつかない足取り。暗く肌寒い空気の中で異常なほど立ちのぼる白い息。彼の白い髪を染め上げるように頭から血が流れている。花子と向かい合うように腰をかがめながら商品を眺めていた若い女性客もそれに気付き、短い悲鳴をあげて、慌てた様子で走り去っていった。
「ど、どうしたのスクアーロ!? その傷っ」
「いいから座れぇ、花子……座ってくれ。これで最後なんだ」
「最後ってなんの話なの」
勢いで立ち上がったが、花子は言われるままにもう一度座り込んだ。
まだ近くに転がっていたあの木箱を持ってきて、スクアーロも花子の向かいに座る。あの時と同じような状況。違うのは、今のスクアーロは大怪我を負っていて身体中に包帯を巻いているということ。彼がいつもの制服ではなく真っ黒の大きな、しかも血のついたぼろぼろのコートを着ているということ。
花子は高鳴る鼓動を抑えながらスクアーロの目をじっと見つめた。いったいなにがあったのかと問いかけるように。しかしスクアーロはなにも言わずに荒々しい息をしながら目を伏せているだけだった。
「ねぇスクアーロ、まさか会えるのが最後なんてこと」
「花子」
さえぎるようにスクアーロは右手を差し出した。その手の中から、ことん、と小さな音が落ちたのが聞こえた。
「悪い……お前からもらったもの、壊しちまった」
開いた手のすぐ下で、花子がスクアーロにあげたブレスレットが無残な姿をさらしていた。なにか強い衝撃で割れたのだろうか、ガラス玉が割れたり欠けたりしている。テグスは刃物で断ち切られたように千切れ、いくつかビーズがなくなってしまっている。
「壊したって全然構わない! 気にしないで! わざわざ謝りに来てくれるなんて、そんな」
壊したというよりは『壊された』の方が近いのかもしれない――花子は直感的にそう感じ取っていた。彼がやるスポーツとはそんなに激しいものなのだろうか。しかしいくらなんでもここまで血が流れるものなのか。コートにまで血がついているのだ。ただのスポーツじゃないことは目に見えて明らかだった。
「謝りたかっただけだ……それじゃあな、花子」
「あの、じゃあ新しいのを!」
花子は去っていきそうになるスクアーロの右手をつかんだ。
新しいブレスレットを――ううん、ちょっと待って、彼がブレスレットをはめていたのは左手。あの時ブレスレットを持ち上げていたのも確か左手。彼の利き手は左手のはずなのに今はどうして右手を差し出していたのだろう。花子はスクアーロの左手にそっと目をやったが、黒い大きなコートの袖にはばまれてなにも見えなかった。
「スクアーロ、左手どうしたの? 利き手は左手だよね」
まだ小さな、少年の肩が震えたように見えた。寒さにではなく、なにか大きな恐れのようなものに。
風にふきつけられてスクアーロの白い髪がゆれる。ふたりの白い息が立ちのぼり、掻き消えた。
スクアーロは顔を伏せたままそっと左腕を木箱の上に置くと、袖をまくってみせた。花子は息を呑んだ。さぁっと血の気が引いて全身が冷えていく。スクアーロの左腕は手首から手にかけてすっかりなくなってしまっていた。何重にも包帯が巻かれているため傷口までは分からないが、その事実に花子は真正面から頭を撃ち抜かれたような気がした。
事故? 事件? なんにせよ、スクアーロの左手が突然なくなってしまったことは明白であった。
なにも言えないでいる花子と向かい合わせになりながら、スクアーロは奇妙な笑みを浮かべている。
そうだ――オレは最後の最後の瞬間に、勝利を確信して油断していた。剣を持つ手がゆるんでいた。
スクアーロが気付いた時には剣を叩き込まれた左手が飛んで、嫌な音を立てて地面に落ちた。左手首に身につけていたブレスレットもテュールの剣に断ち切られ、左手と一緒に石畳に叩きつけられて壊れた。スクアーロが引き裂かれるような痛みに絶叫して右手で剣をふるい、最後の一撃を加えた時、テュールは息絶えたが、泣き叫ぶようなスクアーロの声が止まることはなかった。
大人たちは、ヴァリアーの隊服である剣帝の黒のコートを『勝利の証』としてスクアーロの肩にかけた。
そして、勝利の喜びに酔いしれる暇もなく医療班のところへ運び込まれたが、
『オレは暗殺部隊ヴァリアーに入隊する――おそらくもう二度と自由にはなれない』
そう考えるとなぜか、スクアーロの意識はまっすぐに花子のところへと飛んでいた。
ボンゴレ医療班の制止をふりきって街の中を駆け抜け、しばらくして身体中の痛みに歩みが遅くなったが、それでもなんとかこうやって花子のところへ辿りついた。だが、なぜこんなに苦労してまで花子のところへ向かったのか、スクアーロ自身よく分かっていなかった。
ブレスレットを壊してしまったことを謝りたいとは考えたが、それだけではないような気がする。ブレスレットを壊してしまってもヴァリアーに入隊すればおそらく二度と彼女に会えない。わざわざここまで来て彼女に『壊れた』と言う必要はないのだ。
なぜだ――なぜオレはここへ来た? オレは花子になにを望んでいるんだ?
顔をあげると、花子はスクアーロの右手を握り締めたまま堪えるように泣いていた。
必死に歯を食いしばっていても止められない涙が、木箱の上に落ちてぽつぽつと染みを作る。なぜ泣いているのか問いかけようとしたが止めた。きっと答えられない。
伏せられた黒い睫毛からにじむように涙がこぼれて、ためらうことなく次々に落ちていく。真っ赤になった鼻や頬が痛ましい。スクアーロは握られたままの右手にそっと力を込めた。自分の中に存在している言いようのない気持ちを、スクアーロはやっと実感した。
「それ、そのブレスレット、お守りにならなかったね、ごめんね」
「あぁ? お前そんなこと気にしてんのかぁ……コイツは充分オレを守ってくれたぜぇ、戦っている間ずっとなぁ」
どうしてこのブレスレットを選んだのか、スクアーロは今になって分かっていた。
オレはこのブレスレットと花子の姿を重ねていた。たった一度きり会っただけの女の姿を、こんな、華奢ですぐに壊れちまいそうなちっぽけな腕輪に重ねて見ていたんだ。身につけていれば花子が傍にいるような気がしていた。だからオレの手と一緒にブレスレットが飛んでいって壊れた時、どうしようもないほどの怒りと痛み、悲しみが、最後の剣のひとふりをテュールの身体に叩き込んでいた。本当にオレを支えてくれたんだ――スクアーロはじっと花子を見つめた。
「花子」
スクアーロがささやくように言うと、花子はゆっくり顔をあげる。
「花子、もうひとつだけ、オレにブレスレットをくれねぇか」
花子は泣きながら何度も何度も頷いて、スクアーロが木箱の上に並んでいたブレスレットをひとつ持ち上げると、丁寧な手つきでそれを受け取った。今回は好みにぴったりと一致するごつごつしたデザインのものもあったが、選んだのはまたもスクアーロに似合わない繊細なデザインのブレスレット。銀色の細い鎖に赤子の爪の先ほどの小さな石がついているだけのものだ。花子の姿を重ねて見ているスクアーロがそれを選んだのも、スクアーロ本人にとっては当然のことだった。
「できるだけきつくしておいてくれ……落ちないようになぁ」
試しに合わせてみると、剣技で鍛えた太腕には少しきつかった。女性の好むデザインなのだから、女性の腕の太さに合わせているのは当然ともいえる。しかしスクアーロは満足げに微笑む。
(そうだ、これでいい。帰るべきところに辿りつくまで落とさないようにしなきゃなぁ。それで、上の奴らに頼んで左手用の義手を作ろう。刀は義手にしっかりと固定させて、工夫して背後にも攻撃できるようにすれば死角がなくなる。左手は失ったが、オレは生きている。オレはもっと強くなれるかもしれないぞぉ、花子)
スクアーロに見つめられても、花子はなにも言わない。
左手の包帯のほどけかけた、手首よりももう少し心臓に近い部分に花子の指が触れる。怪我の痛みに顔をしかめそうになるのを堪えながら、スクアーロはじっと花子の手つきを見ていた。なめらかに滑るよう動く指先が時折ふいに動きを止める。涙がにじんでなにも見えていないようだった。スクアーロが右手の傷だらけの指をそっと花子の目元に近づけると、伝うように涙が落ちた。傷にしみて少しだけ痛かった。
「花子、オレは、もうお前とは会えないようなところに立つことになったんだぁ」
「……うん」
花子の指がまた動き出す。
「だからお前に会えるのもこれが最後だぁ。ただでさえ遠くなるのに、もしお前が日本に帰ったりしたら、日本とイタリアじゃあもっと遠いよなぁ。会いたいと思って、抜け出してここへ来ても、きっとお前はいない」
「そうかもしれない」
「だがなぁ、花子、オレはお前に会えたことを神に感謝してる。疑うなよ。本当だ。もしオレがあの時考え事なんかしてないでちゃんと前を向いて、足元に気をつけていたら、お前の店なんてさっとよけてそのまま通り過ぎていってたかもしれねぇ。オレは運命なんざ信じたことはないが、お前との出会いは運命だと信じていいと思ってる。お前にもらったブレスレットに、お前の姿を重ねているくらいだ。だから戦っている間ずっとオレの心を支えていてくれたブレスレットが壊れた時、頭がおかしくなるかと思った」
花子はなにも言わずに、震える指先を動かしている。
最後の金具が留められない。
「花子、次にこのブレスレットが壊れる時は、オレの剣と、オレの心が折れた時だ。だから絶対に壊れねぇし、誰にも壊させやしねぇ。絶対にだぁ」
「ありがとう……」
かき消されるほど小さな声を合図にしたように、金具はぴったりと留められた。
もうそろそろ、帰らなければならない。おそらくヴァリアーのメンバーが躍起になってスクアーロを探しているだろう。一緒にいるところを見られれば、もしかすると、花子に危険が及ぶかもしれない。ブレスレットがしっかりと留まっているのを確認してスクアーロは立ち上がった。
「スクアーロ、私ね」
自分よりもいくつか年上の、小さな肩が縮こまって震えていた。それを目にした瞬間、触れて安心させたいような衝動にかられたが、スクアーロはぐっと唇を結んで我慢した。いつまでも彼女に未練を持つわけにはいかない。彼女だけではなく、今まで生きてきた世界の全てに別れを告げなければならないのだ。
オレは今よりもっと裏の世界の人間になるんだ――それこそ、闇の奥の一番深い部分に巣くう人間に。
スクアーロが背を向けようとした瞬間、花子は真っ赤になっている顔をあげて、つくろうように微笑んだ。
「ずっとスクアーロと手を繋いでる。その銀の鎖がきっと、あなたとあなたの剣を守るから」
スクアーロは身をかがめ、突き動かされるままに手を伸ばした。
小さな頭をかき抱いて、白い額に唇を押し当てる。細い肩に触れた左腕が、確かな感触をつかんでいた。
時が止まったような一瞬の後、座っていた木箱を蹴飛ばすようにしてその場から飛び出した。
花子のぐずるような泣き声が聞こえたが、ふりかえらない。全身が血の噴き出すような痛みを訴えても走り続ける。重い身体を引きずるように右腕をふり、足を動かす。喉が締め付けられるように痛い。知らず知らずのうちに流れていた涙を風がぬぐいとっていく。うずくような全身の痛みが引き起こした涙ではなかった。
食いしばった歯の隙間から声が出そうになるのをスクアーロは必死に堪えていたが、とうとう、獣のような声で唸り泣き叫んだ。少年は今すぐに大人にならなければならなかった。
彼と同じ黒の服を着た人間たちが寄り集まり、そして消えていく。やがて少年の姿も声も、彼らと同じように暗い闇の中に溶け込んだが、手首の小さな輝きだけは、いつまでもそっと彼に寄り添っていた。
おわり
TITLE:vertige より「手を繋いでいて」
DATE:2007.4.15
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